2008年6月9日月曜日

芸術論~さらに抽象論

オリジナリティとか個性という言葉はある意味、とても危険です。
抽象的な議論をすればするほど、こういう言葉は空回りし始めます。表面的に捉えれば捉えるほどゲテモノを生んでしまうことも良くあります。単なる表現方法のカタログ化にしかならないこともあります。
ある程度その道を極めた人は、そういう「個性」という言葉の危険性を良く知っていて、だからこそ、今度は逆に保守方向に気持ちを振ってしまいます。今、世にあって、多くの人に支持されている価値観をどれだけ極められるか、そちらだけにしか興味を持たなくなってしまいます。

要するに、個性というのは外面だけで判断しないこと、その胡散臭さに目を背け保守的態度をとらないこと、が大事なのではと私は思います。

外面だけで判断しないというのは実は案外難しい。なぜなら、内面は見えないからこそ内面であり、内面を知るには外面から判断するしかないからです。つまり外面を見るしか判断する手段がないのです。だから、その外面から、外面だけを繕っているのか、内面から自然に発露した外面なのかを判断する目を持つ必要があります。
行動が奇矯だったり、見た目が変わった人を「個性的」と呼ぶことがあります。なかなか普通の暮らしをしていて、普通の格好をしている人の普段の言動から「個性的」と呼ぶのは難しい。だけど、芸術にはそういう要素が必ずあると思います。

保守性に関して、これは新しい価値観を追い求めることを放棄してしまうような態度です。
残念ながら人は年を取るほど、社会的地位が高くなるほど、そして人から信頼を得れば得るほど保守的になっていきます。誰もが認めた価値観をもっとも効率的に、そして完璧に表現してみせることは、世渡り上手な芸術家のすること。しかし、新しい価値観を提示できない人は、本質的に芸術家、クリエータの資質に欠けているのではないかと私には思えます。
もちろん、「新しい価値観」という言葉の胡散臭さをひとまず置いといた話ですけれど。

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