2004年6月14日月曜日

ティム・バートンにはまる

「最近面白かったもの」にも書きましたが、先日観た「ビッグフィッシュ」という映画にいたく感動しました。
映画監督はティム・バートン。そのあと、ティム・バートン関係の情報をいろいろネットで見るうちに、この監督の独特な感性や、映像美の世界に非常に興味を感じるようになりました。

実は、ティム・バートン監督の「バットマンリターンズ」も結構好きな映画で、このDVDは既に持っていたのですが、その後、「マーズアタック」「エドウッド」のDVDを買って、目下、ティム・バートン映画にはまっているところです。「猿の惑星」は劇場で見ました。ただし、名作と言われている「シザーハンズ」はまだ観てません。近いうちに、こちらもDVD購入予定。

それにしても何が私を惹きつけるのか。
もちろん、ファンタジックな感じとか、ブラックユーモア満載とか、カルトへの偏愛とか、そういった要素も面白いし、多くの人が語っているわけですが、そういうことを小道具として、極めて等身大な一個人のリアルな心理を、細やかに表現しようとすることこそ、この人の本質的な特徴だと感じます。

そもそもファンタジーは現実感のないおとぎ話であればいい、というわけではないと思います。
むしろ実態は逆で、いかに現実世界には正視に耐えない厳しい現実があるのか、それを暗示的に表現することこそ、ファンタジーの役目であり、それを表現者が婉曲に告発することが、その痛快さに繋がっていると感じるのです。
もちろん、社会の醜い側面を、非常に正攻法で告発するような表現方法もあります。こういう作品は実に男らしくて雄々しいものです。しかし、現実はそんなに単純ではないのです。誰かが成功すれば、誰かがひどい目に遭うのが世の現実。だからこそ、正攻法での告発は常に矛盾を孕んだものになります。残念ながらみんなが幸せにはなれないのです。
ファンタジーは、恐らくそういった現実を肯定し、世の不条理を告発しつつ、社会全体の幸福でなく、個人のささやかな幸福を描きます。だからこそ、リアルな社会を描いた作品よりも、個人にとってリアルなものとなる可能性があります。

「バットマンリターンズ」は一見、ドタバタなアメリカンヒーロー物の映画のように思われがちですが、そういった外見を取り除くと、バットマン、キャットウーマン、ペンギン男、の哀しさが非常に際立ちます。
むしろ主人公であるべきバットマンはちょっと影が薄く、キャットウーマンやペンギン男のエピソードが異常に哀しく心に響きます。この二人とも、実に自己表現の下手な、小心者なキャラです。普通の映画なら、どんな虐げられた人間でも、きっちり自己表現してテキパキと行動して、「実際にはあんなにうまくいかないよなあ」となってしまうわけですが、ティム・バートンはそういった嘘がつけないのです。
ドギマギしてへんてこなことを口走ったり、すぐにカッとなって暴力を振るってしまったり、それでいて一人になるとそんな自分に自己嫌悪を感じて落ち込んだり、そういった人々の行動をティム・バートンは愛します。私には、監督自身がそういう想いを絶えず感じ続けた人だったと思えてなりません。

こういうベースがあって、ティム・バートンが映画の中にちりばめる小道具が生きてきます。
例えば、悲しい事件はいつもクリスマスシーズン。人々が最も楽しむはずのクリスマスだからこそ、その哀しみは倍化されます。
暴力シーンは、現実感からいつも遊離していて、ファンタジックですらあります。そしてファンタジーだからこそ、容赦ない残酷さで表現できます。「バットマンリターンズ」や「マーズアタック」などでは、自分の前に集まる多くの人々に向かって、突然発砲を始め、バタバタと人々が死んでいくシーンがあります。
それから、奇形な人間、あるいはサーカスなどのモチーフが度々現れます。「ビッグ・フィッシュ」などは、まさに良い例で、身長5mの怪物とか、シャム双生児とか、狼男が率いるサーカス団など、ティム・バートン的世界の住人がたくさん現れます。

ついさっき見た「エド・ウッド」ですが、こちらはシリアスな伝記映画で、ちょっと傾向は異なりますが、自分の夢のために突っ走るB級映画監督エド・ウッドの存在自体がファンタジーに思えて、映画界の現実をコミカルに告発しているようにも感じました。

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