2009年4月4日土曜日

日本語を伝える-意味に拘らない

言葉を伝えようとするなら、言葉の意味(シニフィエ)よりもまず、言葉そのものの音(シニフィアン)を伝える必要があると私は思っています。
しかし、多くの人は最初に意味に拘ってしまっているような気がするのです。この文章はこういう意味だから、こういう表情で歌いましょう、みたいなやり方。もちろん、それはマクロ的に見れば間違っていないのだけれど、ミクロ的に見れば、決していつでも正しいわけでは無いと思います。
それ以前に、ミクロ的にやるべきことは言葉の「音」をまず伝えることだと思うのです。

本来、意味を伝えるのは大変難しい作業です。曲の構造の解釈や、作品の持つ世界観を表現するのと同じレベルの話なのです。自分たちの演奏に一生懸命意味を込めたとしても、それが伝わらなければ独りよがりの演奏にしかなりません。
その難しさに気付かずに、意味だけにとても拘っているのはやや芸術的センスに欠けた行動に思えます。本来、芸術が伝えたいことは簡単に言語化出来ない微妙な感情だったり、イメージだったりするからです。それを「悲しい」とか「嬉しい」とかいうシンプルな意味に変換してしまうと、作品そのものの力が矮小化され、「悲しい」「嬉しい」の周辺にある形容し難い印象を消してしまうことになりかねません。
逆に言葉の音がきちんと伝わっているならば、意味は聴衆の脳の中で構築されます。まずは、その効果に頼るのです。その上で、曲全体から醸し出されるイメージが、聴衆の脳内で構築された意味を補強するものになれば、そこでようやく詩が持っている意味が何とか伝わったことになるのだと思います。
つまり言葉の意味はミクロ的(文章のような単位)に伝えるのではなく、マクロ的(テキスト全体の主張として)に伝えるべきなのです。

ですから、まず私たちは言葉の音そのものをきちんと表現すべきであり、きちんと聴き取れるような明瞭な発音と、日本語の持つ音色や音量の変化を演奏の中で実現する必要があるでしょう。

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