2006年12月16日土曜日

邦人曲の特殊性-交響曲のような組曲

一つのステージで何を演奏しようかと考えたとき、合唱組曲というのはちょうど良いボリュームです。そんなわけで、邦人合唱曲のほとんどは合唱組曲という形で作曲されています。
外国曲はどうかというと、もちろん組曲である場合も多いのですが、単品で書かれることも比較的多く、組曲であることにそれほどこだわりがあるようには思えません。

ただこの問題、単純に組曲で書かれているかどうか、という点だけに納まらない要素があります。
それは、邦人合唱組曲が、単品が寄せ集められて作られた組曲、というよりは、各曲が有機的に結びついたり、組曲全体が一つの作品としての大きなうねりを持つように考えられている、という点です。これは、組曲というよりはむしろ交響曲という感じに近いと思います。
交響曲は全体で一曲であり、各楽章は交響曲という全体の中で演奏されることで初めて意味を持つように考えられています。そのため巨大化した交響曲では、第一楽章の冒頭に立派な序奏があったり、最終楽章の最後はこれでもかという盛り上がりが作られます。第二、第三楽章は、キャラクターの違うスケルツォ、緩徐楽章の小曲が配置され、曲全体に変化が付けられます。

こういった、交響曲的傾向が邦人合唱曲全般に見られると思うのは私だけでしょうか。
私の思うに、日本で合唱に関わる多くの人はクラシック音楽マニアではないかと感じることは多いです。しかも、ここでいうクラシックは、19世紀のドイツロマン派的性格が非常に強いです。もちろん、合唱はポップスか、クラシックか、と聞かれればクラシック音楽に近い傾向を持っているとは思いますが、ブラームスやブルックナー、マーラーのような交響曲と比べると、何か違うような気もします。
恐らく、こういった交響曲指向が、ピアノ伴奏を使う、もう一つの理由になっているのかもしれません。つまり、アカペラより音楽を、よりダイナミックで派手に表現できるからです。
しかし、合唱というのはもともと非常に繊細な音色を持っていて、それを静かな残響のある場所で楽しむ、という感覚が欧米人にはあるのではないでしょうか。その感覚は、ドイツロマン派の大交響曲とは、かけ離れているような気がします。そもそも合唱に何を求めているか、という点において違いがあるのかもしれません。

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