2011年1月6日木曜日

編曲市場を夢想する

編曲の演奏って、基本的に機会音楽なんだよなあ、とふと思い付いたのです。
演奏団体が、今巷で流行っている音楽を自分たちの編成で演奏したい、という需要は確実に存在するわけですが、それに対する編曲側の供給体制は全くと言っていいほど整っていません。
現実には標準化された編成の一般楽譜がいくつか出版楽譜として流通しているだけで、演奏する側はその楽譜を探すという選択肢しか考えていないように思えます。
残念ながら、自分たちのやりたい曲を、自分たちの都合の良い編成で演奏できる編曲というのはほとんど無いハズ。結果的には、編曲ステージにおいても出版された楽譜の中の曲を選ぶ、という消極的な選曲方法しか無くなってしまうのです。

こういった現実を考えると、日常的に編曲をしている私としては、もう少し何とかならないかなあと思います。
そもそも編曲ステージは、最も演奏団体のオリジナリティを示すことが出来るステージです。
作曲された曲は、どうしても作曲家にオリジナリティが帰属してしまいがちです。しかし編曲ステージは、ステージのテーマをどうするか、どんな曲を選ぶか、どんな編曲をするか、誰かにソロをさせるか、等々演奏団体のオリジナリティをいかんなく発揮できます。
もちろん、このようなステージをするためには、専属のアレンジャーが必要ということになります。

それが恐らくスゴい荷が重い作業だと感じているのでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?
有名な作曲家でないと(出版された楽譜じゃないと)編曲のクオリティが低いのでは、などと漫然と思っていないでしょうか。もしそうなら、まずその感覚を変える必要があります。
例えば音大の作曲課程で学ぶ人は何百といます。音大出でなくても(私のような)好事家もたくさんいます。ある程度の近場の都市まで範囲を広げれば、編曲を頼めるような人はいくらでもいます。
出版譜は、出来るだけたくさん売るために、汎用性が高い編成で、基本的には音楽的冒険も少ないです。逆にやけに作家性を強調されたりもします。例えば合唱編曲などの場合、私の想像するに、出版譜と同程度の編曲を出来る人は国内に一万人くらいはいると思います。
それほどたくさん楽譜を書ける人がいるのに、演奏側はその存在を知らずにいます。残念ながら、それを結びつけるシステムが無いのです。

それから、演奏家は作曲家をやや絶対視し過ぎです。
特にクラシックの場合、作曲家という人種がベートーヴェンやらモーツァルトのような偉人と連綿と繋がる尊敬すべき人たち、という感覚が強いのでしょう。
変な編曲なら文句を言えばよいのです。上手く演奏出来ないなら変えてもらえばよいのです。もちろん、人間関係というのもあるでしょうから、それなりのマナーは必要でしょう。しかし仕事の役割が違うだけで、お互いが必要な主張はやはりすべきなのです。
演奏側は文句を言うためには、それなりのリテラシーが必要になります。それは演奏家のレベルを高めます。編曲する方も現場をより知った方が良いものを書けるようになるでしょう。
もし、楽譜を書く人に文句を言いにくいのなら、音大出たての若手に頼んでみてはどうでしょう。かなり安くやってくれるし、文句を言えば何度でも書き直してくれるかもしれません。才能ある若い人が伸びるためにも、そういうやり方はむしろ賞賛されるべきです。

そんなわけで、演奏団体はもっと近場の音楽家に、自分たちの希望を言って編曲してもらう、ということをどんどんやるべきだと思います。
売り物の編曲楽譜を使えば、普通の作曲家のオリジナル作品を演奏することと大して変わりません。自分たちで企画した編曲ステージのほうが、お客さんにとっても絶対に楽しいと思います。

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