2014年2月22日土曜日

いろいろできるのカッコ悪さ

多くの人が電気製品の機能の多さに辟易しているはずです。
たかだかHDレコーダーを買ったって、単純な機能さえ使いこなせるようになるのに時間がかかってしまい、イライラが募ります。
特に、たまにしか使わないような機器は使い方を覚えていることができず、毎回マニュアルを読むか,人に聞くことになってしまいます。
こういう細かいことをきっちりと覚えられる人もいることは確かですが、ほとんどの人は覚えることは出来ないし、覚えたくもない、という感情のほうが強いことでしょう。

もちろん、そもそも最低限のタスクをこなすのに必要な入力が多ければ、その使い勝手は難しくなる方向にはなると思います。
しかしこういう操作はIT系の得意技であり、いずれ専用機のUIはPCやタブレットのような大画面による操作に取って代わり、タッチで分かりやすい方向に変わっていくような気はします。

この現象に対して、私自身が問題だと思うのは、無意味な多機能主義です。
機能が増える度にスイッチが増え、選択肢が増えます。何か単純な仕事を指示するだけでも、多くの選択肢が提供され、意味が分からないと不安なので調べざるを得ません。

例えば、ただテレビ番組を録画したいだけなのに、何種類ものの録画モードが提示されます。
調べてみると各モードではサイズが小さくなるほど画質が悪くなることが分かるわけですが、どのくらい悪くなるかは録画してみなくては分からないし、今録画したいと思っているときに自分にとって最適な選択をする余裕もありません。

このように、機器が出来ることを全てユーザーの前にぶちまけて、ほら好きなものを選んでね、というのは、一見「いろいろできる」印象を与えますが、実際には大変使いづらいものになる可能性があります。
仮に、何度も使っているうちに自分の最適なセッティングが見つかったとしても、それを毎回入力する手間は変わりません。


こういう事態に機器側はどういうUIで対処すべきでしょうか。
あくまで多機能であることを誇りたいのであれば、細かい設定は「詳細設定」のようなものに押し込んで、そこは触らなくてもデフォルトが最適になっているようにしておく、というのが一般的なアプローチのように思います。

ところが複数の人が使うと詳細設定を人によって変えたくなるから、設定が複数選べるとかそういうことを言い出すと、今度は設定を選択する必要が出てきます。
これは、初めてその機器を使う人には、もうほとんど何が何だか分からない選択になります。

それなら、いっそのこと設定も出来なくすればいい、という考えも出てくるでしょう。
しかし、それを実行するためには相当な勇気が要ります。
それは、その機器が多機能で無くなることを意味するし、そのときに機器提供側がたくさんの機能のいくつかを取捨選択する必要が出てくるからです。

大きな決断には必ず犠牲が伴いますが、その半面、提供するサービスの主張は明確となり、その世界観を受け入れてくれる人からは熱狂的な支持を受ける可能性もあります。
つまりこの問題は、決断する力と、それによって明確な世界観を規定する力、の問題ではないかと私には思われるのです。


テクノロジーはこれまで「○○出来るようになる」の連続でした。
それはもちろんこれからも変わらないのですが、出来るようになることが増えるに従い、一般の人が考えなくてもいいようなことが増え過ぎることになってしまいました。

これからテクノロジーは、哲学や芸術的センスと強く寄り添う必要があると感じます。
「いろいろ出来る」は主義主張の無くて、センスが無いサービスの象徴になっていくでしょう。可能性として「いろいろ出来る」中から、取捨選択することでサービスを提供する側の哲学、世界観を表現し、それらが消費者に比べられるような流れに今の世の中は向かいつつあるように思います。

そのトレンドを感じないまま、センスの悪い「いろいろ出来る」を続けている機器やサービスは今後生き残っていくことは出来ないと感じるのです。

思い切って選択肢を切る潔さ、それこそがカッコいいと思える世の中になるのです。

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