2005年2月20日日曜日

教育と国民性

ゆとり教育の見直しという話題がニュースを賑わせていますが、今日の新聞に学習到達度世界一と言われるフィンランドの教育事情に関する記事がありました。世界一ということで日本からの視察も多いそうなのだけど、実際のところ授業時間は日本より全然少ない。しかも、今後は日本で言うところの総合学習のようなものが増えるらしいのです。
しかし、もっとその根を質すと、個人主義が根ざしている社会で、生徒間、学校間の成績の競争のようなものもないし、授業に関する学校の裁量もかなり大きいのです。中学卒業時に十分な成績でなければ、もう一年やり直すことも可能。それに対して「落ちこぼれ」などというレッテルが貼られることもないのだとか。
これだけ見ると、なんて羨ましい環境だろうと思うのですが、実際のところ教育問題というのはその社会の有り様を反映する鏡のようなもので、国民性の違いが大きく影響しているように感ずるのです。つまり上記のシステムの影には、必ず自分のことは自分で解決しなければならない厳しい自己判断を要求する社会という側面が隠されていると思います。
翻って、日本の教育を考えると、知識の詰め込みに対する批判が常にありますが、日本の教育が判断力よりも知識の詰め込みに終始するのは、日本の社会が知識のある人を要求していることの裏返しでもあるわけです。
社会生活では、常に物事を決めるために判断しなければいけません。恐らく欧米では、判断力のある人に判断を任せる方法をベストと考える。それはスピーディではあるけれど、独裁も招きやすい。だからこそ、正しい判断が出来る人こそ社会から望まれます。
では、日本はというと、個人の判断よりも話し合いでの結論が求められる。スピーディさよりも表面的な一致団結を求めるというわけです。だから、そういう意思決定の場では、判断力よりも、判断するための材料をたくさん提示できる人が望まれる。つまり知識の多い人が何より重宝されるのではないか、とそんな気がするのです。
教育というのは、結局その社会でどんな人材が要求されるか、というのを反映せざるを得ないわけですから、恐らく外国の例というのは簡単には日本で実施するのは難しいことではないでしょうか。

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