2004年6月20日日曜日

ピアノが伴奏なのはいけないこと?

最近、合唱の新作の紹介などで気になるのは、「この作品におけるピアノパートは単なる伴奏ではなく・・・云々」というような記述があること。
まあ、こんな記述が気になるのは私くらいなものかもしれません。一般的には、そのように書かれているほうが、ピアノパートもより音楽的に手を抜かずに書いたんだ、というように理解されているような気がします。

「単なる伴奏」という言葉に過剰に反応するわけではないですが、伴奏って、私が感じる以上に不当に悪い印象を持たれている言葉だなと感じます。それは言うまでもなく、主旋律を音楽のメインと捉え、旋律と伴奏が主従の関係であると考えるところから端を発しているのでしょう。
もちろん、音楽の機能的な観点から言えば主従の関係は出てくるでしょうが、音楽的なレベルの優劣関係はあるはずがありません。ましてや、そういうパートを一段低く捉えるような貴賎の関係では、絶対無いはずです。

伴奏というのは、音楽的にレベルの低い行為などではなく、あくまで音楽の機能上の役割を示したものにすぎません。
ですから、私の感覚からすれば、作曲家は自信を持って伴奏パートとして伴奏パートを書くべきで、中途半端にピアニスティックなピアノパートは、音楽上の機能を不明瞭にさせてしまうような気がします。
伴奏には、伴奏の美学があるのです。それを肯定するならば、もっとシンプルで分かりやすい音楽であっても、強いアイデンティティを持つ音楽は十分作れるはずです。
海外のピアノ伴奏つき合唱曲というのは、そのあたりの割りきりがはっきりしていて、邦人合唱曲に慣れた目から見れば、物足りないくらいに思えてしまいます。しかし、本来、合唱にピアノで伴奏を付けるというのはこういうことを言うのではないか、という原点を感じさせます。

伴奏が必要な音楽形態と、必要ないものの音楽形態とでは、おのずと表現の仕方が変わってきます。
伴奏が必要な場合というのは、一言で言えば旋律をメインに聞かせたい場合であると言えるでしょう。だから、歌曲であるとか、ヴァイオリンソナタであるとか、単旋律楽器とピアノの組み合わせが基本です。
ですから、ピアノ伴奏つき合唱も、基本的にはそういった音楽形態の延長で捉えるのが、最もわかりやすいと私は思います。そこで双方が、対等な関係を主張するような音楽とするなら、ピアノは適当な楽器と思えないし、あまりに双方が非対称すぎます。非対称になる原因の一つとして、声楽側は歌詞として言葉を表現することが出来るというのもあるしょう。
また、対等な関係とは、演奏テクニックで人を堪能させるような協奏曲風の音楽作りを指向するもので、シリアスな表現よりはむしろエンターテインメントを指向するものだと私は考えます。そういう意味でも、現在のピアノの派手な合唱曲は、どこかバランスの悪い感じがしてしまうのです(特にエンターテインメントを指向しているとも思えないので)。

伴奏が必要ないものは、基本的に同属楽器によるアンサンブル音楽のような形態になると思われます。もちろん、曲中では各楽器に対して伴奏的役割や旋律的役割という音楽的機能はあり得ますが、それは常に固定されません。そしてそれこそが同属楽器のアンサンブルの面白さです。弦楽四重奏などを中心とした室内楽がこういった音楽に当てはまるでしょう。
そして、もちろん無伴奏合唱曲というのは、こちらの部類に入る音楽です。だからこそ、各声部がもっとスリリングに拮抗しあう音楽こそ、無伴奏合唱の面白みを表現していると思うのです。

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