2013年12月28日土曜日

今年を振り返る2013

気が付けば年の瀬。今年も去年のように一年を振り返ってみましょう。

今年は仕事でおおはまりし、特に前半はほとんど仕事一色。これが自分的には一番大きな出来事でしたがここでは細かく書きません。

合唱活動はヴォア・ヴェールの練習の出席が芳しくなく、かなり低調になってしまいました。2年ぶりに参加したコンクール県大会もあまり嬉しくない結果で、来年やろうと思っていた演奏会もまだメドがたっていません。
今年は、松下耕先生率いるアンサンブル・プレイアードさんから男声合唱曲の委嘱をいただき、その作曲を行ないました。初演でも楽しい時間を過ごせたのは良い想い出です。ただ残念ながら、思っていたよりも曲に対する反響は今のところありません。
合唱に関しては、主立った活動はその委嘱関係くらいでしょうか。

個人的にプライベートで最も力を入れたのは、ラズベリーパイを使った電子工作で、オリジナル電子楽器を作る活動。来年以降公開していくつもりですが、今年はその準備期間として、作る楽器の方向性固め、電気部品の選定、ソフトウェア開発を行い、何とか年末に試作品らしきものを作ることが出来ました

まだまだ、こういった活動は趣味的なレベルを超えるものではありませんが、あわよくば自分のライフワーク的な活動にしていきたいという想いで始めています。
世界の流れが大きく変わろうとしている今、自分も何か踏み出さねばならないと思って、自分なりに出した答えがこの活動ということなのです。
今後も暖かい目で見守って下さい。

ということで、来年以降、試作品をより洗練させて、この「電子オカリナ」をいろいろな場所で公表していこうと思っています。

2013年12月21日土曜日

そして再びDTMへ・・・

そもそも、私は人前で音楽を演奏するより、作曲して音符を書いたり録音したりしてそれを残そうとすることが好きなのでした。
高校時代からJ-POPまがいの作曲に熱中し、当時買ってもらったキーボードと2台のラジカセで空中オーバーダビングして原始的な多重録音を楽しんでいたのです。
(ラジカセを再生しながら、それに合わせてキードードを演奏し、二つの音を混ぜ合わせた音を、もう一つのラジカセのマイクで録音する。これを何回か繰り返す方法)

大学生になってからMIDIシーケンサーとMTRを購入し、これを使いながらようやく本格的に音楽製作を楽しみました。
MTRとは、通常のカセットテープを使用して4トラックのマルチトラックレコーダーとして音楽を録音していく機材のこと。しかし、DAW全盛の現在ではMTRももう死語となってしまいました。

その後、自分の創作活動は合唱曲の作曲に移行し、オーディオ録音を作品とするのではなく、楽譜を作品とする世界に身を置くことに。
その間も、パソコン上で動作するMIDIシーケンサを使いながら作曲したり、DAWの時代になってからもアカペラの録音に挑戦したりもしましたが、もうすっかり自分で音を録音して作品にする機会は減ってしまいました。
録音で作品を作ることについては、仕事でも趣味でも音楽に関わりながら、プロの世界を垣間みている中で、とても人に聴かせられるようなクオリティで音楽を作ることが出来そうも無い、という気持ちもあったように思います。

実際、機材やツールが安くなって、DTMが誰でも簡単にできるようになればなるほど、ますます個人のスキルが丸裸になってしまうわけです。
当然ながらその一方で、世の中からはたくさんの才能が生まれました。そしてそれは、ボーカロイドという手段を手にして、アマチュア音楽製作が一気にプロ化する現象になって現れました。
もちろん優れた作品の裏には、無数の駄作があるわけですが、それがまた健全な市場性を生むことにつながります。そして今では多種多様なボカロ音楽がネットに溢れています。

このようなアマチュア音楽製作の世界が一気に爆発し始めている(ように見える)のがここ数年の現象。
流行りを追うのかと問われると返す言葉も無いのですが、自分には自分の表現したい世界観があるし、それはボーカロイドというツールは同じであっても、他の人と同じ類いの音楽表現になるわけではありません。
今ならボカロという標準化された形式で多くの人が聞いてくれるかもしれないという期待もあります。

もうDTMは半分諦めかけていたのですが、今ごろになって急に気持ちが盛り上がっています。まだ何も作っていないし、そもそもツールも揃っていないので、何もエラそうなことは言えませんが、ボーカロイドをネタにもう一度DTMを初めてみたいと思っている今日この頃なのです。



2013年12月14日土曜日

ボカロ文化と音楽の作家性

初音ミクから始まったボカロムーブメントとでも呼ぶべき現象は、すでに多くの人がいろいろ語っていることと思いますが、私自身これは音楽の歴史における一つの転換点となり得る出来事だったのではないかと考えています。

本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。

確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。

つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。


音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。

しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。

その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。

とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。

そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。


これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。

もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。

文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。


2013年12月9日月曜日

ラズベリーパイで動く電子オカリナ製作記

最近家で最も時間をかけているのは、ラズベリーパイ(Raspberry Pi)いじり。
ラズベリーパイを購入してから1年ほどが経ちましたが、この間、Linuxを触りながら、Githubでプログラムを送って、ラズベリーパイ上でコンパイルして、プログラムを動作させる日々を過ごしてきました。

何度か紹介しているように、ラズベリーパイは4000円程度で手に入る小さなコンピュータ。パソコンとして使うなら、キーボードやモニターは自分で追加する必要がありますが、このボードにいろいろなセンサや表示装置などの電子機器を接続することで、オリジナルな電子ガジェットを作ることが出来るのです。

私は当初から、ラズベリーパイで動作する楽器を作るべく、ソフトシンセサイザーのプログラムを作成し、これを鳴らすための入力装置として電子部品を買い集めて製作しておりました。

この1年の間に作ろうと考えていたものがいろいろ変わっていきましたが、今はオカリナっぽい笛のような楽器を作ろうとトライしているところです。

現在の状況を動画にしてみました。


オカリナの筐体はまだありません。
まだラズベリーパイから引き出した配線が裸のセンサーと繋がっている状態。

センサーの一つはLPS331APという気圧センサ。
このセンサは、3Dプリントサービスで作った白い吹き口の中に入っています。ここに空気を送り込むと気圧が高くなり、息を吹き込んだ力を検出できます。
もう一つはMPR121という静電式のタッチセンサ。
ここに透明の電極シートを繋げ、このシートにタッチしたらその信号を受信できます。

これらのセンサの出力はI2Cバスを通してラズベリーパイに繋がっています。
プログラムでは周期的にこの信号を受信して音楽信号として処理します。
そしてその信号によりラズベリーパイ上のソフトシンセを発音させます。

現状の問題は、何しろ反応が悪いこと。
ソフトシンセのレイテンシー(処理遅れ)のせいで、吹いても音がすぐに反応してくれません。これはかなりイライラします。
この辺りの本質的な改善が出来なければ、普通に使える楽器にするのは難しいでしょう。

もう一つは、音色や音程動作のチューンナップの余地がまだまだある点。動画では音がピロピロ言っているのが聞こえてきます。これも少しずつよくしていきたいと思っています。


まだまだ先は長いですが、将来的にはラズベリーパイのような小型コンピュータは今後益々活躍しそうなので、こういう汎用ボードで楽器が作れるようになるといろいろ楽しみも拡がるのではないかと思っています。


2013年12月7日土曜日

秘密を保護するのって難しい

もちろん、今回の話題は夕べ国会で成立した某法律に触発されて書いているわけですが、私自身はこの法案に対して政治的に特に賛成とか反対とか言いたいわけではありません。従って,以下は政治的な主張とは全く違う次元で書かれていることをご承知おき下さい。


私には、現実問題、秘密を保護するのってとても難しいよな・・・という気がするのです。
例えば、子供の頃「誰か好きな人いる?」とか聞かれるときどう答えますか。もちろん、聞く側は私が誰を好きか具体的な人の名前を知りたいわけです。
1.好きな人の名前を教えてあげる。
2.「好きな人はいるけど教えない」と言う。
3.「好きな人はいない」と言う。
4.ひたすらはぐらかす。
まあ、反応としてはこんな感じでしょうか。
もし自分に好きな人がいるならば(そしてほとんどの人はいるに決まってる)、3の答えは明らかに嘘です。
しかし、3で答えた場合、それが嘘かどうか確かめる術も無く、尋ねる側もこれ以上面白い回答が得られないと断念するのでそれ以上この話題には触れなくなるでしょう。

それに対して、答えた側は嘘をついたことで自分の良心に負荷がかかります。
この程度の話題なら、まあそこそこに嘘を付くこともあるでしょうし、人はそういう嘘のつき方を覚えながら、みんな大人になっていくものですが、逆に大人になるほど面倒な秘密も増えていきます。


例えば、私のようにメーカーに勤めていると、社外の人からこういうことを尋ねられることがあります。
「○○の新製品っていつ出るんですか?」
これに対する答えはいくつか考えられます。
1.いついつに何々が出ますよ、と教える。
2.今開発してるけど、いつどんなのが出るかは言えない、という。
3.開発していない、という。
4.それは秘密、という。
5.ひたすらはぐらかす。
1は企業秘密そのままバラすのでヤバいです。2も新商品を作っていることを言ってしまっているので、ある程度の情報が漏れているとも言えます。3は上で言ったような嘘であり、数ヶ月後に実際に商品が出るとそれが嘘であることが明確になってしまいます。
4.は正しいけれど、むちゃくちゃ勘ぐられます。「あー、やっぱり作ってるんだ」みたいな反応をする人もいるでしょう。たいていの場合、人は「秘密」と言われるともっと知りたくなるし、一度知りたくなる気持ちに火が付くと、逆にあらゆる手で探ろうとするかもしれません。今のIT時代にはそれは十分恐れるべきことです。


そんなわけで、もし相手が知りたいことが、こちらの秘密にしたいことだった場合、秘密が無いようにみせかけ、嘘もつかずにスルーすることは論理的に大変難しいことではないかと思うわけです。

たいていの場合、最初の例のように嘘をつくわけでしょうが、それはその時の常識で正しい判断だったとしても、数十年後の常識で正しいことなのかは誰にも分からないし、下手をすれば数十年後の常識で糾弾されかねない怖さもあります。

当然のごとく、国家や組織の利益を損ねないようにするためには、ある種の情報は秘密でなければいけません。
しかし、秘密を守るためには、何が秘密か定義しなければならず、もしその定義が揺れ動くようなら、守るためについた嘘が今度は犯罪になる可能性もある、という気がして、こういったルールの運用は大変難しいのではないかと個人的には感じてしまうのです。


2013年11月30日土曜日

インセンティブを設計する─そもそもインセンティブとは?

そもそも何がインセンティブになり得るかをきちんと把握できなければ、その設計も出来ないわけですが、そこの時点で間違っていることも多いと思います、

簡単に言えば、何が人をやる気にさせるのか?という話なんですが、直接本人に聞いてみればそれがわかる、と考えるのは短絡的でしょう。
例えば、立場の上の人が「どうしたらやる気が起こる?」などと立場の下の人に聞いた時、下の人はどう答えるでしょうか。
人々は、その場で言って差し支えのない話であるとか、上の人も喜ぶような話であるとか、当然そういう妥協点を瞬間にさぐりながら話すわけです。こういうタイミングで上の人を不快にする人は、残念ながら一般的には空気が読めない人と言われます。

そういう意味では、空気が読めない人の意見は意外と大事かもと思ったりもします。
よくこの場でこんなこと言うな、というのは、実は誰の心の中でもちょっとだけ感じていたりすることもあるからです。
だから、「何でも言いたいことがあるなら言って」とみんなに言ったあとで、誰かが発言した内容を否定するのはかなり反則だと思います。そうしてしまえばいずれ誰も率直なことを言ってくれなくなりますから。
自分自身が聞きたくないことに真理が隠されていることもあります。それはなかなか直接対話のなかで拾い出すことは現実難しいのかもしれません。


では、なかなかホンネとして表に出てきにくい、やる気のみなもとって何でしょうか。
私の想像では、「良い仕事で自分の名前が知れ渡ること」は、結構重要ではないかと思っています。しかし実際には、多くの人が心の奥底で望んでいながら、表面的にはそれを求めていないと振る舞ってしまうのではないでしょうか。
時として頑に名前が出ることを固辞する人もいるでしょう。
それは日本人的な美徳の一部ではあるけれど、本当はやはり良い仕事をしたのなら多くの人にそれを知ってもらうのは、本人にとって大きなインセンティブになり得ると私は思います。またそうすれば、本人に対しても良いフィードバックになり、ますます仕事の質は高まると思うのです。

ですから、良い仕事をした人をきちんと把握し、評価し、公開するシステム、というのはとても大事だと私は考えます。
残念ながら、日本的組織ではこの逆のことが横行しがちです。
良く出来たことは一人の功績にせずみんなで分け合うけれど、失敗したことは逐一把握され、公開されてしまいます。それはどう考えても、インセンティブ設計の面から最悪の仕組みのように思えます。
むしろ失敗したこと、悪かったことは、当人に直接伝えるだけで十分で、それを公開してしまえば萎縮のサイクルがどんどん進むのではないでしょうか。

インセンティブ設計の大きな要素として、「良い仕事」をきちんと把握し、それを適切な方法で多くの人が見ることができるという仕組みづくりが挙げられます。
仕組みではなく、そういうことを無意識にやっている(みんなの前で「誰々は良くやってくれた」的な話をする)親分肌的な指導者がよいリーダーと呼ばれることが多いですが、誰もがそういうスーパーな人間にはなれないのですから、組織の仕組みとして形にすることが本来取り組むべきことのように思えます。

インセンティブにはこの他にも、報酬のあたえ方、仕事の配分の仕方、などいろいろな要素があると思います。
この辺りは、また何か思い付いたら書いてみることにします。





2013年11月23日土曜日

インセンティブを設計する

長い間、技術者として仕事していたためか、真実とか、原理原則とか、公平性とか、そういうことを追い求めることこそ大事だと思ってきました。それについては、もちろん今でも正しいことではあると思うのですが、時としてそういう客観的事実だけを声高に主張してもうまく回らない、ということも歳を取るごとに感じます。

集団が大きなパフォーマンスを上げるためには、所属する人々が協力せねばなりません。正しいことを追い求めようとする意志だけでは、人々はなかなか動いてくれません。
ちょっとコワい人がカリスマ的に人を引っ張ることもありますが、能力とカリスマが備わったスゴい人というのはそう多くはないし、そういう人が一種の恐怖政治を行なったあげく、結局外部から批判の的になってしまうようなことは、ニュースでも度々聞かされます。

以前この本を読み、深く共感したのですが、人々が健全に協力し合うためには、「やりたい気持ち」をいかに刺激していくか、が大事だと考えます。
やや過激な言い方をすると、人間はインセンティブの奴隷なのです。その人が楽しいこと、気持ちいいことは何なのかをよくよく観察すれば、人はただ自分の欲望に従って生きているだけに過ぎないことが分かります。

欲望というとマイナスのイメージもあると思います。しかし、欲望というのは単にお金が欲しいとか、好きなものが手に入る、といったことだけでなく、人に感謝されたり誉められたりするという些細なことも含まれます。
イヤなことを回避しようとする気持ちも、一種の欲望です。自分が正しいと思わないやり方であったとしても、指示した人から後で咎められることが精神的な負荷になるのなら、それを回避するために自分の意志を曲げることもあるでしょう。こんなことは誰もが日常茶飯事にやっているはずです。

