2011年9月15日木曜日

音楽のハイコンテキスト性

音楽は世界共通の言語だ、などと言われます。
でも本当にそうなのでしょうか。むしろ音楽こそ、時代、地方、文化に対する依存度が強く、ある共通の価値観を共有したコミュニティでしかその良さを共有できない、いわばハイコンテキストな芸術なのではないか、と最近は思っています。
確かに文学は、特定の言語に依存する時点で、どうしてもその言語圏でしか味わえない部分があるのは確か。それでも表現主義的でなければ翻訳することによって、その意味を伝えることは可能です。
絵画も描かれている具象的内容が文化に依存しますが、逆に抽象画になるとコンテキスト性が低くなり、全世界の人が感じるままに鑑賞することは可能な気がします。

ところが、音楽はなかなかそう一筋縄ではいきません。
その一つの理由が、音楽がそもそも祝祭的な行事と大きな相関を持っていて、特定の文化圏に非常に強く依存しているという点があるでしょう。
音楽の大きな目的の一つは、そこに集まる大勢の人々をハイな雰囲気に持っていくための手段だと思われます。特に近代以前、人々の行動原理が宗教などに大きく影響されていた時代、音楽はその一体感を醸し出すのに重要な一面を担っていました。
それが、教会で演奏されていた宗教音楽であったり、祭りの際に演奏される太鼓や笛、踊りの音楽だったりするわけです。

また、歌詞がある歌の世界では、言語依存度が高まります。
小説のような意味性の高い表現方法では、翻訳しても伝わる部分も多いのですが、音楽にのる歌詞は意味性よりも感情表現を中心としており、その場合特に特定の言語である必要性が強くなると思うのです。
ある歌がどんなに素晴らしくても、外国語に訳して歌うと、たいていの場合原語の音楽が持っていた力は大きくスポイルされてしまい、味わいも随分変わったものになってしまう、といった想いは誰にもあるのではないでしょうか。

歌だけでなく、楽器にも文化依存度は付きまといます。
楽器の音色がまた、ハイコンテキスト性を高める大きな要素となり得ます。
とはいえ、世界共通になりつつある音色セットというのがいくつか思い付きます。例えばオーケストラの音色、あるいはロックバンドの音色。こういったものは20世紀にメディアが発達したことによって、世界に広く知られるようになり、世界的な音色の共通基盤となりました。
しかし、その一方世の中にはたくさんの民族楽器があります。そういうもので演奏され続けている音楽があります。確かにオーケストラ音楽やロック系の音楽はどこの国でも一般的になりましたが、そういう音楽の中にも、様々な民族的なテイストが残っているものです。
またポップスであっても、特定の文化圏での流行りの音などもあり、新しいハイコンテキスト性が再生産されやすい状況もあると感じます。

だから何なの、という突っ込みはあるでしょう。
しかし、演奏家として誰が誰に何を伝えたいのか、ということを考え出すのなら、自らが作り出す音楽のコンテキスト依存度というのを一度点検してみてはどうかと思います。それにより活動の幅も随分変わってくるものだと感じるからです。

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