2005年8月4日木曜日

世界の中の日本

世界合唱の祭典で、日本の団体が演奏した曲目は、やはり民謡をベースにしたものとか、日本的な素材を元に作曲されたものが中心になりました。
しかし、よくよく考えてみると、こういった曲って、それほど日頃合唱団で歌っているわけではないんですね。むしろ、敬遠されがちと言ってもいいでしょう。実際、日本で歌われている合唱曲の多くは、現代詩人の書いた詩に、ピアノ伴奏付きのドラマチックな音楽をつけたものが主流です。しかし、そういった音楽が、このシンポジウムで紹介されないのなら、私たちが日頃楽しんでいる合唱活動は、世界の場に持っていけるものではないことを暗に仄めかしているような気がしてしまいます。

そういった二重構造にどこか釈然としないものを感じます。
確かに、日本的な素材を用いた合唱曲の方が外人ウケは良いでしょう。しかし、だからといって日本人が世界に通用するために、そういった民族系のものをやるべきだと考えるのは、むしろ逆説的に西洋史観的な立場に立っているように思えてしまいます。
欧米人が、純日本的、あるいはアジア的、アフリカ的、のようなエキゾチックなものを楽しみたいと思うのは、意識の裏に、中心に対する"周辺"と感じる気持ちがあるように思います。少なくとも合唱を含めたクラシック音楽は西洋中心に発展してきたわけですから、誰とても西洋中心史観で見てしまうのは当たりまえです。

こういった態度は例えば、西村朗氏の作曲態度に非常に顕著に思いました。彼は日本的、アジア的なものを作曲の中に取り入れることを、自身のアイデンティティとしています。しかし、そういった発想こそ西洋中心史観のたまものとも思えるのです。海外で三島由紀夫がよく読まれるのと同じ構造です。無論、芸術的価値が高いものであれば、どんなアプローチであっても最終的には構わないでしょうけど。

なんだか否定的な言い方になってしまいましたが、何が正しいのか断定するつもりはありません。
ただ、私としてはありのままの自分たちを見てもらい、そして評価してもらいたい。民謡の世界にどっぷり浸かって生活しているのならともかく、そうでないのなら、自分たちの好きな歌を歌えばいいと思います。他人が面白いと思うものを先回りして考えすぎてしまうと、その意図が透けて見えた場合、何だか居心地の悪さを感じます。
本当に自分の心から伝えたい言葉が見つかったときこそ、クールかつホットな演奏ができるのではないでしょうか。そして、そのときが本当のスタートラインになるような気がするのです。

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