とはいえ,一人一人の心理は大変複雑だし、自分が考え抜いて良かれと思ってもちっともインセンティブを刺激できなかったりすることも良くあること。
そういう意味で、難しいのはお金の扱いです。
お金は当然人々を動かす大きなインセンティブです。
しかし、お金をいくらあげるからこの仕事をやってくれ、というのはビジネスでは当然だとしても、そうでない場ではむしろ失礼だったり、逆に手を抜かれたりする可能性もあります。むしろ、何かを頼んでやってもらった後に、お礼としてお金を渡すほうがお互い気持ちいいものです。
単純に渡す順番の問題なのに、それだけでそこで生み出されるアウトプットの質が変わってくることもあるのです。

その一方で、プロ野球選手が年俸にこだわったりするのは、その金額がお金の多寡というより自分の評価という側面が強いからでしょう。
そういう場合、金額は強いインセンティブになると思います。

お金にまつわるインセンティブ設計は、いろんな要素があり、なかなか難しいと思います。他人に公開されるのか、そうでないかにもよるでしょう。
1万円前後なのか、100万円単位の話なのかでもずいぶん違うでしょう。

しかし原則は、ある人の仕事をリスペクトしたことがお金でうまく表現できていることなのだと思います。事務仕事的にこなされると、リスペクト感が伴わず、頼まれる側のモチベーションは下がります。
逆に金額が少なくても、きちんとリスペクトしている気持ちが十分伝われば、それは仕事をする側にとって大きなインセンティブになるのではないでしょうか。


2013年11月16日土曜日

依存する個人と会社、集団、そして宗教

私がひたすらこのブログで書いているのは、これからは芸術家的なアイデンティティを持っている個人が生きやすくなる社会になるだろう、という希望にも似た予測です。

その一方、周りには最初から個人が目立つことをよしとせず、自分の個性を発揮しようとせず、集団の論理に従い、与えられたことを疑いもせずこなそうとする人々がいます。
社会はいろいろな人から構成されているわけですから、方向性の異なる個人がそれぞれ協力し合って大きな力を成していくべきですし、このような人々がいるからこそ社会は回っていると言えます。

とはいえ、ネット社会が力のある個人を目立たせるほど、目立ちたくない個人はいら立ちます。
たいていの場合、集団がそれなりに回っているときに、より大きな収穫、発展を得るために新しいことを始める人たちは、回す仕事をしている人たちから非難を受けます。新しいことだから突っ込みどころは山ほどあります。だから非難の内容は探せばいくらでも出てきます。
そして同じような構造が、ネットの知識人に絡んでくる無名な個人とのバトルにも言えるでしょう。似たような議論は身の回りにもたくさんあります。
私の思うに、定型的な作業で集団を回している人々は、何かが新しくなる度に自分の立場が危うくなることを無意識のうちに感じ取っているのかもしれません。

私がこれまでずっと感じていた違和感とは、このような集団に依存する人々(以下、依存系個人)との価値観の違いだったような気がします。
特に日本人はこのような力学が大変強いですから、ある意味、依存系個人の価値観が幅を利かせる社会でした。もちろん、今でも集団の中ではその力は絶大です。


私は依存系個人のことを非難したいわけではありません。
昨今、そのような見方をしてみると、この心理の根の張り方には到底ひっくり返せないほどの強さがあることを実感しているのです。
ある場所においては、自分の生活を犠牲にしてでも集団の成すべきことを成就させるために活動することは大きく礼賛されますし、そういう行動を人々に強いることが出来る人たちが上層部に上がっていきます。
それは、この国に住んで、日本語を話し、日々日本のテレビ局の番組を楽しんでいる人たちには避けては通れない価値観です。いくら、都会に住んで先進的な活動をしている人であっても、このような価値観は強く私たちの心を縛っています。

依存系個人は、このような価値観の中で生息することを好みます。
もちろん生物的感情としては、ときとして不満を感じることもあるでしょうが、その不満さえ押し殺せば、安定した生活と、忠実さが報われる環境が手に入ります。

日本人は無宗教と言われますが、私には会社に依存する個人、合唱団などの集団に依存する個人は、いわゆる宗教団体に依存している個人と、それほど心持ちは違わないのではないかと思ったりします。程度の差こそあれ、宗教というのは依存する個人を安心させるための装置なのかと思ったりするのです。

依存系個人と、目立とうとする個人が、うまく手を取り合って回っていく社会、というものはどんな形なのでしょうか。残念ながら、この対立はしばらくは続きそうな気がします。


2013年11月10日日曜日

失敗の本質

Kindle版で「失敗の本質」という本を読んでみました。
タイトルが抽象的過ぎるので、いわゆる失敗学的な汎用的な話と感じるのではないかと思いますが、この本は実は太平洋戦争(文中では大東亜戦争と呼ぶ)時の旧日本軍の作戦の失敗の事例を研究した本です。

昨今、大手日本企業の迷走ぶりを戦争時の旧日本軍の戦術の稚拙さ、戦略の欠如と関連づけて語られることが増えてきているように思います。
私自身は戦記物とか、戦争時の戦略とか作戦とか、そもそも戦争に関わることは、これまでほとんど興味は無くスルーしていたのですが、電子書籍ならいいかとついついポチッとしてしまいました。

しかし、これは確かに面白い。
もし、自分が戦争の現場にいたらと思うと空恐ろしいけれど、こうやって本を読みながら、客観的に戦争の有り様を捉えてみると、教訓めいたものがいろいろ得られるものです。そして戦争というのは、大量の兵士と優れた兵器だけでなく、情報制御や補給など多面的な要素があることを思い知らされます。

本書は3章構成。
第1章は、具体的な事例の紹介。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インバール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、の6つの事例について、何が起きて、何が原因でどのような負け方をしてしまったのか、ということについて詳しく解説されています。
第2章では、その失敗の分析、そして第3章ではそれから得られる教訓がまとめられています。


いやー、しかしあれだけたくさんの人が死んだというのに、全くもって上層部では現場(戦場)とは別世界のまるで統制が効かない状況があったのですね。
考えてみれば、これは現在の企業活動でも同じ。現代の企業活動とのアナロジーは第3章でも語られていますが、現場がどれだけ頑張っていても、上層部では責任を曖昧にしたり、強硬な主張に誰も反対出来なかったり、相互不信が情報の流通を妨げていたり、そしてそういうことの連続が結局戦局を悪化させてしまった、という事実が赤裸々に描かれており、その教訓は今もなお有効です。

こういう世界の恐ろしさは、戦死は結局は数字でしかないということ。
ただし、そういう冷徹さが無ければ戦略もきちんと立てられない。
何しろまずいことは、自分たちは戦うためにその場所にいるという使命感から、死ぬ恐怖より戦いたいという意志が勝ってしまうことです。それは集団であるからこそ、そのような高揚感で現実感が見えなくなってしまうのです。
挙げ句の果てには、勝つための工夫よりも特攻、玉砕といった行動を礼賛する方向に向かっていきます。

インパール作戦での牟田口中将の言動なんて悪夢でしかありません。
戦争全体の戦略が無いまま、こういった思い入れの強い個人が勝手に戦争を動かしていたという事実が空恐ろしく感じました。


第3章でまとめられている内容は、まさに今の日本人に対する提言でもあります。
今と言っても、この本は1985年に第一版が出ているのですが、それでも内容が全く色褪せていないということは、日本人は25年前から、いや70年前から本質的には変わっていないということなのでしょう。
具体的には
・一度上手くいった方法が変えられず、組織内の規範が硬直化していく。常に自己改革できる仕組みが必要。
・戦略の不足。
・階層がありながら情緒的な人的結合で構成された組織。ロジカルな指揮系統が出来ていない。
といったようなこと。
どうでしょう。既視感ありまくりじゃないですか。

こういった私たちのメンタリティはそうそう変わるものとは思えませんが、しかし、その結果、太平洋戦争でどのような愚かな決断がまかり通っていたのか、それを知るだけでもこの本の価値は十分あると思うのです。


2013年11月6日水曜日

Maker Faire Tokyo 2013に行ってきた

11/3にお台場の日本科学未来館で開催されたMaker Faire Tokyo 2013に行ってきました。

昨年クリス・アンダーソンの「Makers」が話題になって、Makerムーブメントがますます拡がっています。そして、そのMakerムーブメントの日本におけるメインイベントでもあるMaker Faire Tokyo に、ぜひ一度行ってみたいと思っていたのです。このイベントも年々規模を拡大しているようで、今年は科学未来館だけではなく、近接する建物でも展示がありました。

幸い11/4に拙作初演の演奏会もあったことで、その前日にMaker Faireに行くことにしました。今回は家族も一緒に東京に行ったのですが、前売り券まで家族分買っておいたのに結局家族とは別行動。私一人でMaker Faireをうろつくことに。(チケットが無駄に・・・)

とはいえ,実はMaker Faireではウチの会社の人たちとたくさん会ってしまいました。二人くらいはいることは知っていたけど、まさかあの人が・・・という人が二人ほど。しかも出展してるし・・・

さて、このMaker FaireでKORGとlittleBitsのプレゼンテーションがあるというのは知っていたので、まあちょっと見てみるかとフラフラと会場に行ってみたのです。
二社の提携の話はすでに知っていましたが、この場で何と新製品の発表がありました。
その名も Synth Kit。シンセサイザーの各要素が電子パーツ化しており、それらを自由に組み合わせるだけでオリジナルなシンセが出来るという画期的な製品。
価格も¥16000で、基本的にはホビー層向けではありますが、今までシンセに触ったことが無かった人が、面白そうと感じることが出来る製品だと思いました。
下の写真は開発者3人が即興で Synth Kit で生演奏した様子。結構音も本格的でしたよ。


ホビー向けとはいえ、これはMakerな人々にとって音の素材にもなり得るわけで、しっかりプラットフォーム的な地位を確立しようとしているなと、個人的には大変感銘、というか、正直ショックを受けたのです。

さて、本来の目的のFaireのほうですが、これはもう本当に玉石混淆。
一人工作が大好きな物好き、大学の研究室、電子部品を売る専門ショップ、3Dプリンタメーカーやプリントサービスの会社、Intel/KORG/YAMAHAなどの本物のメーカーまで、全く同じ場所で同じように机を並べていました。



個人的には、ネットで見聞きしていた「電子楽器ウダー」の実物が見れて触れてみたり、2回ほど利用した3Dプリントサービスの会社のブースでサンプルを見たり、その他にも楽器ものがいろいろ見れたのが楽しかったです。

ぶっちゃけ(ややエラそうに)言うと、楽器は全般に詰めが甘いものが多く、何しろ音が出るところまで到達して、何とか出展しているというものが多かったのが正直な印象。演奏して楽しいと思えるレベルまで作り込むことの難しさや、そういうセンスを持っている人はそう多くは無いということを実感しました。



それでもMakerムーブメントと楽器は非常に相性が良く、こういう場所で多くの人たちがオリジナルな楽器を作っていることは自分にも大きな励みになります。
ということで、来年は何とか出展したいと思っています。(とここで宣言してしまおう)



(その頃、ウチの家族は・・・)





ッt

男声合唱組曲「SONATINE」初演

松下耕先生率いる男声合唱団、アンサンブルプレイアードから今年の春頃、男声合唱曲の委嘱をいただき、昨日11/4にトッパンホールで開催された第15回定期演奏会にて初演が行なわれました。
正直言って、拙作はなかなか演奏機会も少なく、これまで委嘱も数えるほどしかありませんから、私にとって久し振りの委嘱初演だった昨日は、本当に嬉しい時間を過ごさせて頂きました。

Twitterでも、何回かこの作品について言及しましたが、あらためてブログでも紹介しましょう。
本作品は、5曲からなる無伴奏の男声合唱組曲で、立原道造の詩集「萱草に寄す」からSONATINE No.1と題された五つの連詩をテキストとします。組曲のタイトルも「SONATINE」としました。

立原道造が軽井沢で出会った女性との恋心を綴ったこれらの詩には、ときに内向的で沈み込むような絶望的な心情が表現されています。男性なら誰もが心にチクッと突き刺さるような同様の痛みを思い起こすことでしょう。最初にこの詩を読んで、若さゆえの一途な恋心を、今の私の感性で表現してみたいと思いました。

結果的に、これまでの自作品の中では、どちらかというとタダタケ的なやや古風な価値観をまとった音楽になったような気がします。これまで拙作は、やや突飛なアイデアや、奇抜なテーマをテキストにしていると思われているフシもありましたが、そういう意味では、逆の意味で、えっと思われるような曲調かもしれません。

曲全体はなるべく難しくならず、またディビジョンを全く廃して、少人数の合唱団が取り上げやすい作品になることを心がけました。
ただ、後で歌った皆さんの感想を聞くと、やはり音取りや音域などに苦労されたようで、結局は骨のある作品になってしまったのかもしれません。
特に第3曲目は、邦人作品には珍しいボリューム感のあるフーガが中盤にあります。これは作曲にも時間がかかりましたし、自分でも書きがいがあると感じた箇所です。

初演の練習にはいろいろ苦労もあったかと思いますが、本番では素晴らしい演奏を聴くことができました。お世辞抜きで、私にとって最上級の初演だったと思っています。本当に幸せな時間を過ごさせて頂きました。

松下耕先生、そしてアンサンブルプレイアードの皆様、このたびの委嘱及び初演に、あらためまして御礼申し上げます。


さて早速ですが、この作品のPDF楽譜の販売ページを作ってみました。興味のある方は、是非楽譜を見てみてください。以下のページです。
http://jca03205.web.fc2.com/FC2/Data_Store.html









2013年10月26日土曜日

夢の自動運転

昨今世の中を賑わせている技術で個人的にかなり興味のあるのが自動運転です。
私は自動運転技術大賛成。ドライブの楽しみが〜、なんて言うつもりはサラサラありません。私には運転すること自体を楽しむといった趣味はありませんので。
確かに、気持ちのいい季節にドライブすることは楽しいこともあるけれど、実際運転のほとんどは目的地に向かうために支払わなくてはいけない犠牲としての時間であり、それなりの集中力をもって行なわなければならないリスクの高い仕事の一つです。

今の日本では、地方都市であれば、自動車は必需品です。
ときどき東京に行くと、地下鉄での人々の多さに面食らい、地方との違いに愕然とします。しかし鉄道が効率的な足になるのは都会だけのこと。
人々が移動する方向や場所が共通でなければ、鉄道による輸送コストは高くなり、結局移動は自動車に頼らざるを得ません。その場合、運転する時間や、集中に支払うコストを考えると、自動運転になることのメリットは大きいと思うのです。

私も技術者の端くれではありますが、自分なりに考えてみても、自動運転って本当に複合的で総合的な技術です。
画像認識はもちろんのこと、そこから様々なセンサー情報と掛け合わせ、数msec単位くらいで最適な運転操作を決定しなければいけないだろうし、そこからハンドルやブレーキ、アクセルなどの操作子に伝達する際にはメカ系の技術も必要になります。

私の想像するに、運転状況の判断にはパターン認識やニューロコンピュータのような学習型のアルゴリズムを使うのではないでしょうか。でなければ、逆に世界のあらゆる道路状況をルールベースでプログラミングしなければならないし、その条件網羅はほとんど不可能なように思えます。
どんな状況でも対応しなければならない自動運転には克服すべき課題も多いですが、そのような複雑な技術だからこそ、技術者としてワクワクするような面白さがあります。また、素人に分かりやすい技術であり、社会的にも圧倒的なインパクトを与えると思うと、開発しがいがある仕事ではないでしょうか。

