2009年1月24日土曜日

楽譜を読む 見えない作曲家

「楽譜を読む」と題していろいろ書いていますが、結局のところ音楽のやり方に正解など無いのです。私が問題だと思うのは、正解がないものにきっちりとした正解を求めようとすること、逆に正解が無いことをいいことに指示を無視してしまうことです。いずれも両極端な態度ですが、正解が簡単に見つかるようなものなら、そもそも芸術とは呼べないわけで、その中でもがくことこそ音楽することの苦しみであり、また楽しみであるのではないでしょうか。

楽譜を読もうとする時、作曲家が何を訴えたいのか、何を指示しようとしているのか、を読み解く必要がありますが、作曲家の人となりは結局のところ楽譜を通してしか伝えらません。必要以上に作曲家の存在を重視すると、全ての記譜に厳格な意味を求めてしまいがちです。そうすると、論理的に矛盾することがたくさん出てくる。その矛盾に対してさらに厳格に解を求めようとすると、知らぬ間に論理の罠にハマり、作曲家の言いたかったことからさえ遠ざかってしまいます。
楽譜を通してしか見えない作曲家は、楽譜を通してだけ見ればいいのだと思います。少なくとも今生きている作曲家ならば。(古い曲の場合、時代背景も考慮する必要が出てくるでしょう)

テンポのときにも言ったように、指示の直接的な意味をそのまま鵜呑みにするのでなく、その本質的な意味を常に読み解こうとする態度が必要です。
だから同じく"p"と書いてあっても、小さくしたいピアノなのか、大きくしたいピアノなのか、使われ方によって異なる場合もあります。"Tempo primo"といっても、もしかしたら必ずしも最初のテンポと同じでなくていいかもしれません。アクセント、スタカート、スラーのようなアーティキュレーション記号にいたっては作曲家によって、曲によってさえ、その意味合いが違う場合もあり得ます。
でもそれらを読み解くセンスは、日頃注意深く楽譜を読むことによって、十分鍛えることは可能です。でも鍛えた結果は違うものになる可能性もあります。それが、読み解く人が持つ芸術的なアイデンティティとなり、オリジナリティとなるのです。

こんなことを言っていると、結局何を言っても正解かどうかわからない、あやふやな感じを抱くと思います。でも残念ながらそれが真実だと思います。
私が言えるのは、指示の直接的な意味に拘泥して過度にロジカルな解釈を突き進めないこと。どこかの段階で楽譜上の指示を一度曖昧なイメージに変換してみると、全体を俯瞰した本質が滲み出てきます。後は、自分が本質だと思ったことを自信を持って表現してみることです。

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