2011年11月13日日曜日

楽譜を読む─継続か一時か─

楽譜の音量記号をどう解釈したらよいか、ということについて考えてみましょう。

楽譜に「f(フォルテ)」と書いてあったら、その音量はどこまで有効だと思いますか?
例えば、下の譜例1では、音量記号は「f」しか書いてありません。もし、フォルテに有効期限が無いのであれば、この曲はいつまでもフォルテしか出てこないので、ずっとフォルテが継続するということになるでしょう。

もちろん、これだけの譜例では情報が少なすぎます。実際には、曲の内容はもちろんのこと、作曲者の年代や国、作風などによって結論は変わってくるでしょう。
例えば、古典以前の古い音楽では、強くしたいところだけにフォルテを書いていました。そしてその有効範囲も非常に恣意的でした。従って、まず第一に「楽譜の音量記号の有効範囲に定義はない」ということは言えると思います。
ですから、例えばバッハの楽譜を見て「ここにフォルテが書いてあるから、次に音量記号が書いてあるまでずっとフォルテですか?」みたいな質問は、通常はナンセンスです。
(もちろんその楽譜に現代的な校訂が入っていれば別ですが)

ところが、今どきの作曲家は楽譜の厳密さを追い求める傾向があるので、範囲が恣意的であることがだんだん許せなくなってきているように思えます。例えば昔なら譜例1で済んだような楽譜でも、譜例2くらい音量記号を丁寧に書いているのです。
実際、今生きている作曲家なら、いろいろな人から質問を受けて「ここがフォルテなのに、またフォルテが書いてあったらどちらのほうが大きいのか?」みたいなことを言われ、面倒だから絶対そんな疑問を抱かないように厳密に書いてやる!という思いが強くなってしまうのではないでしょうか。
その気持ちはとても理解出来るけれど、残念ながらそういう傾向が強くなるほど、人々は楽譜を見て考えなくなり、機械的に記号を判断するようになるでしょう。それは最終的には音楽性の貧困を招くような気もするのです。


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それはさておき、比較的現代に近い作曲家であっても、世の中にはまだ譜例1のような楽譜は存在します。
もし、音量記号が次に何かの指示がない限りずっと有効であると仮定すると、2番目、3番目のフォルテ指定は無意味ということになります。
しかし、作曲家が無意味な音量指定すること自体おかしな話です。そのことを2つめの原則として挙げるとすれば「楽譜上に記述される指示に無意味な記号は無い」と言うべきでしょう。

そのように考えていくと、譜例1はフォルテはずっと継続しない、という考えのほうがむしろ正しいように感じます。
その結果、演奏家が譜例2のように、何らかの具体的な音量を想定する必要が出てくるわけです。そしてそれこそが、演奏家が楽譜を読み込んだ上でどのように解釈し、どのように演奏するか、という行為だと私は思うのです。

もう一つ、意地悪な例として譜例3を挙げてみます。
フォルテからクレシェンドしてまたフォルテ。そこからクレシェンドして、またフォルテ・・・。
これは、記号が継続的に振る舞う前提に考えれば、フォルテからクレシェンドするのだから、その後にフォルテがあれば、少し音量が落ちることになります。
しかし、クレシェンドした先で音量が落ちる、というのはやや不自然であり、その場合は注意を喚起するようにsubitoを付けたりするでしょう。
こういう点もフレーズを良く吟味すれば、クレシェンドの頂点としてのフォルテなのか、急に音量が下がるフォルテなのかは、音楽的に明確なのではないかと思います。
こういう点も楽譜をどれだけ読めるかというセンスの違いとなって現れるのではないでしょうか。

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