すでに、この技術がもたらす法的な問題などを指摘する人も多いです。
自動であっても運転できる誰かが乗るべきかどうかとか、事故を起こしたときの責任は誰にあるかとか・・・
しかし、便利さとリスクはどうしてもトレードオフになる部分があるので、私としてはそのようなマイナス面に対してはある程度検討しながらも、そのためにいつまでも導入出来ないというようなことになるべきではないと思います。
まあ、そもそもいろいろな人間が運転している現状の方がリスクが高いともいえるわけですし。


私の想像では、いきなり自動運転の車が発売されて、あらゆるところに自動に行ける、という形にはならないでしょう。
恐らく最初は高速道路のみの利用ではないでしょうか。高速道路なら、運転ルールもシンプルだし、少なくとも自動運転の技術に対する負荷は低いように思えます。
運転者にとっても長くて退屈な高速道路こそ、自動運転で出来たら嬉しいハズ。特に運送業者にとっては大変な朗報だと思われます。

仮に高速道路のみの適用だとしても、意外と社会には大きなインパクトがあるような気がします。
恐らくすぐに自動運転による高速道路専用タクシーが現れるのではないでしょうか。価格設定によっては鉄道の客を大きく奪うかもしれません。車の中はいわば個室なのですからお客さんにとっては快適そのもの。運送業者も人件費が相当安く済むようになるかも。

高速道路のトラフィックが増えると、公共事業として高速道路を作ることが再び盛り上がるかもしれません。北海道などは、もうJRを無くして環状型の高速道路を作ればいいなんて議論が出るかも。
そういう国土の交通インフラについても再考するきっかけになるかもしれません。


2013年10月19日土曜日

一人で生きることとみんなで生きること ─みんなで何かを作る

私たちは日常的に「何かを作る」行為を行なっています。
当然、複数人で何か一つのものを作るということもあります。

複数人で何かを作る場合には、一定のルールを設ける必要がどうしても出てきます。
一つのものをみんなで作ろうとした場合、目に見えないそういったルールや作業分担の仕組みが、作った物の出来映えに大きく影響します。

ところで、私は作曲活動をしていますが、通常作曲は一人で行なうものです。
作曲のアウトプットは楽譜とすると、私は一人で楽譜を作れば良いのです。楽譜を作るためにはテーマを決めて、構成を決めて、音符を配置し、表現を付けて、間違いがないか調べて、見た目を整えて・・・といった作業を行ないます。


例えば,上記の作業を複数人でやったらどうでしょうか。
まず作業をどのように割り振るか考える必要があります。
もちろん一つ一つの作業をみんなで相談しながらやっても構いません。特に最初のテーマ決めは全員が関わりたい作業でしょう。しかし、作業が細かくなるにつれ、同じ箇所をみんなで相談しながら作ると時間ばかりかかって一向に作業が進まなくなります。

ここでいくつか作業の割り振りを決める必要があります。
テーマを決めた後、楽曲を人数分に分割して、それぞれの箇所を一人の人に担当してもらうやり方がまず考えられます。水平分担型とでもいいましょうか。
あるいは、複数人が同時に作業しなくても良いのなら、全体の仕事の分割を流れ作業的にして、まず細かい曲構成を決める人、構成に従って音符を配置する人、音量などの表現を書き込む人、校正・チェックを行なう人、という分担も考えられます。これを垂直分担型と呼ぶことにしましょう。
まあ、作曲の場合、芸術的な要素が強いので、後者の垂直分担ということはまず考えられませんが、実利的な面が強ければ作業内容ごとに分担を分けることは効率的で、アウトプットを均質化します。

上記の作曲の例でいうと、垂直分担型の難しさは非常に分かりやすくなります。
つまり、曲の構造を考えてもメロディは別の人とか、メロディを考えるのと音量を考えるのが別の人とか、まあ正直、こんな方法で作曲を行なうのはかなり難しいです。
それでも敢えてそういう分担を行なうなら、構成担当者とメロディ担当者と音量担当者が、音楽の流れの盛り上がり方や落ち着かせ方の分類を行ない、その相互関係のルールを決めて、表記法や禁則などを文書化する必要が出てくるでしょう。
こう書くと無茶苦茶ヘンテコなお話のように見えますが、話が作曲でなければ、こういうことは日常的に多くの人が行なっていることです。


私は仕事でプログラムを書いていますが、まさに似たような問題にいつも遭遇します。
今でもプログラミングの多くのプロジェクトは水平分担型で仕事を割り振っています。
ところが、よりプログラムが大規模になってくると、OS部分や、表示のフレームワークといったソフトウェアの部品を担当する人が必要になってきます。OS機能は多くの人が利用するので、これはまさに垂直分担型ということになります。

そして世の中は、OSがパッケージングされ、WindowsとかLinuxとか、iOSとかAndroidとか、垂直分担のパッケージがまとまった創作物として確立してしまいました。
このように各層をブラックボックス化すれば、作業の効率は飛躍的に高まるからです。こういった傾向は今後ますます拍車がかかるでしょう。最終的にはソフトウェアがブロック化され、最終商品はブロックを組み合わせることによって作成するようなメタプログラミング的世界がやってくるものと思います。


やや話が逸れましたが、みんなで何かを作る場合、上記のような水平分担か垂直分担かの判断の必要があり、それを統べるリーダーがその分担について自覚的でなければいけないと思います。
人が少ないなら、水平分担が分かりやすいのですが、分担されたものの出来映えにずいぶん差が出る可能性があります。実利的なものを作る場合、それは品質に大きく影響してしまいます。一人一人が芸術家としての矜持を持って対応出来る人たちなら水平分担は適度なライバル意識を刺激して良い結果をもたらしますが、個々人の能力差が無視出来ない場合はむしろ垂直分担を検討した方が良いような気がします。


2013年10月12日土曜日

完璧主義とプロフェッショナル

完璧主義がアダになってイノベーションを阻んでいる、というような言説を良く聞くようになりました。自分が日頃そう思っているから、余計にそういう話題に吸い寄せられているのかもしれません。
自分の身の回りにも、良かれと思ってやっているけれど、本当にここまでの完璧主義が必要なのかと思うようなことに遭遇することが度々あります。

我々日本人は完璧であることを美徳とする性質があるのでしょう。
工業製品の場合、性能が目に見えて良くなっていた時代は良かったのですが、あるところから革新的な変化が起こらないようになると、作り手の関心は完璧であることに移ってきたのではないか、と思うのです。

そしてそれは作り手だけでなく、製品を手に入れる消費者にも同じマインドが波及してきました。
例えば、自分の購入したある製品が思い通りに動かなかったとします。仮にそれが相当な悪条件だったり、特定の限定された状況だったとしても、そんなことは御構い無しにお客さんは販売元にクレームを付けます。
それが製品の性能限界である場合もありますし、使い方が悪いということもあるでしょう。お客さんに直接対するサポートセンターでは何とかお客さんに理解してもらうように務めますが、そういう情報はそのまま商品開発部署に流れてきます。
場合によっては、品質管理の部署にこういう問題が大きくクローズアップされ、「何とかすることは出来ないか?」という依頼が開発部署にやってきます。

本当の重大な不具合なら、上記の情報の流れ自体は全く何の問題も無いのですが、そこで扱われるクレームが現場からすれば性能限界に近いようなものであっても、中盤にいる人たちが感じる完璧主義によって途中ではリジェクトされず、お客さん以上の圧力となって現場に流れてきます。
一つのクレームが治すべきものか、そうでないのか、という判断は非常に難しいものですが、難しいからこそ完璧主義側に振れ過ぎているのが今の私たちの状況ではないかと感じます。


プロフェッショナルであるということは完璧であること、だと思っている人が多いのでしょう。
それは決して間違っているわけではありません。プロフェッショナルである条件の一つの要素であることは確かです。
しかし、それよりはるかに重要なのは、世の中が必要としている(であろう)新しい価値を提供することです。
世の中が必要としている、というのは、企業活動で言えば、その商品やサービスで売り上げが増え適正な利益が確保出来るということを意味します。利益が出るということは、支出より収入が勝っているということです。

完璧でないものを売れば、商品イメージが悪くなり結果的に売り上げが減っていくでしょうが、市場が要求する以上の完璧を求めると、完璧であることのコストが増大していき、今度は支出が増えていきます。
金勘定になると生々しい感じがしてしまうし、利益追求で品質をおろそかにするな、という批判を言う人も出てくるでしょう。しかし、過剰な完璧主義は作り手の自己満足に陥るという側面も持っていると私は感じます。

もう一度、プロフェッショナルであるということはどういうことか、本質から考えてみたいのです。
世の中に必要とされていることとのバランスを取る、ということは、プロフェッショナルであることの大きな要素です。
必要とされていないものを作ることは、言ってみればアマチュアリズムです。
プロフェッショナルであれ、ということは、世の中に必要なモノを提供し続けることであり、それは適正な利益を出せということであり、そして自己満足に陥りやすい完璧主義に落ちないようにするバランス感覚を持てということなのです。

まあ一般論として納得してもらえても、個別案件となればまた話が違ってくるのが、世の常。それは結局、プロフェッショナルとしてのセンスの問題なのでしょうけれどね・・・。

2013年10月7日月曜日

一人で生きることとみんなで生きること ─ネット発信と個人力─

IT化はますます個人を丸裸にし、個人と集団の距離感も変えていきます。
そんな時代に私たちはどう行動していったら良いのでしょう?

毎日のようにTwitterやFacebookで自分の思ったこと、感じたこと、日々の出来事をネットに書き込めば、どんなに匿名を装っても、個人を特定することは難しくないと思います。少なくともこれからビッグデータの解析技術が飛躍的に高まれば、少ないキーワードで個人を特定することは可能になっていくような気がします。
つまり日々ネットで発言することは、自分をさらけ出し、世界の誰にでも自分が何ものであるかを表明しているようなものです。
これからは、そういう覚悟を持った上で然るべき発言が出来る人がネットで力を持つことでしょう。

そういう感覚を知ってか知らずか、世の中にはまだSNS的なものを嫌悪し、そういうものとは自分は関わらないという人たちも結構います。
個人的には、その考えは今どきヤバいだろう、と思いつつも、そういう人たちの考えを変えることは不可能だと思うので、適当にスルーしています。
しかし、個人が特定されることで不利益が生じるのなら、確かにその考えもあながち間違ってはいないわけです。SNSをやれば個人情報が漏れることによる不利益もあるでしょうし、そもそもそんなふうにバカなことをネットに書き散らしている自分が世界に晒されるのは耐えられない、という気持ちもあるでしょう。
その辺りは、負の感情による自尊心と無縁の私とは、全く性向が異なっているわけですが。

いずれにしろ、このような両極端の人々がいるのなら、その溝はどんどん深まっていくことが予想されます。
日頃から全てを曝け出そうとしている人は、いろいろと失敗もするでしょうが、それを通して自分を曝け出すスキルも増していきます。
その一方、ネット世界に生息せず殻に閉じた人々は、リアルな付き合いのみで成り立っているような集団に吸い寄せられるように帰属して生きていくでしょう。

現実的には、こういう現象は世代間ではっきり分かれています。
当然若い世代ほど、ネットでのコミュニケーションスキルが高く、そういう世界が前提の生活をしているはずです。そして中高年になると、その比率がだいぶ変わっていきます。
今の40代くらいでも、ネットでバリバリ発信している人はそう多くはないと思われます。そう考えると、全世代がネットで発信当たり前になるにはまだ30年くらいはかかるのではないでしょうか。
とはいえ、世の中の流れを考えれば、個人がネットで情報発信する方向にシフトすることは明白に思えますが、それでもネット内で有名になれる人はごく僅かであり、そういう現実を目の前に、敢えて自分を晒さないという選択をする人はこれからも一定数はいるのではないかと思います。


ネットでの発信度が高いほど、個人が自立していて、集団に帰属する存在理由は減っていきます。
恐らく集団というのは、一人で生きていけない人たちの相互扶助の装置なのであり、そのメリットと引き換えに、生活に何らかの制約が課せられます。

誰もがその制約から逃れたいと思い、一人で生きていきたいと考えます。
そして、それが本当に出来る人たちは僅かな人々です。
そういう世の中の構造が、これから少しずつ明瞭になってくるのでしょう。

私たちの選択は、頑張って一人で生きていけるだけのネット発信力を身に付けるか、そこそこの発信力と縛りの弱い集団の帰属か、あるいはネット発信せずに拘束力の強い集団に属するのか、そういうことが問われるようになるのではないでしょうか。

2013年9月29日日曜日

一人で生きることとみんなで生きること

社会の中で生きていくということは、多くの人たちと一緒に生活を共にし、ルールを決めてときには罰したり、逆にお互い助け合ったりしながら、生活の機能を分担して豊かな暮らしを享受しようということです。

とはいえ、集団の中で生きていくことが時に息が詰まるような苦しさがあったり、逆に自分がみんなをまとめる立場なら、ルールを守らない人々や自分勝手な人々の言動に手を焼いたりすることもあるでしょう。
そしてそんなとき、ついついもうこんな人たちとは一緒にやっていきたくない、と思うこともあるかもしれません。いや、まあ人生なんて、実際そんなことの連続です。

大ざっぱに言えば、日本的な社会では「こんなところでやってられない」と思ってもそれに耐えようとするメンタリティが強く、一般的な欧米の社会では、自分の属する集団を変えていくことにそれほど抵抗が無いように見えます。
そして、昨今のIT化は、人々のホンネが可視化され、結果的に人々をますます集団よりも個人の気持ちを大事にする方向にシフトさせているように感じます。一度ホンネを言い始めた個人は、それを正当化するために自分の主張を言い続けます。こういったスパイラルはますます人々の気持ちを集団から引き離す作用を及ぼすことでしょう。


しかし、それでも人が集まらなければ出来ないことは世の中にはたくさんあるはずです。
そもそも人類は人々が協力し合うことによって進化し、発展してきました。
一人の人間の持っている能力や時間は小さくても、それを集約すれば大きなことが可能になります。
例えば、一台の自動車を作るためには、たくさんの部品を設計しそれらを組み合わせねばなりません。もはや一人の人間がその全てに精通することなど不可能なことです。
あるいは毎日の食事で、いろいろな食べ物を食べることが出来るのは、世の中にいろいろな食べ物を提供する人々がいるからです。自分一人で自分の食べる物を作ろうと思えば、同じようなものを延々と食べ続けるしかありません。たかだか100年くらい前までは、そのような人々もたくさんいたと思います(もちろん世の中にはまだそういう人たちがいますが)。
そういう巧妙な分業体制があるからこそ、私たちは今の豊かな暮らしを享受できています。こういうことは、人々が協力しながら、分業を進めてきた歴史の集積のおかげです。そのためには人々の協力関係は不可欠だったし、それはこれからも変わることは無いでしょう。


当たり前だけれど、一人で生きていくことは不可能です。
単に必要なモノを手に入れるということだけでなく、人は他人からいろいろな影響を受けて生きています。自分だけが持っている個人的な性向はあるにしても、人から面白いものを教えてもらったり、常識を刷り込まれたりしながら自分自身も常に変わっています。

それでも、集団に依存して生きていくことと、自分が一人で生きていこうと考える比率を少しずつ個人側に変えていくことは可能でしょう。
あるいは、今後個人を重要視する世の中に変わっていくのなら、集団に対する自分のスタンスももう少し変えていくべきなのだと思います。今世の中で起きているおかしなニュースの数々もそういった個々人の常識のズレから発生しているように思えるからです。

明らかに世の中のベクトルが個人側によっているのなら、人々の協力関係をうまく維持しながら、新しい集団との付き合い方、集団のあり方が生じてくるべきです。
そして、そういう潮流をうまく嗅ぎ取って個人も戦略的に行動することが必要だと感じています。

