2015年1月31日土曜日

私たちを分断するもの

連日イスラム国の人質事件がニュースから流れてきます。
普段日本で生きているだけでは、事件の起きる背景や、現実など皮膚感覚では知る由も無いのですが、あのような暴力的手段でも国家という秩序を構築しようとするそのモチベーションに今の常識とは異質なものを感じます。

それほど極端な考え方ではなくても、日々Twitterでいろいろな識者の意見を聞いていると、全く見事に正反対の意見が激しく交わされているのを見ることができます。
政治的な主張なら、雇用労働関係とか、経済政策とか、外交政策とかそういうものに関してもネット上で多くの人が討論、というよりは一般人が有名人に食いかかっていたりするわけです。

ネットがあるから簡単に可視化されるようになり、表面化しているだけかもしれません。
しかし今まで交わりもしなかった人たちがネットで反対意見を言い合うことによって、その主張がより先鋭化してしまい、お互いがどんどん過激化してしまう、ということはあるような気がするのです。


IT化による情報の可視化は、人々の思想を明確にさせ、お互いがより過激になり、結果的に人々を分断する原動力になってしまっているのではないか、と思ったりします。
ITが開いたパンドラの匣は、まるで人間を試しているように感じます。

人がここまで進化してきたのは、人同士で協力し合うという力を得たからだと私は考えています。人同士で協力するためには、相手が敵か味方か判断するために多くの記憶を必要とします。人間の脳の発達は、まさにより複雑な人間関係に対処するために生まれたのではないでしょうか。

古来、人間はたくさんの争いごとを行ってきました。
それは、まさに人間が協力する動物であることの裏返しでもあるのだと思います。つまり、敵味方をはっきりさせ、味方同士で集まれば、それと違う集まりも生じ、そこに争いが生まれます。
協力したもの同士の力が大きくなるほど、その争いも大きくなっていきます。

これまで協力するもの同士は、一緒に暮らすもの同士でした。
だから、これまでの争いは部族間、集落間、地方間、そして国家間とスコープは広がりながらも、違う場所に住む者との争いだったのです。

ところが、IT化以降起きていることは、少し様相が違います。
同じ会社や組織の中で当たり障りのない程度に一緒に暮らしながら、モノの考え方とか哲学とか、政治的指向とかが全く違っていて、ネットの情報で自分の考え方を日々育てながらまるで別の人生を生きているのです。


冒頭のイスラム国には、欧米から戦闘員の志願者が集まっていると聞きます。
もはや民族や宗教も関係ないのです。
実際のところ、考え方に共鳴しているわけではないのかもしれないけれど、ここではないどこかに自分の居るべき場所があるのではないかと思う人がいても不思議ではありません。

情報が氾濫し、一人一人が社会や集団の常識などから解放され、自分の心と対峙できるようになったとき、今まで人々を無意識に連帯させていたものも同時に崩壊し始めているのでしょう。
そのような未来に、人間はどのように新しい連帯を始めなければいけないか、それが問われ始めているのではないでしょうか。

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