2013年2月2日土曜日

日本の変わり方

この手の話題、全く人気が無いことが予想されますが、ブログには構わず好きなことを書いてみたいと思います。

電機メーカーの凋落の話題はもうここ1年くらい、いやというくらい報道されていて、閉塞感という言葉もいろいろなところから聞かれるようになりました。
予想されたことですが、最近のテレビ番組では「でも日本ってスゴいよね」的な庶民をなぐさめるような番組がだんだん増えてきて、正直痛々しい気持ちで見ることもしばしばです。

それに追い打ちをかけるような体罰問題。また単に一部の指導者だけでなく、組織的圧力でヒドい目に合わされたといった事例が日々ネットでも話題になるご時世。

もちろん、体罰云々の報道は一過性である可能性もあります。半年もすればみんなだんだん忘れてしまい、結局体育会系組織では体罰は温存されるのかもしれない。少なくとも今まではそうでした。

とはいえ、こういったいろいろなことに直面している今の日本の状況は、何かもっと日本人の根源的な部分に変革を迫るような事態が起きているのではないかとも思えてきます。

私の拙い推論では、日本人が理屈より情を重んじたり、法律や契約よりも場のローカルな掟やリーダーの意志が尊重されたり、厳格な上下関係を作ろうとしたり、名を汚すことを恐れたりする私たちの特性は、やはり歴史的な経緯から来ているのだと思います。
その経緯とは、日本は島国という環境で、ほぼ単一文化圏が2000年近く続いたということです。
他国に侵略され、異なる言語を強要されたり、身の回りの人間が全く理由もなく虐殺されたりしたことがまるでなかったということです。もちろん国内の戦乱は常にありましたが、それはある時点から異文化との衝突とはほど遠いものだったのではないかと思います。

このような閉ざされた場においては、人間関係が閉ざされていることを前提として社会が作られるようになります。
戦国時代のような戦乱の時代には、若干、下克上のような能力主義に傾いた時代もありましたが、それ以外のときは概ね、生まれがその人の社会での役割を決定したし、統率者の能力の有無に関わらず、自分のいる環境を肯定することが常識になっていったと思われます。

明治維新以降も文明が開かれたとはいえ、日本での活動のほとんどは日本人によってなされており、その単一で一様な社会をそれなりに維持していたと思われます。

それが本格的に変わる予兆を示しているのは、やはりITが一般的になったここ10年くらいだと私は思います。商品レベルではこれまでも輸入品はありましたが、サービスなどでもIT化で多くの欧米商品を皆が触れるようになりました。
そういう場の上でビジネスをやろうとすれば,国際的な感覚を持たざるを得ないはずだし、日本人だけで成り立つ常識が世界の非常識として見えてくるということも起きてしまうわけです。

この流れは避けように無いと私には思えます。
もう昔には戻れないし、古き良き日本を懐かしむことはあっても、そういう感性は二度と手に入らないと思います。日本人の繊細さは日本人の持つ常識と一体化していると思うからです。

世界標準の常識に我々が合わせていかないと、恐らく私たちの暮らしを成り立たせることが出来なくなります。生活が成り立たなければ、それはそれで世の中は変わらざるを得ないでしょう。結局、世界に合わせようと合わせまいと、日本は大変化せざるを得ないように思えます。
では一体、私たちはどう変わっていくのが一番良いのでしょうか?

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