2013年9月21日土曜日

オンライン教育と社会の効率化

昨今、大学の授業がオンライン化されている、という話題を聞くことが多くなりました。
先日見たテレビ番組でも、有名大学の講義を無料でインターネットで受講することが出来、レポートや課題を提出すれば単位も取れる、といった内容を放送していました。そこで優秀な成績をとった若者が、モンゴルの田舎やブラジルの田舎から、シリコンバレーの会社からオファーを受けて入社したりした事例なども紹介されていました。

教育を受ける側からすると、今までの学校では受け身の授業のみだったものが、意欲と才能があればお金が無くても最先端の教育を受けられる機会が増えることとなり、人によっては大変喜ばしい状況が生まれているのです。
しかし、その一方、勉強が好きで好きで仕方がない、というメンタリティを持った人は私が想像するにそれほど多くなく、全てが本人のやる気に還元されるその仕組みは、否応無く本人の気質を露呈させることになります。

このようなオンライン教育が何となく空恐ろしく感じるのは、そういったところにあります。
私とていろいろなスキルが身に付くことは大変嬉しいことだけれど、学生時代、好き好んで授業を受けていたかというとやや疑問も感じます。むしろ勉強好きは、ガリ勉などと言われて蔑まれるような雰囲気さえありました。
そう考えると今までの教育とは、単にみんながやっていたから自分もやっていた、ということに過ぎなかったという気もします。

ネットの本当のコワさというのは、どこまでも人々の欲望を満たそうとすることによって、逆に人間性が丸裸になってしまうということにあるのかもしれません。
いくら、勉強して最先端の技術を持っている企業に入ることがスゴいことだとしても、誰もが一人でコツコツと勉強し続けるモチベーションを保っていられるわけではありません。
大人になって、このような職業にしか就けなかった責任は、以前なら他の何かのせいに出来たのに、これからは全て自分にあるという事実を各自が突き付けられるのです。

もちろん、学ぶことは何歳になってからでも可能です。
オンライン教育は自分が改心して、より高くステップアップするためにいつでも開かれています。だから、より一層、自分が今現在どう生きたいか、ということがやはり丸裸になってしまうとも言えます。


こういった現象を社会全体でマクロ的に見てみると、賢くてモチベーションの高い人々が同じような場所や境遇に集中する現象が、どんどん加速していくように思えるのです。それはITが社会を徹底的に効率化する、という基本的なベクトルを持っているからに他なりません。
そのようなITが目指す世界観とは全く逆に、これまでの日本では社会全体が非常に均質だったわけですが、この中から優秀な人たちだけが一人抜け,二人抜け、という現象がこれから至る所で起こるでしょう。
そうなったとき、優秀な人たちが何とか回していた組織が、まともなアウトプットを出せないようになり、少しずつ瓦解を始めるようなことも起きるかもしれません。
そうすれば組織は、優秀な人が抜けないようにする、ということも真剣に考えなければいけなくなるはずです。今まではあまりに優秀な人たちが冷遇されていたと思うからです。

このようなことが加速度的に高まれば、優秀な人々とそうでない人々は社会の中でどんどん分離をおこしていくのではないでしょうか。そしてそれは思わぬ変化を世の中に起こすことになるでしょう。
優秀な人たちとそうでない人たちが社会的に分離されると、双方の趣味や嗜好の違いもどんどん激しくなるでしょうし、話される言語や常識、倫理観まで集団によって大きく乖離していく気がします。
もはやお互い分かり合えないような地点まで行って政治的に対峙するか、一部の優秀な人たちがその他大勢の人々を精神的にもコントロールしてしまうような状況になるか、そのようなSF的な未来が訪れるかもしれません。

そして、今こうしてそれを薄気味悪いと感じる倫理観もまた、世代が変わるごとに当たり前のものになっていくのかもしれません。

2013年9月14日土曜日

未来の合唱コンクール(短編小説風)


会場内は異様な緊張感に包まれていた。
今年の全日本合唱連合コンクール全国大会は各地から多くの強豪を向かえ、合唱界のみならず、広く世間の注目の的となっている。各界を代表する音楽、文化関係者が会場内にも散見された。それにしてもここ数年の合唱熱の高まりには驚くものがある。底辺の拡大によって、トップレベルの質は瞬く間に上昇した。近年の全国大会での数々の名演奏は世界的な注目を集め、またそこで披露される声楽テクニックは年々高度になっているのである。
私たちの出番は、あと1つと迫っていた。我々は舞台袖で、携帯声帯保護マスク(注:通常のマスクのような形だが、適度な温度、湿度を供給し声帯を保護するために用いる)を各自取り付け、現在出演中の団体の演奏を聞いているところであった。もちろん、楽譜を広げ、最終チェックに余念がない団員もたくさんいる。我々の指揮者は、いま演奏している団体を気にしながらも、指の動きや腰の動きを厳しくチェックしている。
舞台上では演奏が始まった。演奏曲は近年急速に人気が高まった若手現代音楽作曲家の作品である。もちろん、この曲は合唱コンクールで歌われることを最大限に意識された作品で、そのなかで要求される声楽テクニックは恐ろしく難しいものである。

早速、この曲の第一の関門が訪れた。各パートともに、ほぼ5小節の間1オクターブ以上の跳躍が続くという箇所である。各パートの音は跳躍しているものの、縦の和声は非常に魅力的で、幻想的かつ斬新な和声が響く部分である。私も、思わず耳を立ててこの部分に注目していたが、舞台上の団体はこの部分を難無くこなした。そののち一瞬わずかながら会場がどよめくのがわかった。
演奏はこの成功に気をよくしたのか、声の張りが出てきて若干勢いが増している。非常に良い調子だ。舞台袖で聞いている私も非常に複雑な気持ちでこの演奏を聞いていた。
次の関門が訪れる。男声パートがほとんどソプラノと同じくらいの音域で32分音符のメリスマを歌う箇所である。ファルセットであるのはもちろんだが、この音域を女声が歌わないことに意味がある。男性的な力強さが要求されるのである。
ちょっと前のことだが、この曲を演奏するのに、本物のカストラート(注:男性を変声期前に去勢することによって、女声並みの音域を持たせた歌手)が用いられた、という噂が全国的に広がったことがあった。渦中の合唱団はその疑いを否定しが、あの団体ならやりかねない、というのが合唱関係者での定説である。
そののち、同様な箇所を持つ合唱曲が増え始め、男声に対する高度なファルセット技術が要求されはじめるようになった。ついにはホルモン注射を続けることにより女声並みの音域を持たせる方法が全国的に広まることになった。無論、芸術のためとはいえ、身体に何らかの薬物を投与することは決して良いことではない。事態を重く見た全日本合唱連合は、このような薬物投与をやめるキャンペーンを張り、その一環として合唱コンクールで本番前にドーピング検査が義務づけられるようになったのは3年ほど前のことである。
さて演奏のほうだが、音楽に若干力強さが足りないものの、技術的には無難にこの箇所をクリアした。我々の中でも「ちぇっ、技術点狙いか」といった舌打ちが聞こえる。
それから、演奏は幾多の関門をクリア。私から見ると、音楽のダイナミズムを若干犠牲にしているようにも見えたが、それにもまして、常人には考えられないようなテクニックをこなしていくこの団体の力は全く恐るべきものである。演奏は、全く一糸乱れぬハーモニーのまま、空調の音とほとんど同じくらいのレベルまで消え入るスモルツァンドで終了した。
そして、指揮者が棒を降ろした後、おおきなどよめきが、そしてそのあと大きな拍手が鳴り響く。そして聴衆の目は、協和測定メーター(注:声楽曲の演奏の協和度を判定するメーター。ヤマバ楽器によって最初に開発された。マイナスの値で表示され0に近いほど協和度が高い)に注がれはじめた。
現在、コンクールの得点には芸術点と技術点の合計によって競われているが、この協和測定メーターの値は技術点に大きな影響を及ぼす。特に技術点のように絶対的な評価が必要な場合にはなくてはならない測定装置であり、今では合唱音楽の発展に必要不可欠なものとさえ言えるだろう。
さて、拍手が鳴り止みそうになったとき、この演奏の協和度がメーターに表示された。
《-26.5》
また、会場全体がどよめいた。近年の難易度の高い合唱曲で-30を超えることは至難の技である。従って、この値は技術点に大きな影響を及ぼすに違いない。

そして、ついに我々の出番である。
私たちが歌う曲はモンテヴェルディのマドリガーレである。技術全盛の今にあって、こういった古楽曲が全国大会で歌われることはまれになったが、高い協和度を出せることもあり、まだまだ若干歌い継がれている。また、極端な音楽的解釈で非常に高い芸術点を稼ぐことがまれにあるので、技術指向を嫌う指導者にこの初期バロックの世俗曲にはまだ根強い人気があるのだ。
そして、何より私たちの演奏には大きな秘密兵器があったのだった。
我々は、声帯保護マスクをはずし、舞台に向かった。
そして演奏は指揮者のタクトによって静かに始められた。


気がついたら満場の拍手の前に私たちは立っていた。
演奏は万全の出来だったはずだ。
会場の拍手も、我々の演奏が平均を超えるものだったことを物語っている。
そしてメーターに協和度が表示された。
《-15.2》
表示と同時にまた拍手が鳴り響く。どのような単純な曲でもここまでの協和度を示すことは一般の合唱団には難しいとされている。しかし今日の大会では、他団体によってすでに《-11.5》が記録されていた。
表示されるのとほぼ同時に、私たちの指揮者から物言いがついた。
測定を機械に頼ることになってから、毎年若干の物言いがつく。物言いがあった場合は、もう一度再計算されることになっており、たいていは最初の表示とほとんど同じになることから、指揮者の器量の無さだけが目立つことが多い。
しかし、実は私たちの物言いは全て計算ずみの行動なのであった。
物言いを告げられた大会役員の顔が一瞬こわばっているのが感じられた。そして、その役員は再計算の指示のために技術者ルームに向かった。

しばらくして、役員は多少慌てた調子でマイクを握った。
「ただいまの演奏団体より物言いが付きまして、この団体の指示により、新たにミーントーンにて再計算された結果を表示いたします」
《-9.8》
この瞬間、会場全体は大きな興奮の渦に包み込まれた。女性の悲鳴さえ聞こえた。何人かは立ち上がり、驚きの表情のまま声すら発することが出来ない状態である。
ミーントーンによる協和度の測定、これこそが全く新しい見地から技術点を叩き出す我々の秘密兵器だったのである。しかも、我々はついに協和度において夢の一桁台を達成することが出来たのだ!
そして私は、本当にこれまで合唱をやっていて良かった、と一人心の中で叫んだのである。

2013年9月7日土曜日

内向型人間の時代/スーザン・ケイン

なかなか読書が進まず、読むのに3ヶ月ほどかかってしまいました。
しかし、これは非常に示唆に富む面白い本でした。それはきっと自分が典型的な内向型人間だという自覚があるからでしょう。

著者はアメリカ人。
当然ながらアメリカでは、外交的で明るく、社交的で、言葉遣いが巧みで、人と話をすることが大好きな、エネルギー溢れる人間が社会的には高く評価されるわけです。

しかし、内向型人間は大勢の人と話すと疲れ、一人になって何かに没頭することを好み、広く浅い付き合いより狭く深い付き合いを好みます。こういった人々は、一般的には社会的に表に出るようなタイプにはならないわけですが、本書では内向的な人間でも立派な仕事をした人々の例を挙げ、また内向的ゆえのメリットを生かすことによって、これからは内向型人間でも大きく活躍し得るということを主張します。
著者自身も内向型人間であることを、まずカミングアウトします。その上で展開される論考は著者自身の感情を強く反映しており、それだけに共感するところが大変多いのです。

序章で、内向型人間の特徴を20項目挙げています。
1.グループよりも一対一の会話を好む。
2.文章の方が自分を表現しやすいことが多い。
3.ひとりでいる時間を楽しめる。
4.周りの人に比べて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味が無いようだ。
5.内容のない世話話は好きではないが、関心のある話題について深く話し合うのは好きだ。
6.聞き上手だと言われる。
7.大きなリスクは冒さない。
8.邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ。
9.誕生日はごく親しい友人ひとりか二人で、あるいは家族内だけで祝いたい。
10.「物静かだ」「落ち着いている」と言われる。
11.仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めたりしない。
12.他人と衝突するのは嫌いだ。
13.独力での作業が最大限に実力を発揮する。
14.考えてから話す傾向がある。
15.外出して活動した後は、たとえそれが楽しい体験であっても、消耗したと感じる。
16.かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。
17.もしどちらかを選べと言うなら、忙し過ぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ。
18.一度に複数のことをするのは楽しめない。
19.集中するのは簡単だ。
20.授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式が好きだ。

正直、私も全て当てはまるわけでは無いけれど、ここで著者が内向的だと考えている人たちのイメージは伝わることと思います。

本書の中盤、こどもに対する心理的実験が紹介されます。
それによると、刺激に対して高反応な子供は成長するにしたがい内向的人間になっていき、低反応な子供は外交的になるそうです。
これは非常に示唆に富んだ話です。つまり、内向的人間とは、基本的に非常にセンシティブな人間であり、世の中の多くの刺激から自分の身を守るために刺激から遠ざかるような行動を取るようになるというわけです。
そう考えると、芸術家のような人々が多く内向的であるのも頷けます。彼らは刺激に対してセンシティブであるが故に、それが芸術を生む原動力にもなり得るわけです。

人はどうしたって、持って生まれた性向、性格から逃れることができません。
内向的人間は、人生において、内向であるが故に辛酸を舐めるような経験も多いでしょう。渾身の意見、作品を否定されたり、自分と同じ立場にいても世渡り上手な人が評価されたり、ときには自分の意見も本質とはかけ離れた枝葉末節な理由で否定されたりします。
そういう経験から、自分の外向性を多少なりとも磨く必要はあるのでしょうが、世の中にも多くの内向型人間がいて、同じような経験をしながらも多くの場所で活躍していることは、私に勇気を与えてくれます。

時代はますます専門性が問われ、アート感覚が問われるようになるでしょう。
これからは、センシティブな内向型人間が活躍できる場が益々増えていくでしょう。そんな希望溢れる未来を感じることが出来た良書でした。

2013年9月1日日曜日

ラズベリー・パイが作る未来、そして私の場合

以前ラズベリー・パイ(Raspberry Pi)についてこんな話題を書きました。

今後、電子機器がこういった小型PCボードに席巻されるだろう、という予想は当時から変わりませんが、それには障壁があります。

コンピュータ、ITの世界は非常に進歩が速く、10年前のパソコンを使い続けるのは基本的には大変難しいハズ。ストレージもメインメモリも10年前とは比較にならないほど容量が増えたし、CPUの性能もどんどん上がっています。
その一方、私たちの身の回りのある電気製品は、壊れるまで使うものがほとんどです。冷蔵庫とか洗濯機とかエアコンとか、あるいは各種調理器具とか、あとはAV機器系でしょうか。こういう機器は、もちろん中にマイコンが入っているわけですが、メモリが足りなくなったからとか、CPUの処理速度が足りない、という理由で製品を買い替えることはありません。
通常は、壊れて使えなくなったから新しいものを買うことが一般的です。

