2008年10月10日金曜日

では、ピアノ伴奏の面白さとは?

「アカペラの面白さとは」を続けて書いたのだから、ピアノ伴奏付きの合唱曲についても論じる必要があるでしょう。
しかし、日本ではあまりにピアノ伴奏を付けることが当たり前になり過ぎました。合唱曲と言えば、普通、ピアノ伴奏は付くもの、という意識は多くの人にあると思います。だからこそ、アカペラの面白さをもっと知ってほしいと思う反面、それと逆のベクトルを持ったピアノ伴奏付き合唱曲についても模索してみたくなります。

昔はそれほど疑問を持たなかったけれど、最近になって特に感じること。
ピアノ伴奏付き合唱曲を聞いても、その曲が何を表現しようとしているのかあまり伝わってこない。もっと端的に言えばどんな言葉を歌っているのか、その内容が聞こえてこないことが多いです。
恐らく自分が歌う立場で聞いていると、あまりそんなことを感じないのかもしれません。しかし、純粋なリスナーとなって音楽を鑑賞しようと思うと、邦人ピアノ伴奏付き合唱曲は、たいていの場合、音像の派手さを感じても、なぜそれほどの派手さを必要とするのかが今ひとつわかりません。

その理由について一つ言わせてもらうなら、詩も曲も複雑すぎるのではないでしょうか。
複雑とは、芸術的価値とか、高尚であるとか、内容に深みがあるとかそういうこととは無縁の感覚なのです。あくまで単位時間内で人々が許容できる情報量を超えているのでは、という危惧です。それでもこういう曲が好まれるのは、合唱している多くの人が、心のどこかで複雑さを芸術的価値と結びつけたがる性向があるのではないかと感じたりするのです。
私は、音楽はもっと直感的で理解し易くあるべきだと思っています。もちろんそれは芸術的価値が低いということではありません。(いや、むしろ価値が高くなる要素ではないでしょうか)
仮に複雑な曲を作ったとしても、その複雑さ自体が伝えたいことなら構わないのですが、複雑さの陰で本当に伝えたかった言葉、動機が埋もれてしまっていては本末転倒です。
本来、ピアノが伴奏に付くことにより音像全体がダイナミックになるのですから、メッセージをより強く伝えることに使うべきです。単に音符数が増えて、音の数が増えてしまった中にメッセージが埋まってしまわないような曲がもっと書かれるべきではないかと思います。

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