2015年9月17日木曜日

人が格差で分断されるということ

政治や経済に詳しいわけではないけれど、マクロ的に社会を論ずることは大好きです。
これまでもいろいろと未来社会を想像してきましたが、私が考えていることは、非常に特定のシチュエーションや特定の人たちに特化していたような気がしてきました。

実際には、世界はもっとまだらに変化し、ある人たちは想像以上の変化が起き、またある人は今と大して変わらない未来が待っているのかもしれません。
いずれにしても、全ての人に同じような未来が訪れるわけではないだろう、ということです。


人々がまだらにしか変化しないということなら、それによって格差はどのようにして付いてしまうものなのでしょう。

お金を持っている家庭に生まれた子供は良い教育を受けることが出来ますが、そうでない子供は教育機会さえ持ち得ません。
結果的に、親の貧富が社会的に子供に影響を与えてしまいます。こういったことは統計的にも明らかなことのようです。

ただ、これは必ずしも受けた教育の質だけの問題ではないような気がするのです。
収入の多い人と、少ない人では、モノの考え方も違っています。それは単純に政治的信条が違うというレベルに留まりません。
場合によっては、風習や伝統といったものへの対応、行動様式、ある言説に対する反応、そういった物事に対して、大きく考え方が隔たっていることがあるように思えます。

考え方の違いは文化的な差になり、格差のある人々はついにお互いに話しても分かり合えないほど、考え方や指向性が変わってしまうことがあるのではないでしょうか。
このような状況においては、お互いが違う人たちを避けるようになり、コミュニティがどんどん分断されていきます。
日々の接触が少なくなるにつれ、考え方が分かれてしまった人たちが同じ考え方に同化することはほぼ無くなってしまい、詰まるところ暴力的な対立になるまで発展してしまうのです。
そして、このように分断された人々の収入の差は、考え方の分断と何らかの相関があるはずです。


ネットはそのような状況をますます加速させるでしょう。
人間はこれまで地域性で分断されていましたが、これからは人間性や、基本的スキル、そこから派生する考え方の相違によって人々は分断されていくでしょう。

分断された人たちからは、例えばテロを正当化するような考え方が生まれるかもしれません。それをいくら他の人たちが糾弾し、道徳的に訴えかけたとしても、そういった一派がある種の宗教性を持ち始めると、ほとんどお互い理解不能な領域に入ってきます。

日本人はそこまでお互いが対立するようなことはこれまでありませんでした。
今も安保法案で多くの人が国会議事堂前でデモを行っていますが、この平和な世相で何か不穏な事件が簡単に起きるわけでもなく、お互いが大げさな事態を想定して、空虚なもしも話をしているだけのようにも思えます。
ここで分断された人々も、おそらく何らかの格差が傾向としてあるのだと思います。

このような格差のある集団が、考え方の違いで分断される状況は社会をどのように変えていくでしょうか。
テクノロジーが人々の暮らしを豊かにするであろうことを予想する反面、このような格差をじわりじわりと生んでいるという側面はあると思われます。

同じ場所に暮らしていても分かり合えない人たちと一緒に暮らし続ける時代。それはますます私たちを精神的に疲弊させるでしょう。このような事態はいったいどのように解決されるべきなのでしょうか。なかなか結論が出せない問題です。


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