ところが、製品開発側からすれば家電製品がネットに繋がったりすれば、いろいろ便利だろうと考え、そういう機能を追加しようとします。
確かに今の技術でネットに接続することは出来るでしょう。しかし、5年後、あるいは10年後にネットが同じプロトコルのままかどうかも分からないし、各種ネットサービスの機能もある程度ネイティブな処理で行なうことが一般的になるかもしれません。
ネットに繋がって便利〜、みたいな機能を電気製品に入れようとすると、逆説的に10年使い続けようみたいな価値観が揺らいでしまうのです。

それで考えられるのは、電気製品のCPUやストレージ、ネット接続の部分が外部汎用コンピュータボードとして製品から分離され、必要に応じてアップグレードが可能になる、といった方向性です。
確かに今の消費者が、コンピュータボードの性能や、OS、ネットの規格の違いまで知らなければいけないというのは酷な気もします。
しかし、そちらのほうが経済的にメリットがあるのなら、消費者がコンピュータリテラシーを持つことを前提に、そういう商品が増えていく可能性もあると思います。

そして、そこでラズベリー・パイなわけです。
こういう小型PCボードが電気製品から抜いたり挿したりすることが可能になれば、冷蔵庫、洗濯機の基本性能はそのままで、ネット接続や情報管理などの処理をアップグレードすることは可能でしょう。

そのためには、電気製品とPCボードとの接続が標準化される必要がありますが、先に作っちゃったモノ勝ちなのかもしれません。Googleあたりが家電との接続APIを規定してくれれば、世の中も少しは変わるかもしれません。

まとめると、いろいろな電子機器がネットに繋がったり、大量のデータを保持してネットでやり取りしようとすれば、そういう機器のコンピュータ部分を取り外し可能にする、というコンセプトが成り立つ可能性があるということです。
そして、そのときラズベリー・パイのようなボードがそういう部分を担うデバイスとして、少しずつ好事家から一般大衆へ広まっていくのではないか、という予想を私はしています。

----------
さて話は変わり、私のラズベリー・パイでの活動の報告など。

写真の通り、私の机の上はすっかり電子工作スペースと化しています。
中央にあるのがラズベリー・パイ。いま、I2Cの信号だけ抜き取り、これを小さなタッパーの中に入っている気圧センサーに繋げています。I2Cデバイスはもう一つ。こちらは、ポート出力をI2Cに変換してくれるデバイスもI2Cに繋げています。

この状態でタッパーにくっ付けた透明なチューブをくわえて息を吹き込むと、気圧が若干上昇します。これを吹奏圧として利用すれば、吹く電子楽器が出来るはず。

今は、「電子オカリナ」を目指して、ラズベリー・パイ上で動作するソフトシンセの調整をしたり、ラズベリー・パイのI2C端子以降をきちんとした筐体に入れる方策を検討しています。
また、そろそろ3Dプリンタで出力するために、CADで立体図形を描く練習も始めたいと考えています。
さて、今年中にどこまで出来ることなのやら・・・


2013年8月27日火曜日

もう好きな音楽を共有できない

今どきの高校生が聴く音楽ってどんな音楽なんでしょう?

静岡県では合唱コンクールで審査結果を待つ間、高校生が高校単位でポップスを歌い合うという不思議な行為が流行っています。昨日もそれを聴きながら、ついつい「全部古い曲じゃん」とか突っ込みを入れていました。新しくてもせいぜい10年くらい前に流行った曲。

先生が持ってきたりしているからっていうこともあるのだろうけれど、ヒット曲という概念が無くなりつつある今、音楽の趣味は分断され、友達みんなが知っていて一緒に歌える曲が非常に減っているのではないか、とそんなことを感じたのです。

40歳を超えたおじさんたちは、そもそも流行歌などチェックしませんから、あまりそんなことを気にもしていませんでしたが、今の若い世代はみなが同じ曲を歌うような文化がもはや成り立たなくなってきているのではないでしょうか。


私自身はこの現象を単純に嘆かわしく思っているわけではありません。
だいたい、大勢で歌える曲というのは、前向きで明るい音楽であり、そのような音楽ばかりが好きだというのは、私に言わせればむしろ不健全。
音楽を聴くという行為が、ますますパーソナライズされてくるにつれ、個人は自分の趣味に合った音楽を聴くようになります。人と聴く音楽が違ってくるのは当然のことでしょう。

それでも、小学校の遠足のときにみんなで流行りの歌を歌ったとか、そういった楽しかった記憶を思い出すと、これもまた時代の変化の賜物なのだろうか・・・とやや切ない気持ちになったりもします。
みんなが取りあえず一緒に歌えることができた歌は、別に音楽的に優れていなくても良いのです。歌詞がちょっとくらい意味が分からなくてもいいのです。声を合わせて友達と一緒に歌ったという記憶が懐かしく心地よいのです。
そうやってみんなで一緒に歌っているうちに、気がつくとその歌には想い出が絡まり、郷愁をまとって、忘れられない音楽になっていきます。

音楽の趣味はどこまでも個人的なものだけれど、共有することで、友達同士を繋げた音楽というものも以前は確実にありました。
そういった音楽はこれからどんどん無くなっていってしまうのでしょうか?
無くなった先に新しい文化の芽が生まれるのか、それとも音楽を共有することは人間の基本的欲求の一つであり、いずれまたみんなで同じ音楽を聴くような未来がやってくるのか、まだ私には計り兼ねているところです。

2013年8月18日日曜日

楽譜を読む─プーランク SALVE REGINA その2

プーランクのSalve Reginaについては以前も記事を書きましたが、まさか「その2」と題してもう一度書くことになるとは思ってもいませんでした。ちなみに、以前の記事はこちら

さて、なぜ今回Salve Reginaのアナリーゼその2を書こうと思ったかというと、フレーズの最後に八分音符+八分休符、がある音形について分析してみたからです。

もともと、この点については以前より気にはなっていたものの、適当な解釈をすることで、あまり無理やり法則性を当てはめてしまうのも違うかなというような想いがありました。
その気持ちは今でも変わりませんが、実際にこの曲のパターンを一つ一つ吟味してみると、意外と分析可能なレベルの法則性を見つけることが出来たのです。これなら十分にアナリーゼの結果として紹介出来るのではないかと考えました。


では、解説してみましょう。
Salve Reginaの中で、フレーズの切れ目に八分音符+八分休符となるパターンが散見されますが、このパターンを以下の三つに類型化してみました。
1.連呼型
2.弱強型
3.フレーズ型

まず連呼型です。
これはいずれも繰り返しが二回現れるところで、全部で三カ所あります。一つ目は練習番号1の"Ad te clamamus"を二回連呼するところ。二つ目は練習番号6の"o clemens, o pia"と似た音形が二回現れるところ。三つ目は、最後のページの2段目"Maria"を二回連呼するところです。
繰り返し感を強調するために、一つのフレーズが八分音符で収められ、八分休符が付いている、と考えることができます。
従って、この繰り返し感を強調するような演奏が望まれるのではないでしょうか。

次は弱強型。
これはフレーズの音量が大きくなる直前が、八分音符+八分休符になるところです。
例えば練習番号2の"Ad te suspiramus, "の "-mus"のような箇所。この直後に音量はフォルテになります。他には、練習番号3の"Eja ergo" の "-go"も同様。それから、その3小節後の"misericordes" の"-des"など。
これらは、次のフレーズが突然大きくなるため、その前のフレーズを短めに切っておこうという感じがします。そうすることで、演奏者側も音量の切り替えが容易になるし、聴く側も明確な切れ目があることで、次の変化の予兆を感じやすくなります。

最後にフレーズ型。
これは、フレーズそのものが細切れで発想されているようなパターン。
具体的には、練習番号7以降、2小節ごとにフレーズが八分音符+八分休符で分断されます。プーランクの楽曲にはこのようなフレージングが多く現れ、それが独特のプーランク節を成しています。
これはフレーズそのものなので、具体的な演奏方法まで一般的なモノサシを当てはめることは難しいのですが、それでも厚ぼったいロマン派的な世界観と対比すると、音価を守ることでその歯切れ良さは明確に伝わってきます。

楽譜に現れる八分音符+八分休符のフレーズの切り方を、以上のような三つに分類してみました。
このような類型化を行なうことで、演奏家にとってフレージングの目的が明確になり、より的確な音楽解釈を行なうことが可能になるのではないでしょうか。

2013年8月11日日曜日

人間であることは芸術家であること

先週「これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する」などと書きましたが、その真意などをもう少しまとめてみようと思います。

某ブログでクラウドソーシング関連の話題が書かれていました。
一つ一つはすでにいろいろなところで聞いた話ではあるのだけど、こういう話題をひとまとめにして振り返ると、今の常識との落差に大変驚くのです。
もはや、国内の法律とかが追いつかないくらい、ネット上で世界の平均化が進行していきます。ネットの世界では流行り始めるとあっという間に拡がりますから、いまはまだそこまで行っていなくても、遠くない将来クラウドソーシングが世界中に拡がるものと思われます。

これは、特に日本の会社に良くあるように、生産性が低くても何とかなっていた仕事文化に大きな打撃を与えるはずです。
この打撃というのは、組織への忠誠、隷属とか、目立つことを良しとしない文化とか、コツコツと同じことを実直に続けることの美徳とか、金儲けを嫌う風潮とか、そういう我々のメンタリティに修正を迫るようなことを意味します。

上で挙げた我々日本人のメンタリティは、基本的に全て個人が芸術的に生きることを阻害させるようなことばかりに思えます。
芸術家は組織が嫌いですし、不条理な組織のルールを守ることが耐えられません。
芸術家は自分という人間が広く知られることを願います。もちろん、自分の得意とする分野においてです。
また、芸術家は絶えず新しいことに挑戦し、同じパターンを延々と続けることを良しとしません。
ただ、芸術家はお金儲けは苦手ですし、無頓着だったりもします。

しかし、クラウドソーシングの話は,一つの取っ掛かりに過ぎません。
ネットが世界中に拡がり、世界の情報がいつでもどこでも簡単に手に入れることが出来るようになった未来では、情報の落差でビジネスをするような仕事が減っていきます。
また、公的機関(政府機関)の存在意義がだんだん失われていき、国独自の仕事とか、市場とかがどんどん小さくなっていくことでしょう。

そのように、情報の落差や特定の地方で通用するルールの運用で仕事をしていた人たちが減っていくと、結局最後まで残る最も重要な仕事とは、イノベーションを起こし、絶えず世の中に新しい価値を提供するような仕事です。
そして、それはまさに日常的に芸術家が行なっていることでもあります。


もちろん、世の中から単純作業が全て無くなるなんてことも起きないでしょう。
しかし,そういった仕事は明らかに底辺の仕事であり、高給を取れるような仕事でないことは確かです。
全ての人々が芸術家的な生き方をすることは大変なことのように思えます。
しかし、人には誰でも得意なことがあるはずですし、それを磨くことでクリエイティブな仕事を、フルタイムでないにしても、行なうことは可能ではないでしょうか。

いろいろな反論もあるかと思います。
私自身も、ここで書いたことにロジカルな裏付けがあるわけではありません。
しかしIT技術の発展は、人々から単純作業をどんどん奪うことは確かです。奪われた人々が自分の意志で得意分野を探し、その世界を掘り下げることでクリエイティブな仕事が出来るようになる素地が形成されることは可能ではないかと思います。

人は本来芸術家である、というのも私の信条です。
その心を忘れずに保持し続け、自分をクリエイティブな世界に持っていこうと努力した方には、これから良い世界が待っているかもしれないのです。

2013年8月3日土曜日

芸術を通して伝えたいこととは何か

芸術とは何か、と問われたとき、その根本は「何かを伝える」ということなのだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。

ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。


表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。

そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。


では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。

例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。

こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。


これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。


2013年7月27日土曜日

面白いと思う声部の動き

演奏家が練習を通して「なるほどね〜」といった感じで曲に感心する力を持つことは大事なこと。
たとえそれが作曲としてわずかな工夫であって、音楽を聴いた聴衆にはほとんど気が付かないようなレベルであっても、そういうことに丹念に気を付けている作曲家の姿を意識することによって、必ず演奏にもいい効果が現れると期待できます。

今回は、合唱で複数声部がどのような相関関係を持っているか、ということをいくつか挙げて、楽譜を深く読む取っ掛かりを探ってみようと思います。

1.反行
ある声部が上がっているときに、ある声部が真反対に下がっているような音形です。
ほとんどの場合、これは作曲家が意識的にやっているはずです。
これも上がる方が順次進行なら、下がる方も順次進行、というように上げ下げの具合が同じほど反行であることが明瞭になります。




なぜ、作曲家が反行する声部を書こうと思うのか、いろいろな理由が考えられます。
一つは音響の立体性。一度に二つの相反する動きがあることによって、音空間に立体感が生まれます。
次に、楽譜が視覚的に膨らんだりしぼんだりする形を見せるため、何らかの意味を象徴している可能性があります。クレシェンドの形にも似ているので、音形そのものがクレシェンドを反映している、というような感じです。
さらに、これを複数回連続的に使ったりすることで、よりフレーズを印象的なものにする作用もあるでしょう。複数パートの動きを主題にしてしまう、というような使い方です。

2.同じ音+そこから上行 or 下行
例えば二つの声部が同じ音を歌っていて、片方はそのままで、もう片方が上あるいは下に動き始める、というようなパターンです。



これももちろん意図的なものを感じるはず。
場合によっては、1の反行よりも拡がりを感じさせます。両方とも動くと二つの音の相関関係を感じるのはやや難しいですが、最初が同じ音だと、明らかに二つが分離して拡がっていく感じが得られます。
やはり一本の線から始まって、何かが拡がっていく、という感じを音楽的に表現している場合が多いと思われます。
さらに複数声部で同様なことをすると、楽譜が幾何学的にも面白くなり、多少クラスタ的な音がしても非常に特徴的な音響を表現出来る可能性があります。

3.平行五度、平行四度
言うまでもなく、和声学的には禁則なわけですが、禁じられていると使いたくなるというのが人情というもの。


もちろん、敢えて使おうと言うのですから、それなりの効果を狙っているはずです。
四声体の中の二声がこうなっていると、和音の連結が美しくなくなりますが、二声のみで歌うのなら、その空虚さを強調させることが出来るはず。
あるいは、二声の平行音程+他の二声は別の動き、というようなことも出来るかもしません。

この響きをどのように使うか、という点において、作曲家の意図を汲み取ることが出来ると思います。
一つには、和声的で豊かな楽想に対して、別の楽想を提示したい場合が考えられます。これによって曲想にバリエーションが与えられます。
それから、曲全体が粗野で土俗的、素朴な感じを音楽的に表現したい場合もあるでしょう。いずれにしろ空虚な響きを、曲の中でどう生かしているか、という点に注目すれば曲を紐解く鍵になるはずです。

ひとまず、今回はこんなところで。

2013年7月20日土曜日

感動的な歌を歌うということ

合唱の醍醐味の一つは、みんなで感動的な歌を歌うことにあります。
大自然の壮大さを表現した音楽、悠久の歴史を表現した音楽、大切な人との死別をテーマにした音楽、戦争や災害などを扱った人間ドラマ、こういったテキストを感動的に歌い上げることは、自分の人生においても大切な経験になることは間違いありません。

感動的な音楽を大人数で歌い上げれば圧倒的な高揚感が得られますが、感受性が豊か過ぎる人にはあまりに心を揺さぶられ過ぎて、演奏の舞台の上でも歌えなくなるくらい、こみ上げてくる場合があります。私もずいぶんそういう経験をしてきました。
感受性の強さは人によって違いますから、むしろ音楽作りはより多くの人を感動させる方向に向かっていきます。感動的な作品は、それ故になるべく多くの人を感動させるべく、より派手で高揚感の高い音楽を志向することになります。
それを首尾よく行なえば、多くの人々の心に残る演奏会になることは間違いありません。
一般的には、多くのアマチュア演奏家の興行はこのような演奏会であることを目指そうとしているように感じます。

