2005年8月19日金曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える

大それたお題になってしまいましたが・・・

まずは、合唱で扱う詩について考えてみましょう。
このネタ、昔も何度か書いた気がします。これとか、これとか。今回はもう少し視点を変えてみましょうか。

もし、ある詩がその曲に深い印象をもたらすのだとすれば、そのために、まずその詩が、実演奏の中で聴衆に聞き取られなければなりません。これって、当たり前のことのように思えるけど、実際、とても難しいことだと思いませんか。何か、一つ邦人合唱曲を思い出してください。そして、その実演の中で、詩が聞き取れるか考えてみてください。もちろん、長い間練習してきた曲なら、詩の内容もわかっているかもしれません。でも、その曲を初めて聴く人が、一回の実演奏でその詩を聞き取れるでしょうか?
その曲が、実演奏の中で詩を聞き取ることを明らかに放棄しているような曲なら、構わないのです。それは一つの作曲のあり方だと思います。しかし、そうでないのなら、演奏側も、作曲側も、詩を聴衆に伝える努力をしなければいけません。もちろん、全ての詩を聞き取れなくてもいいかもしれませんが、この言葉だけは伝えたい、というのは作る側にも必ずあるはずです。
詩の形式から、詩の内容が聞き取れない理由を考えてみましょう。
一つは、詩の文章が長いと、メロディの中で日本語が間延びされてしまい、記憶にとどめるのが難しいということがあるでしょう。以前の談話にも書いたように、日本語は単位音符あたりの意味量が少なく、情報が冗長になりがちです。アルファベット系の言語の方が、そういう意味では分があると言えるでしょう。
もう一つは、詩が難解な言葉である場合です。これは、例えば古語であったり、非常に抽象度の高い比喩であったり、ある種のシュールな言葉の連なりであったりする場合も含みます。頭の中にすんなり入ってくる言葉でないと、人は知らず知らずのうちに言葉を拒否してしまうのです。特に音楽の中に使われる言葉は、単純で直接的なほど印象が深いものです。
と考えていくと、詩の意味が伝わるためには、詩そのものが、文章の短く、単純で直接的な言葉であることが望まれます。作曲家が詩を選ぶ権利を持っているのなら、そのことをまず深く考慮するべきでしょう。
いくらかの邦人作曲家は、上記の詩選びと逆の方向を指向しているように思えます。そして私には、そういう曲は、それゆえに面白くないのではないか、という気さえしているのです。
「文章が短く、単純で直接的な言葉」は、一見、詩の質を低く見積もられます。しかし、それはむやみに難しい言葉を礼賛するスノビズム的な発想になりかねません。どのような言葉が連なっていようと、良い詩は良い、というただそれだけのことなのに。

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