2011年11月30日水曜日

大阪維新があぶり出す日本の心

あまり政治的な主張をする気は無いのですが、先日の大阪府知事・市長選のダブル選挙っていろいろな観点で興味深いイベントだったなあと感じました。
私自身は大阪都構想の是非については、特に賛否はっきりしているわけではありません。二重行政が良くないのは当たり前のこと。これを改善する手法として何が良いやり方なのかは、それなりの知見が無ければ意見が言えるものではありません。

むしろ、この選挙の本質は政策では無いところにあるような気がするわけです。
大衆はヒーローを求めます。悪者をまつりあげ、それをバッサバッサと批判していくさまは全く快感で、自分の日常の不満を代弁してくれるその存在が頼もしくてなりません。
その一方、自分の考えをぶち上げ、それを成就させるために手段を選ばないような強権的な手法に、漠然とした不安を持つ気持ちもあります。
自分がどちらの立場にいるかでその印象も180度変わってしまいますが、仮に叩かれる側にいなかったとしても、世の中を動かす世代にとっては、このような批判をてこにのし上がって来る傍若無人な若者にはたいてい嫌悪感を示すことが多い。
橋下氏があぶり出すのは、そういった私たち一人一人の生き方・考え方の基本的なスタンスです。実際、選挙後思うのは、私の周りの多くの人は、橋下氏に対してあまり好感を持っていない、ということです。

先に私の気持ちを言ってしまえば、基本的に今回の選挙結果については肯定的です。
さらに言えば、橋下氏に嫌悪感を抱く感覚に、不満を感じます。そう思っている人に直接は言えませんが、反橋下的な人々は、基本的に革新を嫌い権威を好む傾向を感じてしまいます。それはものごとを進める際にいつも足を引っ張るような考え方です。

特に良く言われる「独裁」という言葉には非常に抵抗を感じます。
民主的な手続きで選ばれた人が自分の意志で政治を行うことは全く当たり前のことで、恐らく日本人から見れば、アメリカもイギリスもフランスも独裁に近い状態ですが、それらの国の人々が為政者を「独裁者」などと批判するなど聞いたことがありません。
そこに日本人の感性を見る思いがします。
我々は全ての意思決定を特定の個人に委ねることを、極端に嫌がる傾向がある気がします。だから、権限が集中するそういう個人を排除しようとします。
ところがその一方、個人が中心にいる集団がある一線を越えてしまうと、特定の個人が神様に近くなり、まるで新興宗教のように個人をあがめ奉るような状況も起こり易いと感じます。
独裁か神様か、私たちは見事に支配者を単純化してしまいます。個々人が自律的に判断したいと思う意思を持っていれば、恐らくこんなことにはならないでしょう。

我々はそういう心象を知っているからなのか、それが例えば戦争に向かうような本当の独裁になってしまうかも、という恐怖を感じるのかもしれません。
しかし、そのために意思決定力が無いトップがあちらこちらで間抜けな事態を引き起こしている現状を考えると、有能な人を一人選んで、その人に自分たちの未来を預けることを我々はもっと肯定していかなければいけないと私は思います。その上で、その個人が暴走したときに止める仕組みさえ持っていれば良いのです。
今は、みんながトップの足を引っ張る仕組みしか無いように思えます。
私は今の政治家の質が低いとはあまり思っていません。みんなが思うような理想の政治家などこの世の中にはいないのです。
誰もが権力を握りたい欲望を持っていて、その欲望はまず現権力を否定しようとします。我々はそのための仕組みを持ち過ぎているのではないか、そんな気がするのです。

残念ながらそのような日本の仕組みを変えていくためには、今はとんでもないパワーを持った個人が必要だと私は思います。いつか、健全な政治が実現するために、今はそういったパワーを期待してしまうのです。
でも、こういうのもヒーローを求める大衆心理と変わらないと言われちゃうんだろうなあ・・・


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