2014年7月13日日曜日

日本人という遺伝子

最近社会が劣化しているとしか思えないような事件がたくさん起きています。(佐村河内、小保方、ヤジ議員そして号泣議員・・・などなど)
そこには何かを起こすアヤしい人の存在があるのですが、そのアヤしい人をうまく扱えないばかりか、そういう人に翻弄されている組織という構図も垣間見えます。何しろ、問題なのはそのような事件に際し、組織の幹部の人たちが事件を適切に処理できないことです。
今回はやや抽象的なテーマですが、昨今の社会の劣化と、日本人が本来もっている遺伝子とどういう関係があるのだろうか、と自分なりに考えてみたいと思います。


日本は何千年という間、海に守られ、国そのものが存亡の危機に瀕することがほとんどありませんでした。
多くの人が指摘するところですが、このような環境において、純粋な実力主義よりも形式や権威を重んじ、上下関係をはっきりさせる独自の文化が形成されたものと思われます。

このような集団の場合、トップに大変決断力があり、強引豪快な力を持っていると、その力は人数以上に倍加され、集団が大変なパワーを発揮します。
ところが、外部環境が安穏としてくると、過激な改革者よりも実務者がトップに立つようになり、ロジックで人が動かない分だけ、むしろ組織のパフォーマンスは大きく下がるような気がするのです。

勝手な推論ですが、日本の軍隊は日清日露戦争時代、まさに列強に追いつけ追い越せというスローガンの元、明治維新を生き抜いた豪快なリーダーに率いられ、すごい力を発揮したのではないかと思います。
ところが、それから40年経つ頃には、日本の軍部はそのような実力者ではなく、実務者や実力のない強弁家に侵されていきます。以前こんな本を読みましたが、太平洋戦争では単に物資の力の差だけではなく、日本軍の組織力自体がだいぶ弱っていたように見受けられます。
それは今、日本の企業を覆う閉塞感にとても似ているのです。

本当に日本人は本質論より感情的で感覚的なその場の議論が好きなように見えます。あるいは、本質論を話し合うべき場所に、そういう人材が揃っていないように見えます。
私の思うに、日本以外の先進諸国は絶えず戦争と戦乱に明け暮れていたため、組織や民族全体の遺伝子が、本質論を語るべき場にそれを語るにふさわしい人が集まるような仕組みを作り上げているような気がします。
日本では数千年の間、そのような必要がなかったため、組織を常にそのような状態にもっていく仕組みがとても弱いのです。

私は日本人の「本質論」嫌いには本当に閉口するのですが、それが民族の構成員に刻まれている遺伝子だとすると、仕方がないとあきらめるほかはありません。
そう考えると、明治維新のときのように、そして戦後の復興のときのように、新しく日本をゼロから作り直すような機会が訪れ、そこに実力者が強引に人々を引っ張っていく、そういう社会が到来するのを待つしかないのかもしれません。


今後日本が、明治維新や太平洋戦争での敗戦のような大きな挫折を味わうのでしょうか。
私のような素人が思うには、それは国債暴落やそれに伴うハイパーインフレではないかとついつい考えてしまいます。
ハイパーインフレがおこれば、相対的に今お金を持っている高齢者が貧乏になり、お金で保っていた権威が消滅します。このようなときに始めて、年齢性別無関係に力のある人が世の中に出てくる可能性が見えてきます。

本当にそんなことが起こったら社会へのインパクトは相当に大きく、かなりの人々の人生を狂わせることになるのは確かでしょうが、それでもこの閉塞感をグレートリセットして、もう一度日本が再生するにはそれしか手がないのではないかと思ったりするわけです。

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