2006年12月10日日曜日

邦人曲の特殊性-テキストの扱い

前回はテキストそのものでしたが、今回はそのテキストをどのように扱うかという話。
別の視点でいうならば、詩に何を求めているのか、ということかもしれません。となると、自然と話は前回と繋がってきます。
例えば、宗教的なテキストの場合、使われる語句が似通っており、定型的な表現になることも多い。一つの言葉にたくさんの想いや意味が込められていて、その言葉の音響自体が一つの雰囲気やイメージを作り出すかのようです。過去からたくさんの人々が同じ言葉を使い続けていて、その言葉の意味は歴史という地層の中で「意味」を超えた役割を与えられているのかもしれません。
民謡や、その他の土俗的、古代的なテキストも同様の傾向を持っています。こういったテキストに曲が付けられたとき、むしろ曲は言葉の「意味」から解放され、純粋に音楽的な創意工夫のみで作られ易くならないでしょうか。
あるいは、言葉の意味を伝えるという役割より、言葉の音響そのものにその言葉の重要性があったりしないでしょうか。

逆の例で言ったほうが分かりやすいかもしれません。
現代の創作詩の場合、詩自体の意味が大事です。ここで言う「意味」とは、言葉単独よりも、むしろ文章に近い単位となるでしょう。詩を伝える、ということは、詩の内容を伝えるということであり、詩の中の文章の意味を歌で伝えるということです。そういう意味では、ここでいう「意味」とは極めて論理的な要素を持っています。
このような状況において、作曲家は詩の持つ意味を音楽的に表現しようと試み、場合によっては言葉と同じ表現方法を音楽に持ち込もうとします。
こういうスタイルは決して邦人曲特有というわけではないのでしょうが、それでも、多くの邦人合唱曲がそのような表現方法を持っているのは確かなように思います。

歌う側もそれを当然と思っていて、詩が何を主張しようとしているのか、それを合唱の中でどのように表現すべきか、というのが日本における合唱練習の中心課題となっています。
残念ながら、楽曲構造とか、主題の分析とか、そういう音楽的アナリーゼの結果から、自分たちがどのように演奏すべきかというアプローチは、日本のアマチュア合唱の世界ではほとんどされているように思えません。

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