2010年12月9日木曜日

隠すより、出しちゃおう

ウィキリークスのニュースが毎日のように報道されています。
私なりに考えるならば、彼らにはあまり非がないように思えます。そもそもジャーナリズムって、場合によっては政治や公の場にいる人たちを告発したりすることだってあるもの。そうやって、権力を監視することで、社会の均衡を保っているという役割だってあるはずです。
そういう情報源は結局は内部告発者。それを大々的に、あまりに鮮やかに、莫大な量で公表したというだけのこと。やり方やその量を問わなければ、これまでのジャーナリストがやっていることと大して変わらないように思えます。

尖閣諸島のビデオ流出については、違法性はありそうですが、後になって、海上保安庁の人たちは誰でも見れたと聞くと、さもありなんという感じです。
そもそも社内でイントラネットを使って書類を共有するのは、業務の効率化のためです。みんなが見れるからこそ、昔に比べ情報伝達が速くなりました。
そんな時代「見られなくする」仕組みを考えることは至難の業です。なぜなら、組織内の人をランクで分け、公開の範囲を制御しなければいけないし、秘密文書がある度に、この文書はどのランクまで公開すべきか、個別に考えなければいけません。それだって、漏れさえしなければ何の意味もない作業です。

ネット時代、隠すことは非常に難しい、という教訓を私たちはまざまざと見せつけられました。
今や隠すことは、個々人の倫理観に頼るしか手がありません。しかし、組織に反逆者は付きもの。いつだってリークをしたい人はどこにでもいるし、彼らがその手段を手に入れてしまった以上、もう原理的には物事は隠せないと言えます。

その一方、公開することが力になる事例が増えています。
ソフトウェアの世界では、オープンソースという考えがかなり広まってきました。今や、多くの有名な技術はオープンソースで開発されています。オープンソースとは、プログラムを世の中に公表してしまおうという開発手法です。
公開してしまったら、重要な技術まで赤裸々になり、世間にばれてしまうかもしれません。今でも多くの人はそう考えます。ところが、事実は逆だったのです。少なくとも他人の技術を盗むために、数百万行のプログラムを読む、なんて効率が悪すぎます。どこに重要な技術が眠っているのかなんてわかるわけありません。そして、そんなもの解析しているうちに時間はどんどん過ぎ去ります。
むしろ、オープンソースのプログラムを喜んで読む人たちは、その製品や技術を愛している人たちです。彼らは自分の好きな製品を、もっと良くしたいと思うのです。そして、不具合があると、その不具合の元を調べて開発元に教えてくれます。あるいは、もっと性能を良くしたプログラムを送ってくれる人もいます。
そういう人たちがネット上で集まり、コミュニティを作ることによって、ますますその製品を愛する人が広まり、製品は品質を高め、そして世界的な広がりを得ていくのです。

また別の話。最近、向谷実氏&中西圭三氏がUSTREAMで、レコーディングの様子を全て公表するという試みを行いました。プロのミュージシャンにとって、レコーディング方法なんて企業秘密もいいところ。しかし、それを惜しげもなくさらすわけです。同業者が見るというより、音楽制作に興味を持つ音楽マニアがプロのレコーディング風景を見たがるという需要は確かにあります。それで興味を持った人はその曲を買いたくなることでしょう。曲の制作の様子が分かれば、曲への愛着も湧くというものです。

商品価値のあるものをタダで公表する、というのは一見、もうけを無視しているように見えます。ところが、その結果これまでの10倍、あるいは100倍の人から注目を得るようになり、結果的に大きな商売が出来るようになるという循環です。
何かを為し得たいのなら、世の中に広く知られる必要があるし、そのために多少の損失を覚悟しても価値のあるものをネットで公表してしまう、という方法は、今後いろいろなジャンルで顕在化するような気がしています。

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