2004年9月19日日曜日

音のこだわり、音楽のこだわり

最近、クラシック音楽を扱う小説や、テレビ番組などに触れる機会が多いような気がします。
その中で、音楽に対する感動の仕方というのが、どうにも気になることがあるのです。主人公がある音楽を聞いたときに、何かゾクゾクっとした感動を覚え思わず涙してしまった、というような。もちろん、そういう経験は、音楽を聞く人なら誰でもあると思うのですが、それでは何に感動したのかというと曖昧な表現に終始し、それを他人に伝える事は非常に難しいことが多い。だから、人は音楽を評するときに、抽象的、文学的、比喩的な表現を好み、事実を端的に表現する方法をむしろ嫌います。
��とりあえず、この談話を書くきっかけになった文を挙げておくと^^;、昨日(18日)の朝日新聞の新聞小説(篠田節子「讃歌」))

音楽を評論するなどというと随分、大上段に構えた感じがしてしまいますが、普通に音楽活動していれば、あの演奏が良かったとか、あの曲が好き、とか普通に会話することもあるでしょう。普通の音楽の会話なら、まあそんな堅苦しいことを言って、人の話していることに水を差す必要もないのだけど(しかし、ついつい水を差したくなってしまう)、そういった会話の中から人々が音楽を評論する行為の危うさを感じることがあります。
全ての人が小説の主人公みたいに、何も予備知識がなくても、今目の前で繰り広げられている音楽に対して、自分の感覚を素直に表現できるなんてことは実際のところ滅多にありません。自分が聴いたこともない曲だったり、聞いたこともない演奏家だったりすれば、その良し悪しを自分の感覚だけで表現することは一般には至難の業でしょう。相当、自分の考えを持った人でないと難しいはずです。

そういった時に、人々は権威の力を頼ります。
権威主義的な発想はあらゆるところから忍び込みます。まずその演奏家の世間の評価がどのくらいのものなのか、もしそれほど有名でなければ、その人はどんなプロフィールを持っているのか、そういう情報を非常に気にすることになります。
もちろん身近にいるマニアの意見も参考になるでしょう。誰々さんが評価していたから、これはいいものなんだろう、みたいな。
いずれも、自分自身が物の良し悪しを捉える自信がないからこそ、人の評価を頼るわけで、多くの人がそういった無意識に行われる意識の働きに従属させられているのです。だからこそ、小説やドラマで無名な演奏家を「これは素晴らしい」と素人が言ってしまう危うさ、うそ臭さがどうも目に付いてしまうというわけです。

演奏家であれば、やはり演奏そのものに耳が向かいます。合唱している人なら、演奏会の折には、合唱団の発声にどうしても注意がいきます。
しかし、それは自分が合唱をしているからだということに多くの人は気付きません。そういうことは、他ジャンルの演奏会に行けば誰しも気付くはずです。合唱人が吹奏楽やマンドリンオーケストラや純邦楽などの演奏会に行って、「アルトサックスの音が低い」とか「尺八の音色が・・・」なんて評価はしないでしょう。合唱をしているから、合唱のことしか見えないのです。
音楽を演奏する際、私はまず曲の持つ美しさや素晴らしさを伝えたいと思います。その音楽の良さをいかに提示するか、というのが私が演奏するときの尺度です。しかし、合唱の世界に長くいると、いかに正しく美しい音色を出すかという努力だけに終始してしまう可能性があります。そんなことは永遠に無理だというのに!
そういった状態が、私には楽曲そのものを評価することに背を向けさせているように思えます。
小説やドラマでも同じ。多くの場合、演奏会で感動したというのは演奏者に向かう礼賛です。しかし、上でも言ったように演奏者の素晴らしさは、ある程度自分自身が演奏したことがなければ分からないことも多いし、そうでない場合、権威主義の落とし穴にはまりやすくなります。
そう考えると、よく知られていない曲を演奏して、その曲の良さを知ってもらうなどというのは、もっと難しいことではないのか、とすら思えてしまいます。権威の力を借りなくても、自分の感覚で楽曲の良さを感じ取れる、そういった「音楽のこだわり」を持つことは一般にはかなり大変なことなのです。

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