2013年9月21日土曜日

オンライン教育と社会の効率化

昨今、大学の授業がオンライン化されている、という話題を聞くことが多くなりました。
先日見たテレビ番組でも、有名大学の講義を無料でインターネットで受講することが出来、レポートや課題を提出すれば単位も取れる、といった内容を放送していました。そこで優秀な成績をとった若者が、モンゴルの田舎やブラジルの田舎から、シリコンバレーの会社からオファーを受けて入社したりした事例なども紹介されていました。

教育を受ける側からすると、今までの学校では受け身の授業のみだったものが、意欲と才能があればお金が無くても最先端の教育を受けられる機会が増えることとなり、人によっては大変喜ばしい状況が生まれているのです。
しかし、その一方、勉強が好きで好きで仕方がない、というメンタリティを持った人は私が想像するにそれほど多くなく、全てが本人のやる気に還元されるその仕組みは、否応無く本人の気質を露呈させることになります。

このようなオンライン教育が何となく空恐ろしく感じるのは、そういったところにあります。
私とていろいろなスキルが身に付くことは大変嬉しいことだけれど、学生時代、好き好んで授業を受けていたかというとやや疑問も感じます。むしろ勉強好きは、ガリ勉などと言われて蔑まれるような雰囲気さえありました。
そう考えると今までの教育とは、単にみんながやっていたから自分もやっていた、ということに過ぎなかったという気もします。

ネットの本当のコワさというのは、どこまでも人々の欲望を満たそうとすることによって、逆に人間性が丸裸になってしまうということにあるのかもしれません。
いくら、勉強して最先端の技術を持っている企業に入ることがスゴいことだとしても、誰もが一人でコツコツと勉強し続けるモチベーションを保っていられるわけではありません。
大人になって、このような職業にしか就けなかった責任は、以前なら他の何かのせいに出来たのに、これからは全て自分にあるという事実を各自が突き付けられるのです。

もちろん、学ぶことは何歳になってからでも可能です。
オンライン教育は自分が改心して、より高くステップアップするためにいつでも開かれています。だから、より一層、自分が今現在どう生きたいか、ということがやはり丸裸になってしまうとも言えます。


こういった現象を社会全体でマクロ的に見てみると、賢くてモチベーションの高い人々が同じような場所や境遇に集中する現象が、どんどん加速していくように思えるのです。それはITが社会を徹底的に効率化する、という基本的なベクトルを持っているからに他なりません。
そのようなITが目指す世界観とは全く逆に、これまでの日本では社会全体が非常に均質だったわけですが、この中から優秀な人たちだけが一人抜け,二人抜け、という現象がこれから至る所で起こるでしょう。
そうなったとき、優秀な人たちが何とか回していた組織が、まともなアウトプットを出せないようになり、少しずつ瓦解を始めるようなことも起きるかもしれません。
そうすれば組織は、優秀な人が抜けないようにする、ということも真剣に考えなければいけなくなるはずです。今まではあまりに優秀な人たちが冷遇されていたと思うからです。

このようなことが加速度的に高まれば、優秀な人々とそうでない人々は社会の中でどんどん分離をおこしていくのではないでしょうか。そしてそれは思わぬ変化を世の中に起こすことになるでしょう。
優秀な人たちとそうでない人たちが社会的に分離されると、双方の趣味や嗜好の違いもどんどん激しくなるでしょうし、話される言語や常識、倫理観まで集団によって大きく乖離していく気がします。
もはやお互い分かり合えないような地点まで行って政治的に対峙するか、一部の優秀な人たちがその他大勢の人々を精神的にもコントロールしてしまうような状況になるか、そのようなSF的な未来が訪れるかもしれません。

そして、今こうしてそれを薄気味悪いと感じる倫理観もまた、世代が変わるごとに当たり前のものになっていくのかもしれません。

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