その一方、音楽を専門的に勉強すればするほど、音楽そのものの魅力、演奏家としての力量、音楽が作られた歴史的背景など、ややレベルの高いコンテキストを共有した人たちと相互理解を深めたいと考えるようになります。

プロの演奏家であれば、音楽の魅力で勝負する音楽家でありたいと思うし、それに見合ったレベルの高い聴衆に聞いて欲しいと考えているはずです。
ところが、単純にコンサートでの音楽鑑賞を市場としてみた場合、圧倒的多数の人々が音楽に感動を求めており、そこには常にプロと大衆の意識の乖離が発生してしまいます。

プロである以上、自分たちが食べていくために市場に向き合う必要があります。
そういう意味で、プロの人たちの生き様、向かうべき音楽性を眺めてみると本当に興味深いものがあるわけです。
例えば、合唱作曲家で言えば、アマチュア合唱団向けの感動的な作品をコンスタントに書ける作曲家は、一般での知名度も高く、いわゆる売れっ子という扱いになります。
その一方、敢えてそのような感動的な世界観を避け、純粋な音構造や、芸術的興味に根ざして創作活動をする作曲家もいます。

どちらがいいなどとは私には判断出来ないし、一人の創作家が二つの側面を持っていても全然構わないと思います。
むしろ、創作家である以上、常にこの二つのバランスを保つ必要はあるとは思っています。どのような芸術作品であっても、他人に理解してもらわなければ意味はないですから、プロであっても大衆と向き合うという感覚は忘れるべきではないとも思います。

ただ、逆にアマチュア演奏家の方々には、もう少しこういう感覚にセンシティブであって欲しいと思います。
感動的な作品ばかりを歌い続けると、むしろ感動に鈍感になるような気もします。また、音楽そのものの面白さとテキストによる感動を混同してしまうことにもなりかねません。
もとよりコンサートに足を運んでくれる聴衆は、感動的な音楽ばかりでなく、リズミカルな曲や、エンターテインメント性のある曲なども求めています。

感動的な音楽は私たちの感性を育みます。
しかし、安易に音楽に感動を求め過ぎることによって、その感性さえ萎えさせる可能性もあると思います。音楽をやる以上、音楽そのものの面白さにも十分意識を払って音楽活動に取り組んで欲しいと思います。


2013年7月14日日曜日

歳をとった自分への戒め

さすがに40代後半にさしかかったオジさんを「若い」という人はいないでしょう。
就職時にバブルを経験したバブル世代の私たちは、世界的に不穏な経済状況の中で、いろいろ微妙な立ち位置にいます。当然、それなりの年齢なので若い人たちを指導したり、マネージしたりする必要もある一方、採用を抑制したおかげで若い人が少ない状況が続き、自分自身が最前線のプレーヤである場合も多いことでしょう。

しかも年齢を重ねると、体力的、精神的にも変化が現れます。
自分は自分のままでいるつもりでも、周りの同世代の人々を見ていると、なんか変わったなあ、とか感じる人もいるし、もしかしたら自分もそう思われているのかもしれない、という恐怖を感じます。
今回は自分への戒めのため、こんな中年になりたくないと思うことを、いくつか挙げてみます。

1.説教オヤジになる
どこから説教になるかは微妙なところですが・・・、私の基準は例えば以下のようなパターン。

1-1.「歳を取ればわかる」「何年経てばわかる」と言う。
私も言われたことがあるけれど、これ最悪。なぜかというと、これを言われたら反論出来なくなるから。もちろん、本人は反論されたくないからいうのだけれど、これでは上から目線に立ちたいだけの気持ちが丸見えです。常にきちんと論拠を示す態度が必要だと思います。

1-2.耐えること、根気を持つことを強要する。
確かに人によっては、明らかに諦めやすい人とかいるのでしょうけれど、こういう人は説教したって変わらないので、言っても無駄。
「耐えること」を強要することは、間接的に「黙っていうことを聞け」といっているに過ぎないのです。

1-3.自分の実績を自慢する。
傍から聞いていると何ともサモしいのに、こういうことを話したいと思う欲望に打ち勝つのは難しいです。謙虚な人はこういうことは言わないですので、性格にもよるのでしょうが、私など気が付くと言ってそうでコワい。
しかし難しいのは、然るべきところでは、ある程度脚色を込めてでも自分の実績を表現しないといけないときもあるとは感じます。


2.面倒なことを若い人にやらせる
これも難しいところですが、明らかに雑用は若者に振ればいいと思っている人はいるし、これはあまり良いことではないと思います。
組織的に仕事をしていれば、本来役割というものがあるはずで、それぞれの役割の中でやるべきことかどうか適宜判断すべきなのです。雑用であっても自分がやるべき仕事なら、それは自分がやるべきなのです。
人に振ることで「自分はやりたくない」という意識が見えてくると、この人が何かを成し得るとは下の人は思わなくなることでしょう。


3.細部へのこだわりを失う
立場が高くなれば、より俯瞰的にものを見るようになる場合も出てくるでしょう。そうすると、そもそも細かいことを考えることが面倒な人は、ますます考えないようになります。
もちろん、担当が広くなっても何から何まで自分でやれとは言わないけれど、昔こだわっていたときの気持ちを忘れずに、そういうところをこまめに指摘していかないと、その心を周りの人に伝えることは難しくなります。
何しろ、大ざっぱな感覚では、正しい判断は出来ないはずなのです。


4.若い人と主従関係であろうとする
上のいくつかと関連しますが、そもそも自分の心持ちが、常に若い人を家来のように扱うような人は少なくとも影では嫌われていると思います。
こういう振る舞いは儒教的感覚の強い日本ならではことで、年齢の上下や、入社年度、入団年度などでヒエラルキーが出来るなどというのはもはや幻想です。これからの時代、全ての年代の人と平等に接する態度が必要になってくると私は感じます。
もちろん、集団の指揮系統として上下関係が生まれれば、それはそれに従うのが当然ですが、そのときでさえも相手への敬意を忘れずにしたいものです。

こんな大人になれたらカッコいいのにね。

2013年7月6日土曜日

コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート

13000円もする本を買ってしまいました!

厚さもすごいし、装丁も結構大きめな本なので相当な存在感です。
もちろん、この本を端から端まで読み切ろうなどということは考えていません。何というか、一種のお守りのようなものだと思っています。きっと困ったときには何か役に立ってくれるかもしれない・・・みたいな。

なので、今回は本を読んだ感想ではなくて、本の目次の紹介です。中身はまだほとんど読んでいません。

まず、この本には何が書いてあるかというと、ざっくり言えばコンピュータを利用して音楽を作るのに必要な知識の一覧と、プログラミングの方法が書かれています。
明らかに大学の教科書になるべき本を目指しており、音楽とデジタル処理に絡む内容を一通り網羅しています。逆に数学的、物理的にあまりに専門的にならないよう配慮している、と序文にはありますが、私には遠慮なく難しいことを書いているようにも見えました。

第一部では、デジタルオーディオとコンピュータ技術の導入部分です。
第1章はデジタルオーディオ、第2章はプログラミングの基本的な話。さすがに私にはどちらもほぼ既知の内容ですが、デジタルオーディオに詳しくない人には(サンプリング定理とか)第1章は大変有益かもしれません。

第二部は、デジタル音合成に焦点を当てています。
第3章はシンセサイザーの基本的な仕組み、第4章はサンプリング、加算合成による波形生成、第5章は多重波形テーブル合成、地表面合成、細粒合成(この辺は聞いたこともない)、そしてフィルターによる減算合成などの話。
第6章はリング変調、FM音源などの変調合成。第7章は物理モデリングとフォルマント合成。第8章は波形セグメント合成、図式合成、確率合成(どれもまるで聞いたことが無い)だそうです。

第三部はサウンドミキシング、フィルタリング、ディレイ効果、残響、音像定位の操作といったテーマ。各章の内容は割愛。

第四部は音の分析を扱います。第12章ではピッチとリズムの検出を、第13章はスペクトルによる音の分析について扱います。

第五部は、音楽家とのインタフェースの話題。
第14章は概論。第15章はコンピュータの各種演奏用ソフトウェアの種類、第16章は音楽用エディタへの入力方法、第17章は音楽用に開発された各種言語についての説明、
第18章はアルゴリズム作曲システムとありますが、作曲援助、あるいは自動作曲の試みのようなものだと思います。そして第19章ではそのアルゴリズム作曲のいろいろな技法を紹介しています。

第六部は、音楽スタジオを自力で作る際の機器類の接続や、各種ツールの基礎知識について書かれています。DSPやMIDIの扱いもここです。

第七部は、音響心理学です。
いわゆる人間の音楽の知覚についての話題です。これはコンピュータが奏でる音楽、と言う文脈ではなく、人間に関する研究にどのようにコンピュータが関わっているか、という意味でこの本の中に書かれているのだと思われます。
いわゆるラウドネス曲線とか、マスキング効果とかの話題が書かれていますが、量はちょっと少なめです。

自分が本全体の中身を理解するために、少しずつページをめくりながら、目次をあさってみました。
正直言うと、私の日頃の業務に直結するような内容ばかりですが、自分がこういった内容に精通しているかというとかなり怪しい部分もありました。
少なくとも技術的な領域でコンピュータによる音楽を人様に啓蒙していこうとする立場に立とうとするのなら、とりあえずこの本を書棚に飾っておくのが最低レベルではないかと思った次第です。

2013年6月29日土曜日

暗譜の苦労

合唱をしていると暗譜の苦労はつきもの。
以前も書いたように、私自身は暗譜を必ずしも良いものとは思っていませんので、私が決定権を持つ場合暗譜にすることは多くありませんが、それでも合唱活動していれば、暗譜せざるを得ないことは何度もあります。

とりわけ、私は人に比べるとどうも物覚えが悪いほうで、学生時代から暗譜には苦労しました。
大学生の頃、本番2週間前くらいにアンコール曲が決まって、それを暗譜せねばならず、歌詞の冒頭の音節だけ抜き出した紙を作って覚えたりとかして工夫したものです。

暗譜が苦手という意識があるので、暗譜に対しては昔から戦略的に(具体的な方法を編み出して)対応します。
私の場合、歌っているうちに何となく覚えるということがあまり無いのです。

カルミナブラーナを暗譜したときは辛かったですね。
特に男声の In Taberna。メロディアスとはとても言えない機関銃のような音符の中に、莫大なラテン語の歌詞が詰まっています。つまり音楽的な暗譜ではなく、ひたすら歌詞を覚えるのが大変な曲なのです。
このときは、歌詞をワープロで書いてプリントアウトして、時間のあるときに何度も何度もそれを唱えるという方法で何とか覚えました。

暗譜の苦労というと、歌詞もそうなのですが、似たようなパターンのフレーズが繰り返されるときに回数を間違わないで歌う苦労というのがあります。
この場合、曲をある程度解析して、この繰り返しが何回、といったことを数えておく必要があります。しかし事前に数を数えておいても、歌っている途中でそれがカウント出来ないと意味ないですから、今度は歌いながらカウントするという訓練が必要になります。

上記のパターンで最も苦労したのが、ジャヌカンの「マリニャンの戦い」。
これを暗譜しようとしたのも無謀でしたが、今では懐かしい想い出です。
この曲の暗譜のために、私はベース専用パート譜を作りました。せっかくなので、ここでお見せしましょう。

まず、長い曲全体を見開き1ページに収めます。
背に腹は代えられず、歌詞はカタカナです(元はフランス語)。繰り返しのところには歌詞は書きません。
同じパターンが繰り返されるところには繰り返し回数を記載し、蛍光ペンで色を付けます。
この楽譜で何度か歌っているうちに、曲全体の構造やパターンが把握出来るようになり、だんだん次に歌うフレーズが頭に浮かんでくるようになりました。

これを暗譜で臨んだ某コンクールのステージリハのとき、ベースが落ちてしまい全くリカバリ出来ず顔面蒼白。おかげで本番は何とか歌い切りましたが、そのときは本当にスリリングな経験をしました。しかしその緊張感のためか、何と入賞することが出来ました。そのときの演奏はこちら

最近だと、松下耕「狩俣ぬくいちゃ」も大変でした。これは手拍子の所作付きなので、譜面台をおかない限り暗譜するしかありません。
しかも、繰り返しで苦労するタイプの暗譜で、マリニャン系の難しさがありました。このときも曲の後半は、自分用にスペシャル楽譜を作りました。

多くの人はひたすら歌って覚えるようですが、物覚えの悪い私は、これまで上記のような工夫をいろいろしてきました。ご参考になれば幸いです。

2013年6月22日土曜日

新しい働き方としての Make

ここのところ似たようなことばかり書いているような気もしますが、今自分が一番気にしていることだから、気にせず書いてみます。

今、私たちの身の回りには多くの工業製品があります。
しかし、1970年代以降から今に至る、量産化された工業製品を購入するという習慣は、これまでの人間の歴史の中ではむしろ異常な事態だったのではないか、という言説を聞いて、なるほどなあと思ったのです。

工業製品が身の回りに増え始めたのは1970年代以降のこと。
それ以前は、多くのモノが必要に応じてそれが得意な個人によって作られ、壊れたら修理して使うというのが当たり前でした。1970年代以降いろいろな工業製品が大企業によって作られるようになると、一般の人はただそれを買うようになり、壊れても自分では修理できず、新しいものを買わざるを得ない、という価値観が当たり前になってきました。
私たちは、技術が複雑になるほど、工業製品は自分では作れないから、そうなるのは当然のことだと何となく思っていました。
しかし、機械を構成する各パーツが部品化されたり、簡単に作れるようになって、また昔のように個人が必要に応じて目的最適化されたものを作ることが容易になってきたのです。

モノ作りが得意な個人はその昔、近所に点在していました。この「近所に」はネット時代になって、近くである必要は無くなりました。
そして、このような環境が整えられるにつれ、工業製品の作られ方において、時代はまた70年代以前のように元に戻るのではないでしょうか。

これは、工業製品を作るのが大企業の仕事になってしまった現在の働き方を覆すことにもなります。
確かに、企業では多くの人が作業分担をし、それぞれの分担において最適化された仕事がされています。
しかし分業化が進み、業務の個別最適化が進むほど、初期投資も大きくなり固定費が大きくなります。これを解決するために、ある程度の数量を確実に売り切る必要が出てきます。

その一方で、昔から個人個人のニーズはそもそもとても多様だったのです。
その多様なニーズを一台でまかなおうとして、多機能な製品が増えてきましたが、それは使いづらい製品を増やすことにもなりました。
自分が使わない機能など、最初から入っていない方がユーザーとしては嬉しいはず。

そう考えれば、少ロットで痒い所に手が届く用な工業製品は、むしろ大企業でないほうが、開発の小回りが効いて有利になる可能性があるのです。

そして、50年前なら機械が得意だったから、街の技術屋さん、修理屋さんになれたような人たちが、これからの時代、ネット上での技術屋さん、修理屋さん、あるいは用途限定の特殊な製品を作っている人たちにまたなっていくような予感がするのです。
それはきっと楽しい未来になるはずです。

2013年6月14日金曜日

「未来の働き方を考えよう」を読んだ



ちきりんさんのブログはいつも楽しみに読んでいますが、そのちきりんさんの新しい本が出たので、早速購入。
しかも、本のテーマは「働き方」。いま私が日々いろいろと思っていることにぴったりの内容です。
結局、私は自分の持っている時間のほとんどを仕事に使っているわけですから、その時間が充実したものであって欲しいし、自分を幸せにしているものであって欲しい。

