2012年2月8日水曜日

創作活動は無視との闘いである


作曲でも、小説を書くのでも、絵やイラストを描くのでも、たいていの場合、需要より供給過多です。
正確に言えば、ある一定レベルの品質をクリアしていないと需要の対象にさえなりません。一握りの有名人ばかりに需要が集中し、その対象にならない人は供給の列にさえ加えさせてもらえません。残念ながら世の中には、敢えて刺激的な言葉で言えば、クズのような創作物で溢れています。

子供が学校で書いた絵とか詩は、まあ普通はクズとは言われません。
みんなが一生懸命書いたのだから、一般的に言えば教育的配慮からそのようなことを言えるはずもありません。
学校で芸術活動させるのは、何かモノを作る経験をさせることにあるのでしょうが、それでも、作品の質からいえばほとんどの作品は取るに足らないものです。

普通はそこで自分の普通さ加減に気付き、やっぱり私は芸術家には向いてないわ、と諦めるのでしょうが、ときどき逆側に振れてしまう芸術家気質の人たちが一定数います。
気質と能力はたいていの場合別のものであり、気質を持った能力の無い人たちが、むなしい芸術活動を始める悲劇がそこから始まります。

そんな人たちはどうやって生きていったらいいのでしょう?
気質がある以上、作らずにはいられません。でもそこから先はいばらの道です。世間からはたくさんの成功した芸術家のサクセスストーリーが聞こえてきます。聞こえてくるどころか、Twitterで直接生の声さえ聞くことができます。
自分の作る物と、有名な人の作るものを比べて、大して違わないと感じたり、なぜこんな作品が世にもてはやされるのかと憤ったり。草クリエーターはいつも、自分にはとてもかなわない有名クリエーターの作品を批評・批判し続けているのです。

世の中で有名なことと、実際の実力は比例しないことは確かなことです。
偶然何かの拍子で有名になってしまった人たちも実際には多い。J-POPの世界でいえば、音楽的に本当に優れている人はごくわずかで、むしろ彼らにとって重要なのは舞台におけるカリスマ性とルックスと、あとは歌詞の中身でしょう。
とはいえ、自分が認められないことは誰のせいでもありません。ほとんどの創作家は認められないまま生涯を終わります。宮沢賢治は死後認められましたが、これとてラッキーな例だと思います。

こういった事実を創作家は受け入れなければ、自らが作り続けることはできないのです。
それは壮絶な世間からの無視との闘いです。100人中99人は無視されたまま消えていきます。しかし、それを当然のことのように受け入れ、無視されても作り続け、万に一つの可能性にかけて生涯かけて作り続けること、これが芸術家気質を持ってしまった創作家の宿命なのだと思うわけです。

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