2013年10月7日月曜日

一人で生きることとみんなで生きること ─ネット発信と個人力─

IT化はますます個人を丸裸にし、個人と集団の距離感も変えていきます。
そんな時代に私たちはどう行動していったら良いのでしょう?

毎日のようにTwitterやFacebookで自分の思ったこと、感じたこと、日々の出来事をネットに書き込めば、どんなに匿名を装っても、個人を特定することは難しくないと思います。少なくともこれからビッグデータの解析技術が飛躍的に高まれば、少ないキーワードで個人を特定することは可能になっていくような気がします。
つまり日々ネットで発言することは、自分をさらけ出し、世界の誰にでも自分が何ものであるかを表明しているようなものです。
これからは、そういう覚悟を持った上で然るべき発言が出来る人がネットで力を持つことでしょう。

そういう感覚を知ってか知らずか、世の中にはまだSNS的なものを嫌悪し、そういうものとは自分は関わらないという人たちも結構います。
個人的には、その考えは今どきヤバいだろう、と思いつつも、そういう人たちの考えを変えることは不可能だと思うので、適当にスルーしています。
しかし、個人が特定されることで不利益が生じるのなら、確かにその考えもあながち間違ってはいないわけです。SNSをやれば個人情報が漏れることによる不利益もあるでしょうし、そもそもそんなふうにバカなことをネットに書き散らしている自分が世界に晒されるのは耐えられない、という気持ちもあるでしょう。
その辺りは、負の感情による自尊心と無縁の私とは、全く性向が異なっているわけですが。

いずれにしろ、このような両極端の人々がいるのなら、その溝はどんどん深まっていくことが予想されます。
日頃から全てを曝け出そうとしている人は、いろいろと失敗もするでしょうが、それを通して自分を曝け出すスキルも増していきます。
その一方、ネット世界に生息せず殻に閉じた人々は、リアルな付き合いのみで成り立っているような集団に吸い寄せられるように帰属して生きていくでしょう。

現実的には、こういう現象は世代間ではっきり分かれています。
当然若い世代ほど、ネットでのコミュニケーションスキルが高く、そういう世界が前提の生活をしているはずです。そして中高年になると、その比率がだいぶ変わっていきます。
今の40代くらいでも、ネットでバリバリ発信している人はそう多くはないと思われます。そう考えると、全世代がネットで発信当たり前になるにはまだ30年くらいはかかるのではないでしょうか。
とはいえ、世の中の流れを考えれば、個人がネットで情報発信する方向にシフトすることは明白に思えますが、それでもネット内で有名になれる人はごく僅かであり、そういう現実を目の前に、敢えて自分を晒さないという選択をする人はこれからも一定数はいるのではないかと思います。


ネットでの発信度が高いほど、個人が自立していて、集団に帰属する存在理由は減っていきます。
恐らく集団というのは、一人で生きていけない人たちの相互扶助の装置なのであり、そのメリットと引き換えに、生活に何らかの制約が課せられます。

誰もがその制約から逃れたいと思い、一人で生きていきたいと考えます。
そして、それが本当に出来る人たちは僅かな人々です。
そういう世の中の構造が、これから少しずつ明瞭になってくるのでしょう。

私たちの選択は、頑張って一人で生きていけるだけのネット発信力を身に付けるか、そこそこの発信力と縛りの弱い集団の帰属か、あるいはネット発信せずに拘束力の強い集団に属するのか、そういうことが問われるようになるのではないでしょうか。

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