しかし、なかなか現実はそうもいきません。
その原因は、私にもあるし、社会や時代の問題もあるでしょう。もちろん、何かをなし得て充実した気持ちを感じるときだってあります。しかし、何より自分が今の生活をしている理由というのは、他により良い選択肢が無いと思い込んでいるからです。

この本は、そういった頭の固くなった40代を直撃する、非常に刺激的な提案が書かれています。
世の中の(とりわけ日本の)40代に対する挑戦状みたいなものです。

自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、私の周りにいる40代の同世代の人たちはこの本に書いてあることをそうそう肯定出来ないと思います。
この本には、彼らが反論するであろう意見に対する反論まで先回りして書いてあるのにも関わらずです。
なぜかと言うと、その肯定出来ない気持ちは、ロジカルな思考ではなく、身体に深く刻まれた恐怖心に根ざしているからです。
そして、その恐怖心は私自身の心も大きく蝕んでおり、やはり頭で理解出来てもそう易々肯定出来ない私がいるわけです。

その一方で、もう一人の私がささやきます。
一度きりの人生なのに、やりたいことやらなくていいの? 心の中の満たされぬ想いを抱えたままでいいの? 実際のところ、どう生きたってなんとかなるんじゃないの?
それほどスゴい人間だという自負は無いけれど、自分が持っている得意技を組み合わせれば、そんなに悪くないくらいのパフォーマンスは出せるような気もしています。
そして何より、自分にはやりたいことは山ほどあります。


この本に書かれているように、これから数年が大きな変化になるというのは完全に同意します。
(そもそもこれに同意出来ない人も多いですが、それは単に変わりたくないという願望の現れに過ぎません)
特に組織から個人、という流れは相当大きな流れになることでしょう。
そんな流れを知ってか知らずか、今多くの組織はむしろ逆ベクトルにひた走っています。それは、極端なリスク回避指向であり、責任回避指向であり、先送り指向であり、とんがった考えの排除です。
いずれ、その反作用で個人が益々、組織から離れる事態が進むでしょう。しかし、その流れが本格的になってからでは、個人には恐らく遅過ぎるのです。
個人で生きることを支えるのは、Web上に築かれた個人の信用であり、そこには積み重ねがどうしても必要です。すでに多くの先駆者がいれば、後から入ってくる人が成功するのは難しくなるに違いありません。

ここまで、合理的な理由があるにも関わらず、恐怖心がまだ勝ります。
同じ志をもつ仲間がもっとたくさん集まれば、もしかしたら何かが変わってくるのかもしれません・・・。

2013年6月8日土曜日

これから起きること ─ 新しい働き方:組織を縛るルール化からの解放

突き詰めれば、面白い発想とか、素晴らしい技術とか、想いが伝わる話し方とか、人々を感心させるようなことは全て個人の力によるものです。
組織が良いパフォーマンスをするために、「誰がやっても上手くいく」ような仕組みを考えるのか、能力のある個人を適切に処遇し配置するのか、二通りの考え方があるように思います。
そして、時代は明らかに後者を指向しているにも関わらず、多くの日本的な組織はタテマエとして前者を指向しています。

「誰がやっても上手くいく」ような仕組みというのは一つの理想です。
いわゆる属人性の排除ということなのですが、それは実際には難しいことも誰もが理解しています。それでも、いろいろなタテマエを積み重ねると、そうであらねばならないというように誰もが考えてしまいます。

ISO9001みたいに、仕事のやり方をきっちりと規定しましょう、というルールを作ることによって、個人のやり方や能力に依存しない組織を作ろうという取り組みをしているところも多いでしょう。
しかし、ISO9001の導入で、書類が増え、監査もせねばならず、多くの人が書類仕事に振り回されるようになると、これが本当に会社のために良いことなのだろうか、と心の中で疑問を持っている人は多いです。
そもそもこういうルールはパフォーマンスの高い組織を作るために考え出されたものなのに、ルールの枠組みをしっかりしようとするほどパフォーマンスは低くなってしまい、結果的に本来のルールの意図とかけ離れてしまっているわけです。

同様な例として、ソフトウェア開発においてはプログラムを単に書くだけでなく、設計やテストの必要性が叫ばれています。しかし設計のやり方やテストのやり方を厳格に規定すればするほど、ますます多くの時間が取られ、それが本当に効率的な開発の方法なのか、疑問を感じることも出てきます。


とこのように考えると、こういった仕事のルール化の目的は属人性の排除では無いのではないか、という疑いをしてみる必要があります。
残念ながら、個人の能力には大きな差がありますし、人によって得手不得手も違います。そういった人々の能力がどんどん均質化し、誰がやっても同じように出来る、ということを理想とするならば、個人はどこまでもスーパーマン的な人間でなければいけません。
もちろん、そんなことは不可能なので、不可能な目標に向かってただ「頑張る」ことにしかならないわけです。
これが結果的に仕事の非効率性を生みます。

私の思うに、本来仕事のルール化は必要最小限度であるべきで、適用範囲が明確であることが重要です。
つまり、ルール化はパフォーマンスの低くなりがちな部分を下支えすれば十分であり、むしろパフォーマンスの高いところにまで影響を与えるようなルール設計をしてはいけない、と私は考えます。

残念ながら、多くの組織はルール化そのものが自己目的化してしまい、組織運営層は担当者に丸投げして、ウチはちゃんとルールを作っているよ、と言っているに過ぎません。
本来、ルール化は運営者が目指す組織を作るためのツールであり、トップが明確な意志を持ってルール化の方向性を決断しなければなりません。その辺りをきちんと理解しない限り、無駄なルールがどんどん増えていってしまいます。

じゃあ,どうしたら良いのでしょう?
ルールには現場に合わせた柔軟性が必要です。
まず大きな原則や汎用的な内容を一番上の階層で規定します。その大枠に合わせて、その下部組織はルールをもう一段階実務に合わせ込みます。
一度に全ての部署に適用するようながんじがらめのルールを作るのでなく、各部署がその現場に合わせた最適なルールであるべきなのです。
それは別の言い方をすると、現場に(各部署に)権限を与えることです。このような権限委譲を明確に設計することによって、組織はより効率化するように思います。

2013年6月1日土曜日

ボカロ音楽が示唆する未来の音楽

二日前にsasakure.UKというボカロPのアルバムを購入。タイトルは「トンデモ未来空奏図」。おふざけっぽいタイトルだけど、こういう言葉使いは好き。実際に音楽を聴いてみると、いわゆるボカロ系のフォーマットに従っているものの、何か親近感を覚えるようなセンスを感じました。

恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。

こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。

ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。

これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。

恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。

そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。

やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。

ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。

そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。

2013年5月25日土曜日

これから起きること ─ 新しい働き方:「多様性」を受け入れる

以前この記事から始めて、何回か私の思う「これから起きること」を想像してみました。
その続きで、「働く」ということがこれから少しずつ変わるのではないか、ということを書いてみようと思います。

というのも、最近この手の働き方を論ずる言説を結構目にすることが多いのです。もっとも私自身が興味があるから、気になるだけかもしれません。しかし、誰しもが働いてお金を得ているわけですから、本来なら全ての人に関係のある話です。

働き方の問題で一つポイントなのは「多様性」というキーワードです。ダイバーシティなどと横文字で書かれることも多いですね。
ビジネスの範囲が広がり、世界を相手にしないと商売が成り立たない時代になってきました。こういう時代には顧客が非常に多様であり、それを理解出来ないととんちんかんな製品やサービスしか出すことが出来ません。

これは単純にマーケットの多様性を理解しろ、ということだけではありません。相手のことを知るなら、相手のことを知っている人を仲間に入れる必要があります。でなければ、発想の違う相手の懐に本当に飛び込むことは無理だからです。
つまり、多様な人々を相手にするということは、自分たちが内部に多様性を取り込むことにも繋がるわけです。

ところが多くの日本企業は、外国人はおろか、女性でさえもきちんと組織の中に取り込むことが出来ていません。
もちろん外国人や女性も今ではいろいろな場所で働いていますが、その絶対数は多くはなく、また発言力も弱いです。常に仕事の周辺に置かれてしまうことが多いように感じます。
これは、外国人、女性だけの問題ではありません。能力があってもややエキセントリックな人たち、あるいは理屈っぽく空気を読めない人たち、アイデアが斬新すぎてすぐに理解されない人たち、こういう人たちが少しずつ排除され、周辺に散らされるようにさえ感じます。

これは一言で言えば、多様性の排除です。
多様性を排除すれば、同じような価値観の人たちでモノゴトを運ぶので、非常に効率的です。わざわざ言葉で言わなくても、きっと相手はこう思うだろう、と勝手に推理するので、コミュニケーションも少なくて済みます。
しかし、これがあちらこちらで仇になっているのです。もう、それではマズいのではないかと、ちらほら気付いている人たちがいるのです。

少なくとも日本企業は多様性を受け入れることを始めないと、世界でビジネスが出来なくなるでしょう。
そのためには、人々のスキルをきちんと精査し、業務のインプット、アウトプットを明確にし、言わなくても分かるだろう的文化を排除しなければいけません。また組織はアウトプットのQ,C,Dははっきりさせても、それを達成するために個人が何時から何時まで働くべきか、ということに口を出さないようにしなければいけません。でなければ、多様な人生を生きる人々を同じ組織の中で働かせることが出来ないからです。

私が言うと、やや生々しいけれど、残業、休日出勤を強要する文化というのは、確実に多様性を排除することに繋がります。なぜなら、人々の生活を会社活動に合わせることを強要しているからです。
多様性を受け入れるということは、部下に夜遅くまで業務をやらせて納期を守らせる、というやり方を止めるということでもあるはずです。

「多様性」という一点だけ見ても、ほとんどの日本の会社の日々の仕事が成り立たなくなるくらい、大きな意識の変化が必要です。
国際的な競争がむしろそのような多様性を強要することになるでしょう。この話は倫理的な側面を持っていますが、実際に企業がそう変わるためには、単純に市場による淘汰しかないと私は思っています。
つまり、多様性を受け入れないと、企業は存続出来なくなるはずなのです。


2013年5月19日日曜日

一人メーカーの実現方法 ─何を外注化するか

当たり前ですが、一人メーカーとは言っても全てを一人でやるのは不可能です。
つまり、現実には何かの仕事を外に発注することになるわけです。
そして、一人メーカーを実現する上で最も重要なことは、何の仕事を外注化するか、ということなのかもしれません。

「一人メーカー」という以上、その一人が最低商品の初期イメージを持っている必要があります。しかし、逆に言えばそれだけが必須項目で、後の残りは何を外注化したって構わないわけです。
もちろん、自分に開発時における得意技、スキルが何かあるのなら、そこまでは自分がやってもいいでしょう。
ただ、恐らく一人メーカーの実際の仕事は、そのほとんどが外注の選別や打ち合わせ、ということになるような気がします。

では、実際に外注化する仕事はどんなものがあるでしょう。
・商品デザイン
・検討部品購入
・部品試作
・試作品組み立て
・ソフトウェア開発
・ホームページ(商品情報サイト)作成
・Eコマース
・生産用仕入れ
・生産組み立て、梱包、配送
・経理
・必要に応じて法務とか

挙げてみただけで気が遠くなりそうですね・・・
恐らく、まだもっとあるに違いありません。

外注化するということは、これらに対して対価を払うわけですから、結局開発の初期投資もバカにならないし、借金するならそれなりの覚悟も必要です。

出るお金を減らすためには、上の仕事のうち、どこまで自力でやるかを考える必要があります。
一人メーカーというのですから、試作や組み立て、ソフト開発くらいまでは自分でやりたいものです。

自分の場合、ソフト開発をやってきたので、少なくともそれは自分でやりますが、それ以外の仕事は経験がほとんどありません。とはいえ、試作品を作るための最低限のスキルを持っていないと一人メーカーになるのは厳しいと思います。
その最低限のスキルはやはりCADのような図面作成ソフトを使いこなして、図面を書く力ではないでしょうか。
今なら、図面さえ書ければ、3Dプリンタの出力サービスもありますから、実際に形にすることは(お金さえかければ)それほど大変というわけでもありません。
そして3Dプリンタで試作品が簡単に作れる世の中においては、どう考えてもCADを使いこなすスキルが非常に重要になるでしょう。

あと、商品コンセプトは自分で作るわけですから、出来ればデザインも考えたいところですが、ここはやや考えどころ。インダストリアルデザイナーのような方々は独立している業者も多いですし、ノウハウもたくさん知っていますから、生産品のコストのことまで考えて、なおかつ素人には到底無理なアウトプットを出してくれるなら、思い切って外注化するのはアリかなとは思っています。
ただ、それでも最低、何らかの絵は自力で書くべきだとも思っています。

一人メーカーの実際の仕事は、生産するかどうかが一つの分かれ目になるでしょう。
現実的には、試作品を作って、いろいろなチャンネルでまず公表し、その様子を見てから生産の決断をすると思います。売れもしそうのないものを売ったら赤字から抜け出すのは大変です。
まずはネットを使って、そのスジの情報が集まっている場所に、うまく公表する必要があります。公表の仕方にも影響は受けるはず。また、何らかのイベントにも積極的に参加し、人目に触れる努力も必要です。しかし、それもコストはかかりそう・・・

とは言え開発費を回収するためにはいつかは生産する必要があるわけですから、どのタイミングで生産をするかが思案のしどころでしょう。


2013年5月11日土曜日

一人メーカーの実現方法

メーカーズ・ムーブメントを受けて、「一人メーカー」などというキーワードも現れています。私にとって、なんと甘美な言葉なのでしょう!

