2006年12月29日金曜日

邦人曲を取り巻く環境

邦人曲の特殊性シリーズ、ほっとくとどこまでも書きそうなので、今年も終わりそうだし、今回あたりで止めておきましょう。
今まで言ったことを全部まとめると、音楽的骨格をピアノに任せて奔放に歌い、宗教的祭儀より平和や学術的なテーマを好み、音そのものより歌詞の意味にこだわり、ロマン派的交響曲の世界を指向し、器楽的メロディより言葉のイントネーションの自然さを気にする、そんな曲が喜ばれているのです。
結局のところ、需要の無いところに供給は無いわけで、皆(合唱団)が欲するからこそ、こういった曲が生まれるわけです。

でも、それって本当に観客が聞きたい音楽なんでしょうか?
みんな真っ赤な顔して興奮して歌っているのに、それに子音もしっかり立っているのに、でもポリフォニックなんで何を歌っているかは認識できず、時折聞こえる言葉の断片からはやたらとシリアスな雰囲気だけが漂ってきて、果たしてこの曲を理解しようと努めるべきか戸惑っている会場のお客さんたち・・・そんな光景が目に浮かびます。本当はもっと直接、感性に訴えてくるような音楽が聞きたいのに、考えることを強要されると、ちょっと引いてしまう。
そのくせ演奏会が終わった後に、ロビーに出てきた団員が「ねぇ、どうだったー」と聞くと「うーん、良かったよー」などと社交辞令を交わすのは、演奏会のマナーでもあるわけで、結局のところこういったアマチュアの演奏会は今後とも延々と続くわけです。

もっともっと質が高くて、一般のお客さんが楽しめるような演奏が、聞きたくなるような合唱曲が、必要なのだと思います。
上手い合唱団が増えれば、観客の耳も肥えていくし、音楽批評も的を得たものになっていくでしょう。そうすれば、さらに上手い合唱団が増えていくはずです。
ことは簡単には進まないのでしょう。100年くらいの年月は必要かもしれません。100年経っても、日本に合唱文化が根付いていないかもしれません。でも、そういった上向きのスパイラルを少しずつでも作っていくしか道はないのだと思います。
作る立場から言えば、今まで言ってきた特殊性の要素を少しずつ崩していって、「おっ」と思わせるような世界観が示せれば嬉しいのですけど。

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