2007年9月24日月曜日

工業製品の芸術性 意味にはまる

工業製品にも芸術性という尺度はあり得ます。ということは、それを設計、製造するメーカーにも芸術性が求められるわけです。
だからこそ、そもそも芸術性とは何なのか、その本質的な部分を考えてみたいのです。恐らく、芸術性を感じられる製品と、そうでない製品には、何らかの差があるはずだし、まさにその差に注目することが芸術性とは何かを考えるきっかけになるでしょう。

芸術性なのだから、色使いとか、造形とか、コンセプトとか、メッセージとか、そういうものがうまく調和して表現されている、というのがやはり必要なことです。言ってみれば、それらは芸術性が外面として現れる要素です。
何をもって、これらの組み合わせにセンスを感じるか、それはもう私には理論的に解明のしようが無いと感じます。それらは結局、一言、センスがある、ない、といったレベルの議論に収束してしまうからです。
しかし、そういったセンスのある外面性を出すために必要な条件というのなら、いくつか思いつきます。

例えば、コンセプトとか言うと、芸術性にちょっと疎い人は、どうも大層なお題目を言ったりとか、言葉の「意味」にがんじがらめになってしまう傾向があるように思います。意味を考え始めると、健全かつ建前的な方向にどんどん向かっていくことが往々にしてあります。そして、本来芸術が人の心を揺さぶるために持つはずの一種の毒が、そこでますます失われていくのです。

一つの例として、まずある新製品を出す際のコンセプトを考えてみることにしましょう。
こんな意見が出たらどうでしょう、例えば「平和」。もちろん、平和であることは素晴らしいことだし、戦争を続けている地域に対する憂慮も表現できるかもしれない。非常にポジティブかつ社会的に健全な主張です。しかし、題目が抽象的で製品の外面にどのように反映させるかは、大変難しそうです。
ではもう一つの意見として、「クラゲ」はどう思います? いや、単に今、私が思いついただけなんですが・・・。なぜ、クラゲなのか?後付けでなんらかの意味を付与することは可能ですが、究極的にはそこに意味はありません。ただ、ナンセンスでシュールな取り合わせが、人々の心を惹きつける可能性を上げるかもしれません。
もしかして、芸術性というのはこんなことの積み重ねかなと思えます。だからこそ、意味を議論するような会議の場で、芸術性を作り出すことはほとんど不可能のように思えるわけです。

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