2012年6月9日土曜日

構造への希求

音楽にしても、小説・エッセイにしても、建築のような構造物にしても、あるいは仕事でソフトウェアを開発したりとか、パワポの資料を作ったり、長文の論文を書いたりする場合も含め、創作物を作るためには、構造性を重んじる姿勢が必要だと思っています。

特にソフトウェア開発の仕事は多くの人が従事しているわけですが、この構造性という点で創作物全体を俯瞰出来る人と出来ない人がいて、それが突き詰めればソフトウェア開発の生産性に大きな影響を与えていると考えられます。
文章も同じ。最近はメールなどで多くの人が短時間に大量の文章を書く機会が多くなっていると思います。文章がきちんと書ける人というのは、構造性の感覚を持っています。

私たちは一人一人が芸術活動をしていなくても、日常のいろいろな機会に創作物を作り出しているのです。
その創造物の規模が大きくなればなるほど、構造性を持っているかいないかが、その作り上げた創作物の質になって現れます。
日常的に創作活動をしていない人には、その感覚の正体に気が付いている人はあまりいないように思います。しかし文章やプレゼ資料、ソフトウェアなど個別のジャンルについてはハウツー本などもたくさんありますし、その中には創作物の構造性に繋がる考え方もよく書かれています。

もちろん、これは訓練すれば向上するスキルなのかもしれないのですが、元々個人が持っている性向にも大きく左右されるように思います。
構造性を重んじるような人は、俯瞰的な考え方やマクロ的な視野を持っているし、そういう人同士では話の内容も響き合います。構造性思考を持っていない人は、細部にこだわり過ぎたり、個別最適で考えたり、全体の整合性が取れていなかったりすることが多く、全体で見ればという視点を共有出来ないので、議論が平行線になりやすいのです。

以下、私が構造を重んじるような感覚として、思い付くものを挙げてみましょう。
一つは、全体を感じたいと思う感覚。
例えば一つの大きなプロジェクトがあったとします。このプロジェクト全体についての成果物、及びそれを作り出すための仕事を洗い出します。もし納期が厳しければ、ブレークダウンした仕事の粒度を揃えて、順序を考えた上で、時間軸上に仕事を置いていきます。
もちろん、会社で行なうどんな仕事も上記のような方法で計画を練るわけですが、構造性の思考が弱い人が作る計画というのはとにかく内容が甘いわけです。会社で複数人でやる仕事なら有能な部下が何とかしてくれたりしますが、芸術の創作の世界では誰も手伝ってくれません。
そもそもこういう作業をある程度正確に行なえる人しか、創作には向いていないと思います。

次に、構造の中からパターンを拾い出す感覚。
同じような作業をしていれば、そこに繰り返しのような何かが似た感じが出てきます。
しかしどんな仕事でも,完全に同じということはありません。ちょっとだけどこかが似ているのです。どこかが似ていることをきちんと抽出できれば、そこから汎用的なルールを導き出すことが出来ます。
創作家の場合、それは明文化されずに経験値として作家の内部に溜まっていきます。しかし、そのような抽象化されたパターンの引き出しを持っている人は、毎回内容が違っていてもゼロから悩んだりしなくなるのです。

最後に構造性の感覚でもう一つ挙げるなら、分類と命名のセンスでしょうか。
全体を分けるのも、その中からパターンを拾い出すのも、必要になるのは分類する能力です。例えば100曲の音楽データをどういう軸で分類すれば良いか、これを利用する際のことを考慮に入れて分類軸を決定します。どんな場合でも例外はありますから、何を例外にするかも考えなくてはなりません。
分類したら、その分類に命名をしなければなりません。
その命名が不適切だと、新しいモノが現れたときに最初に思ったような分類にならなくなってしまう可能性があるからです。

ある程度、大規模な創作物を作る場合、全体を感じること、パターンを見いだすこと、分類と命名を的確に行なうこと(他にも考えれば出てくると思いますが)、というようなことは構造性を重んじる態度そのものだと思います。
このような態度を持っているかいないか、は表現者にとって重要な資質では無いかと私は考えます。

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