2007年1月22日月曜日

理系芸術

いわゆる理系、文系という区分けが、そのまま学問の種類として人文系、自然科学系となり、各学問はそこからさらに分化されていくという考えが一般的。
しかし、最近思うのは、そういった学問の分け方がだんだん意味なくなってきているように思うのです。特に私には世の中の様々な学問が理系化しているように感じます。いや、理系でも文系的素養が必要とされたりもするので、世の学問が全体的にクロスオーバーし始めているのかもしれません。結局、どんな学問でも幅広い教養が大事ってことなんでしょう。
例えば、言語学なども、音声を扱うとなると音声の解析が必要となります。そうなると、周波数解析の手法や、フォルマントなんていうことは最低限知らなければいけません。経済などは、もうほとんど数学みたいで、経済理論なんてのも数式で表したりします。
また、どんな学問でも最後には人そのものに研究の目が向かいます。人そのものとは、人間の思考を研究するということであり、これは脳科学によって解明されるべき内容となっていきます。そもそも、様々な調査結果などを分析するにも統計学的な処理は必要で、データを扱う一般的な手法は、もはや理系でなくても必要なことだと思われます。
コンピュータが生活の中で大きな役割を担うほど、否応無しに人々に理系的センスを要求しはじめます。コンピュータに関する知識や技術は、少なくとも今後は義務教育になるくらい基本的なリテラシーとなるに違いありません。

前振りが長かったですが・・・つまり、芸術においても、理系的な側面が今後クローズアップされるのではないか、という想像が出来るわけです。前回書いた明和電機なども、一種の理系芸術であると言えるでしょう。機械を作ることの中にも芸術的な感動を与えることができます。機械がどのように動くのか、どのようなUIを持つのか、どのようなデザインなのか、そういったコンセプトそのものが芸術的審美観で語られても、少しもおかしくありません。
一昨年、朝日作曲賞の佳作を頂いた拙作「E=mc^2」なども、科学理論の中にある種の詩情を感じて作ったものです。相対性理論の世界に抱く憧れを詩に、そして音楽にすることも、これは立派な芸術活動であると思います。何かに心を揺り動かされたのなら、そこには必ず芸術的萌芽が存在するはずなのです。
宮沢賢治など、そういった理系芸術のはしりではないかと思ったりします。詩の中に、科学用語などが平気で使われたり、宇宙、星、といったSF的なキーワードにも溢れています。
芸術というと文系的なイメージしかないあなたへ。これからは理系の芸術が流行りますよ。


0 件のコメント:

コメントを投稿