2007年6月1日金曜日

クサいものにフタをする私たち3

だいたい、洋モノの音楽の歌詞を訳すと、なかなか日本の歌詞ではお目にかかれないような内容がたくさんあるように思います。日本の歌詞のほとんどは、自然か恋愛を歌ったもの。ある種定型的な表現であることが聴く側に安心感を与えているのかもしれません。恋愛モノでも洋モノだとずいぶん卑猥になったり・・・
中でも日本の音楽に根本的に存在しない概念は宗教ではないでしょうか。欧米の音楽が宗教の中で育まれてきた歴史を考えると、その感覚の差は相当のものがあると思います。
今、日本で「私は、○○を信じまーす」とか「偉大な○○よ、私たちをお導きください」なんていう歌詞が音楽で歌われていたら、新興宗教とかそんな感じになって、すごいアヤしい感じになるのではないでしょうか。ひと頃、オウム真理教が選挙に出たときに、信者が歌っていた音楽を思い出します。

欧米人の場合、音楽というのは自らのアイデンティティを確認する手段である場合が多いような気がします。だから個人の信念とか、民族的な価値観とか、そういう言葉が音楽の歌詞になっていても全然おかしくない。
ところが日本人の場合、歌を歌うということは、むしろ個人的な価値観を封印して、人々の最大公約数的な価値観に合わせこむ作業なのかなと思ったりするのです。自己主張でなく、無条件な融和のための道具とでもいうような。だからこそ、場にそぐわない、ということに非常に敏感になり、結果的に無意識のうちに「クサいものにフタ」的行動を取ってしまうように思います。

私たちが洋物の音楽を取り入れるとき、無意識に自分の感覚に合わないものを排除しているのではないかと思ったりします。きれいで気持ちいい部分しか見ていないというか・・・
洋物のロックを聴いているという人も、話を聞いてみると、歌詞の意味なんかどうでもよくて音だけ聴いて楽しんでいるという人も多いのです。でも英語圏の人なら、歌詞だって耳に入ってくるわけだし、結局そういう聴き方自体が極めて日本人的というか、キレイなものしか見ないようにする意識の現われではないでしょうか。

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