2005年9月30日金曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える~聴き手のため?歌い手のため?

自分自身もずっと合唱を続けてきて、そんな活動の中で曲を書いていると、あ~こんな風に書くと歌う人は嫌がるだろうな、なんて想像出来てしまいます。なんだかんだいって歌う側は、自分のパートにメロディがあるのが嬉しいわけです。だから、シブい和声の穴埋め処理に追われたり、ひたすら同じフレーズを繰り返したり、同じ音程をずっと続けたり、ハミングしかなかったり、なんていう曲があると不満を隠さない人も多い。
合唱作曲家もその辺りを妙に心得ていて、各パートにきちんとおいしい箇所を散らせてあげたりなんかするし、盛り上がりの場所でも全パートが気持ちよくなるような音域や動きになっていたりします。実際、こういう曲は歌い手の評判は高くなるのだけど、果たして聴く側はどうなのか?

先日の世界合唱の祭典でも、自分が聴く側になったときの気持ち良さって、歌う側の気持ち良さとは違うんじゃないかと思ったのです。
例えば、大賞賛を浴びたオスロ室内合唱団。会場内に一人一人が散らばって歌ったときは、私も近場の人の声を聴けました。ある曲の中では、各自が同じ音程をずっと小音量で歌い続けるのですが、それが合唱全体になると素晴らしい音響を作り出すのです。まず同じ音程、音量をずっと保つその発声の技量に驚いたのだけど、歌手にとってみればマシーンに徹するようなそんな表現は必ずしも嬉しくはないはず。
しかし考えてみると北欧の合唱音楽というのは、歌い手に非常に厳しい発声技術を求めるストイックなタイプの曲が多いような気がします。半音でぶつけたままロングトーンで延ばすとか、クラスター的な密集和音の曲とか、高音でも小音量を求めたりとか……。しかし、そういった表現は、発声がよく訓練された歌手の演奏にかかると、何ともいえない神秘的な美しさを表現することが出来るのです。
アマチュアの場合、それほど高い声楽的性能を持っていないのは仕方がないけど、所詮合唱で人を感動させるのは人の声なわけで、それを際立たせようとする曲作りこそ、本来求められるべきだとは思います。しかしながら、アマチュア全盛の日本においては、歌い手が嫌がる曲というのはなかなかメジャーにはなれないような気がしてしまいます。

2 件のコメント:

  1. インストもので考えると、室内楽では「各パートに必ずオイシイところを割り振る」というのは基本中の基本ですね。しかし管弦樂曲では必ずしもそうではありません。室内楽の場合には、他のジャンルに比べると「演奏者自身が樂しむ」という要素が強いからかな?

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  2. 炎のコンティヌオさん、お久しぶり。
    そうか、室内楽では基本中の基本ですか……
    確かに、個々のパートがそれぞれ引き立つような書き方をしたほうが演奏としては面白いですね。
    恐らく、私の言っているのは、もう少し低レベルな話で、合唱団員が「私も主旋律歌いたい~」て言っているような状態のことです。
    逆に室内楽なら、単純なリズムの刻みとか、伴奏に徹することもあると思いますが、合唱ってそういうことがあんまりないという感じがします。

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