2011年5月22日日曜日

育児から想像する人間機械論2

子供が生まれる前から、子供の成長には密かに興味を持っていました。
前回も言ったように、赤ちゃんが人間に成長する過程から、人間とはどのように作られているのかが発見できるのではないかと思っていたからです。(普通は、そんなことを考えている人は少ないんでしょうが)

しかし、一番人間として成長するこの2年間、結局わかったような、わからなかったような感じで終わってしまいました。取りあえず育児に手がかかるのに必死で、考えている間もなかったというか。
もう一つ言いたいのは、育児に関するノウハウはあまり科学的な裏付けが少なく、流行り廃りがあるという感じとか、科学的な裏付けがないために怪しい情報(トンデモ系)がまかり通りやすい、という点も感じました。抱っこはどんどんした方が良いとか、しないほうが良いとか。
どの時代に生まれた人だって、育て方のトレンドで人間が変わったとは思えませんから、まあ、所詮育児の常識なんてその後の成長にたいした影響はないんじゃないか、と私は冷ややかに見ています。

それから、赤ちゃんをあやすことについて。
よくテレビドラマなどで、赤ちゃんをあやすとニコニコしたりする場面がありますよね。
誰があやすといいとか、あやし方が上手いとか下手とか・・・。昔は、私もそういう技術は確かにあるものだと思っていました。しかし、今となってはその考えにも否定的です。
確かに多少の上手い下手はあるかもしれない。しかし、それでも乳児が泣く、泣き止むという理由は分からないことが多いです。また一度うまくいった方法が、次回にうまくいくとも限りません。そういう意味では、乳幼児の反応はほとんど予測不可能です。

そう思うのは、うまくあやせないからだ、とか、子供によって違う、という意見もあるでしょう。確かに事例としては少なすぎるので一般化は危険ですが、それでも、乳幼児の予測不可能性は、私の中では非常に意外なことでした。これは機械論に反するかもしれないけど、人間のより深い機械性を感じさせる事例です。
そして、人間として成長する、ということは、この予測不可能性がだんだん薄れていくことに他なりません。
実は今現在、ウチはまさにそのまっ只中にいます。
嫌なことをはっきり表現できるようになり、以前の嫌なことときちんと連続性があり、こちらの意図も少し汲んでくれるようになり、気がつくと知らないうちに人間に近づいてきました。もっとも、言葉はまだきちんとは話せていませんが。

特に満1歳以降の一年は、生物が人間に近づく過程だと言えます。言葉の前準備のような感じ。
それは、泣くことの理由がだんだん明確になること、身振りで指示が出来るようになること、毎日やっていることが習慣として記憶されるようになること、といったことが日々、出来るようになっていくのが良く分かったからです。
言葉が話せることは、上のような行為の肉付けに過ぎません。以前は、言葉が話せないとコミュニケーションが取れない、と思っていたけど、実はそれだけじゃないいろいろな要素があるんですね。
ある状況に対してそれなりにきちんと反応してくれる、そういう要素が一つ一つ確立してくるだけで、かなり人間的になってくることが体感できます。

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