2011年3月9日水曜日

キュレーションの時代/佐々木俊尚

話題の本「キュレーションの時代」を読みました。
ネットでツイッターやフェイスブックが流行っている、ということを漠然と知っていても、それがどのような大きな流れに繋がっているのか、そういうことを的確に把握している人は少ないと思います。
私もこのブログ上で、レコメンドシステムなんてことを考えたりしてみましたが、そういう考え方も、この本の考え方の一部だったような気がしています。

この本が伝えることは、マスコミ主導による画一的な大量消費時代は終わり、ネットを介して好き者が勝手に結合するビオトープ(生息空間)を形成し、その中で発言力のあるキュレーターが情報を整理して再構成していくような社会になっていくだろうということ。
私たちはマスコミではなく、そういったキュレーターの情報を収集し、自分たちの消費行動を決定していく。
冒頭のジョゼフ・ヨアキムの逸話が秀逸。全く名もない老人の描いた絵が偶然、美術家の目にとまり、現代アートとして認められることになるまでのストーリーが紹介されています。ここで、この老人の絵に注目した人がキュレーターの役割を担うことになります。
コンテンツはそれ単体では世の中に伝わらない。そのコンテンツの持つ背景や、社会的、芸術的意味とセットで紹介するからこそ、広くその価値が知られるようになるというわけです。こういったコンテキストとセットで紹介することを筆者はキュレーションと呼びます。

キュレーションには、それが信頼たり得る情報となるための信用が必要です。
それは長い間にキュレーターが蓄積した信用でしかなく、つまりキュレーターの人となりということになるのではないでしょうか。企業がお仕事で行う広報活動とは根本的に違う、個人的な信用の世界。
私が本書で、最も深く感じたのは、まさに「魅力ある個人」に人が集まる、ということ。一見当たり前のように思えるけれど、ネット時代に「魅力ある」と思える人は、現実社会で魅力があるのとはちょっと違うと思います。
まず、その人自身が確固たる思想と、個性的な嗜好を持っていること。そしてそれを的確に魅力的に伝える術を持っていること、こういった力を持った人がキュレーターとなり得るのだと思うのです。ここでは、見た目の格好良さとか行動のカリスマ性はあまり意味を持ちません。

逆に本書を読むことによって、これからの世の中でだんだん衰退していくものも想像出来るようになります。
一つはマスコミによる情報。そして企業の宣伝。個人の顔の見えない画一的な広報。
企業は利益を出すためになるべくたくさんのモノを売らねばなりません。それは必然的に多くの人を満足させられる可もなく不可もない安定した製品、サービスになりがち。ところが、趣味嗜好が細分化され、ビオトープ化した集団にはそのような無個性な製品やサービスには魅力が感じられません。
そうすると、製品やサービスを供給する側も、少量で採算が取れるような小規模なビジネスにならざるを得ません。これは、大会社から個人事業への転換を意味する流れになります。

そんないろいろなことを考えさせられる、非常に奥深い本です。
自らが創作活動、表現活動する者にとっては、重要な示唆に富んだ内容が書かれていて、今後の行動にも影響を与えるのは間違いなし。
今、私がぼんやりと感じていた感覚を、ヴィヴィッドにとてもうまくまとめてくれました。

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