2008年6月12日木曜日

芸術論〜尖ることの難しさ

芸術とはちょっと離れますが、メーカーに勤めていると、どうやったらヒット商品が出来るのか、という話題に触れることがあります。
生活必需品がほぼ家庭に行き渡った今、売れているモノというのは、それしか持たない個性や、凛とした哲学、ある種の尖った佇まいを持っているものです。以前もちょっと書いたのですが、商品にも芸術性が求められる時代になってきたような気がします。じゃあ、そういう商品を企画すればいいじゃない、となると、ことはそう簡単には進みません。

同様に、芸術には何かしら尖ったものがあるハズです。
逆に言えば、どのように尖っているのか、ということが芸術が持つ価値と密接に繋がっているように思えます。個性的とか、唯一性とか、オリジナリティとかそういう言葉は、その尖り具合から来ているものなのでしょう。
尖ったものは一見すると、新規性と間違われます。確かに、何か新しいからこそ尖って見えるし、個性的にも見えます。しかし、新規であることを目標にしてしまうと、全くセンスのない勘違いなものを作ってしまうことになりかねません。私には多くの前衛芸術がそのようなスパイラルに陥っているように思われます。

実は人は想像以上に保守的だと感じたりします。
保守的なまま、尖ったものを作ろうとすると、単なる表面的な新規性に走ります。しかし、時代を切り開く尖った感性というのは、常識を少しだけ外れたところにあって、それは往々にして人々が目を背けたり、侮蔑したり、嘲笑したりするものだったりします。
そういう意味で「尖ったもの」の対極にある価値観というのは常識の権化である学校教育じゃないか、とも感じます。変な言い方をすれば、学校では教え(られ)ないことに尖ったものの芽があるのかもしれません。

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