もともとモノ作りが好き。
だけれど、ある程度の規模のものになると一人ではなかなか作ることができません。会社に入ってモノ作りの一翼を担うというのは、もちろんこれまで自分にとって楽しい仕事ではありました。
しかし、本当に自分のやりたいことは、全て自分が関わりたいし、全て自分が決めたい。ジョブスみたいに圧倒的なカリスマとして、他人を感化して動かすことが出来ればいいけれど、それも現実難しいです。

折しも昨今メーカーが商品を売る、という行為そのものも少しずつ変化を見せ始めているようにも思えます。
その理由の一つは多機能化、高性能化が過度に進み、コンシューマレベルではもはや性能差を競うような時代ではなくなったことが挙げられます。
現実に、多機能、高性能な商品より、コンセプトが明確だったり、デザインが美しかったり、ユーザーのかゆいところに手が届くようなニーズに応えたりといった、企画そのものが秀逸な商品が売れるようになっています。
商品開発も、個々のチームが優れたものを持ち寄って、それをただ組み合わせて商品化するより、強い個人の想いが製品に全面的に反映されている方が個性的で面白いものが生まれるし、そういうことが求められる時代になってきました。

こんな流れを極めていくと、最後には一人でモノが作れればそれがベストだということになります。つまり一人メーカーです。


しかし、実際のところそれは可能なのでしょうか?
私の片寄ったメーカー勤務経験からちょっと考えてみます。

商品を作って売るまで、技術的な仕事は大きく分けて商品開発と工場生産があります。
電機製品などの場合、中にはマイコンがあり、そのプログラムやデータを作るのにたくさんの時間がかかりますが、電子回路や製品の筐体などの開発にはそれほど複雑でなければ時間はかからないでしょう。
逆に見た目が非常に精巧なものとか、複雑な外観をしたものは、工場での生産の仕方が非常に難しくなり、それを考えることに時間がかかりそうです。

人によって得意技は違うでしょうが、私の場合、前者の方が自分のスキルを生かせます。
比較的シンプルな外観、外装で、中の電子回路も汎用なものを使えば、生産での工夫や苦労は少なくて済むからです。
恐らくその場合、生産そのものを委託することになり、いわゆるファブレスにすることが出来ます。自分で工場を建てなくても良いわけです。

上の場合、商品の差別化はソフトウェアやデータ、あるいは商品のアイデアそのものということになります。ですから、マイコン上で動かすソフトウェア開発が、やはり大きな仕事になっていきます。

とは言え、独自商品を作るには、最低限の外観を表現出来る手段は持っている必要があります。
最近は3Dプリンタなどで簡単に試作することが出来るようになりましたが、そうなるとそれを扱うスキルや、3Dプリンタ用のデータ製作スキルが重要になってくると思います。

一人メーカーの場合、販売は自ら店頭で行なうのは無理でしょう。
ほとんどの場合、Web上での販売となるでしょうが、それでも梱包、配送、販売管理などは大変な手間がかかります。
これもちょっと検索すれば分かるのですが、最近は商品の梱包、配送などを委託できる会社も増えています。こういった会社を利用すれば、製造、梱包、配送といった商品を世に供給するシステムをほぼ委託で済ますことも可能です。

残る仕事は・・・、部品調達、営業(宣伝)、経理といったところでしょうか。

うーん、やはりまだまだ一人でやるのは大変ですね・・・

「一人メーカー」の時代が来るためには、今会社の中で行なわれている仕事が一つ一つ分解されて小さな単位でみんなが独立する必要があります。
開発でも、ソフトウェア開発を委託したり、電気回路設計を委託したり、特殊なパーツの設計を委託したり、さらには経理や、工場との仕事の橋渡しが委託出来たりすれば、もう少し気軽に個々人が独立し易くなっていくと思うのです。


2013年5月5日日曜日

特許とか著作権とかでしばることが時代遅れになるかも

前々回の「カマボコオルガン」に関連して、出来る出来ないはともかく、こういうことをいち早く公表した方がいいんじゃないかと思った心境など語ってみます。


作る前にアイデアを公表してしまう場合、まず誰かにそのアイデアを盗まれないかが心配になります(それほどの内容かはともかく)。だから、今までの常識でいえば、通常はアイデア段階のものをそれほど表に出すことも無いものだと思います。

そもそも特許とか著作権とかいう考え方は、誰かが考え出したアイデアをそのまま真似されて、損をするようなことがあったからこそ、生まれたものではないでしょうか。
しかし、このアイデアを真似されて損する、というのはどのような状況で成り立ち得ることなのでしょうか。

アイデアを考えた人が、それを実現するだけの十分な生産能力を持っていなくて、逆にアイデアを盗んだ人がその生産能力を持っていた場合、これは最初に考えた人は損することになります。
もし、アイデアを盗んだ人がそれによって大きな利益を得たのなら、アイデアを考えた人がその利益から幾ばくかの分け前を頂くべき、とは誰もが思うことでしょう。

もう一つ、上のような事態になる原因として、買う側に「誰のアイデアか」という関心がほとんど無いという条件もあると思います。あるいは、それについて知る由もないという状態。
これは意外に大きな要因だと思うのです。買う側にとって、便利なものが目の前にあればそれを買えば良いだけのこと。
しかし、それでも実はその商品の基本的なアイデアは誰か別の人が考えていて、その商品はそのアイデアを盗んだものだと、もし買う人が知っていたらどうでしょう? それでも人はその商品を買うでしょうか。道義に反すると人々が感じれば、それは商品にとってもずいぶんマイナスのイメージにならないでしょうか。
情報化時代には「アイデアを盗んだ」ことがバレ易くなるはずです。そしてそれは、その商品価値にとって大きな打撃になると私には思われるのです。

もう一つは、アイデアはたった一つではなく、芸術作品のようにトータルなイメージで醸し出すものであるとすると、その価値はまるっきりマネをしない限り得られないものと思われます。
例えば、ある文学作品の特定の章だけ抜き出しても、盗んだ側がオリジナルと同じだけの効果を得ることは不可能です。
これは単体機能(アイデア)でも取得可能である特許より、著作権が得意な分野になりますが、アイデアが芸術性を帯びるほど、真似ることは困難になり、丸コピーするしか手が無くなるのです。


このようなことを考えてみると、これからの時代、特許や著作権という形で自分のアイデアを法的に保護しなくても全然問題無いのではないか、むしろそのような保護をすること自体がアイデアの発展を阻害するのではないでしょうか。

上で書いたように、特許を登録などしなくても、ネット上で公開すれば、誰がいつそのアイデアを公表したかはすぐ分かります。
ある程度の規模の会社なら、誰かのアイデアを無断で真似ることはむしろリスクが高すぎます。もしバレたら会社の信用がガタ落ちです。普通考えれば、まともな会社ならそんなことをしないでしょう。
むしろマネをしたい企業が、アイデア保持者に対して利用の許可と、適切な対価を払うことを約束した方が、両方ともWin-Winの関係になるはず。

また今の時代、ソフトウェアによる技術が主流になっていくと、特許の考え方も少しずつ変わっていくのかなと感じます。
なぜなら、ソフトウェアはいかようにも書けますから、よほど基本的なことでない限り、特許回避は比較的可能です。単機能の特許なら、むしろ特許化して公表することは、特許回避の手段を考えさせることに繋がります。
しかし、莫大なソフトウェアを完全に模倣することはかなり難しいです。ソフトウェアである世界観(OSのGUIなど)を構築した場合、これを同じように真似ることは相当な工数が必要になります。
このような場合、ソフトの仕様を真似て自力で作るより、オープンになっているソフトウェアをそのまま利用した方が圧倒的に効率の良い開発が行なえることでしょう。
つまり真似する側は、似て非なるものを頑張って作るより、許可を得て、オープン化されたソースコードを利用させてもらう方が、利益を得るという意味で理にかなっています。

このようなことを考えていくと、情報化が進むほど、アイデアが作品性を持ち世界観が明瞭であればあるほど、無許可の模倣は難しい時代になってくるのではないかと考えるわけです。
そして、そのような時代には、思い付いたらまず公表してしまう、というのが正しい考え方ではないかと私は思います。


2013年4月27日土曜日

こんなオルガンを作りたい─操作系で思うこと

前回の創作楽器「カマボコオルガン」の続き。

操作系は4つのテンキーで行なう、と説明しました。
これは一つのアイデアではありますが、自分が電子楽器に関わる中で操作系について日頃思っていることから、どのようにしてそのアイデアに到達したか、紹介したいと思います。

電子楽器の操作には、すぐに音の何かを変化させるための動的な操作と、演奏時の振る舞いなどを設定したり、その設定をメモリーしたりといったその場では変化しない静的な設定系の操作に大まかに分類できます。

楽器にとって動的な操作は演奏と直結します。その操作によって音が変わるからです。
従って、そのような操作子は鍵盤などと同じ演奏として絶え得るインターフェースである必要があります。
大ざっぱにいえば、視認性が高く、操作しやすく、壊れにくい必要があるでしょう。

もう一つの設定系の操作はどうでしょうか?
これはそもそも楽器のリアルタイムな演奏とは関係ありません。また、全ての電子機器が一般の人にとって難しく感じられるのは、このような機能がたくさんあるからです。たまにしか使わない機能設定の方法をいつでも正確に覚えていられるなどと思うのは、むしろ電子機器を設計するメーカーの怠慢だとさえ言えるでしょう。

あくまで理想を言うならば、楽器に設定系の操作は必要ないと思います。
電子楽器以前、楽器にはそもそも設定系の操作はなかったのではないでしょうか。パイプオルガンのレジストとか、楽器の調律とか、まあそういう類いのものはありますが、音を変えたければ楽器を持ち替えるし、そもそも繊細な音の違いは演奏時にすぐに制御できなければいけません。

便利さを追究した結果、本質を外れた不便さが蔓延してしまったのが今の電子機器の状況です。それは電子楽器とて変わりません。
一つの機器がいろいろな機能を持ち、全て一台で置き換え可能、という便利さは、むしろ精神的な貧しさの現れではないかとも思えます。
一つ一つの機器が十分安くなり、使いやすくなるのであれば、個別最適化されたそれでしか出来ない機器を必要なだけ持っている、というのがむしろ個人にとって理想的な状況であると思われるのです。

このようなことをつらつら考えていくと、電子楽器から設定系操作を限りなく外す、ということが今後のテーゼとなりうるのではないでしょうか。
その上で、楽器が取り得る音楽的表情をどれだけバリエーションとして持たせるか、それがこれからの電子楽器の工夫の仕方であると私は考えます。


今回、私が考えているカマボコオルガンの操作系は、上のような思想に基づいています。
オルガンである以上、ストップなどの操作によって何種類かの音色が選べる、というのは基本です。しかし、何百種類もの音色がメモリーされている、というところまでいくと、オルガンのリアルタイム操作性とか、そもそもその特定のオルガンとしての音色の特徴が薄れてしまいます。
そこで選べるストップは4つほどに限定。
ただし、せっかくの電子楽器なのだから、アタックやリリースなどのエンベロープも変化させたい。そこで、そのための設定も加えます。
ただし、0〜127まで設定できる、などというメーカーの都合をゴリ押ししてはいけません。最適な設定を2、3個用意するだけです。

というようなことを考え、ストップを4つ。そして各ストップが0〜9の10個の状態に変化するという仕様にしました。
そして、上記のような設定を簡単に操作できる方法として、今の機器で一般的なテンキーを使ったらどうかと考えたわけです。

とは言え、頭で考えたことが思った通りにはならない、ということは良くあること。まずは試作品を作って、それが感覚的に使いやすいかどうか実際にやってみなければ何とも言えませんが・・・

2013年4月20日土曜日

こんなオルガンを作りたい

頭の中で温めているだけでは腐ってしまうと思い、最近考えている新しい電子オルガンのコンセプトを紹介しようと思います。

前提が一つ。
これは実現性を無視してオルガンのあるべき理想的な形を追究したというようなものではありません。
あくまで私が一人で現実に製作することを前提に考えたものです。
従って、試作でも何とか作れる程度のシンプルなデザインや構造の中に、私なりに考える新規性が同居したものとなっています。


というわけで、上の写真のような下手な絵を描いてみました。
もっと上手く描けば印象も違うのでしょうが、美しさの足りない部分については皆さんのイマジネーションで脳内美化させてください。

全体は円柱を半分に切ったような形をしています。
蒲鉾のような形です。従って、この楽器、愛称は「カマボコオルガン」です。英語なら"Kamaboko Organ"(そのまんま・・・)
筐体がオレンジ色なのは、単に私がオレンジ色が好きだからです。

蒲鉾の片方の側から、にょきっと鍵盤が出ています。
絵では3オクターブありますが、両手で弾くなら4オクターブ、あるいは5オクターブの鍵盤があってもいいかもしれません。その場合は、この楽器の横の長さが単に長くなっていきます。
鍵盤は出来れば木製。ピアノの鍵盤よりもサイズは若干小さめにしたいです。


操作子は、鍵盤の前に4つのテンキーがあるだけです。
この4つのテンキーは、それぞれオルガンのストップを表します。下の図の例では、テンキーがそれぞれ、Principal 8'、Principal 4'、Flute 8'、Trumpet 8' のストップを表しています。


ポジティフオルガンなどでは、4つのストップがあれば、スイッチは4つあって、各ストップを入れるか入れないかの二択しか出来ません。
しかし、この楽器ではテンキーを使って、鳴る場合でも9つのバリエーションを選ぶことが出来ます。
テンキーの上下の段は音量を表します。上にいくほど(数字が大きくなるほど)音量が大きくなります。
またテンキーの左右は音の立ち上がり,立ち下がりを表します。一番左は、アタック付きの音です。ハモンドオルガンのアタックドローバーのようなものです。
真ん中は通常のオルガンの音。そして右側は、音の立ち上がりと立ち下がりがユルくなり、ふんわりとした音に変わります。
このようにすることによって、オルガンのセッティングを4桁の数字で表現することが可能になります("8210"とか、"7135"とか・・・)

クラシックで使うオルガンはストップのオンオフしかできません。
逆にポピュラーでよく使われるハモンドオルガンの場合、いろいろなフィートの音を混ぜることが出来ますが、音色は一つしかありません。
そこで、クラシック向けのオルガンとハモンドオルガンの二つの特徴を持たせてみようと思ったわけです。
そこに、だったらテンキーにしたら面白いじゃん!というアイデアが合体しました。
さて,皆さんはこのアイデアについてどう思いますか?

このオルガンのアイデアについてご意見がありましたら、Twitter で @hasebems 宛にでもメンションを送ってもらえると嬉しいです。

2013年4月13日土曜日

アートの力

クリエイティビティが重要だと叫ばれる昨今こそ、アートとは何か、と考えることが重要になると私は思います。
ところが、多くの人々(特にある程度歳を取った男性)は、むしろアートとは距離を取っているように見えます。
何にしろ、「違いの分からない人間」には誰もなりたくないので、分からないものには遠ざかるというのが安全な態度です。ですから、若い頃からアートのことなど考えたことの無い人は、なかなかアートと向かい合う勇気を持ちません。

アート,芸術には相反する二つの側面があると思います。
一つは正解がない自由さ、奔放さを謳歌するような方向性、もう一つはある一定のルールに則ることの美学、一種の様式美のような方向性です。前者を奔放性、後者を様式性とでも呼んでおきましょう。

奔放性とは、感性が中心で、言葉で表現することが難しく、前衛的で斬新であるイメージがあります。何をやっても許されるような前衛芸術のような方向性。
様式性とは、ロジカルに説明が可能で、そのジャンル特有に発達したお決まりのルールの上に根ざした要素。知っているか知らないかで理解の度合いが変わってしまうハイコンテキスト性。伝統芸能のような方向性。

例えば音楽で言えば、クラシックは様式性が非常に高く、ある音楽を理解するためには、どうしても作曲当時の社会状況にまで想いを馳せる必要があります。また、音楽を作るためのルールも大量に定義されており、こういうことをどれだけ知っているかで鑑賞する側の力量も問われてしまいます。
もちろん、ポップスやロックも商業に組み込まれて以降、お約束の多いハイコンテキスト性が高まり、意外と様式性の高い音楽になってしまっている部分もあるかもしれません。
ジャズは奔放性もありますが、それなりにお約束も多いので、様式性も兼ね備えていそうです。

そういう意味では、音楽で最も奔放性が許されるのは、ゲンダイ音楽なのかもしれません。音楽である以上、どうしても最低限のリテラシーや秩序は必要ですが、ときにそれさえも破壊しているものもあります。
しかし、音楽の場合、奔放が過ぎると人々が安心して聞くことの出来ない音楽になってしまう可能性があります。


アートの好き嫌いには、上の二つの要素の組み合わせで考えると分かりやすいような気がします。
アートの奔放性が好きな人、アートの様式性が好きな人、逆にアートの奔放性が嫌いな人、アートの様式性が嫌いな人、というような感じです。

奔放性が嫌いな人は、アートに常にある種のうさん臭さを感じているような人たちです。若い人たちが飛びつくようなカッコ良さとか、ただ単にスタイリッシュに見えるだけなものとか、バカバカしいものにしか見えないものとか。
実際のところ、一時期人々にもてはやされていても、すぐに忘れられてしまうようなものは、中身のないアートなのであって、それを早い時期から気付けるセンスが必要です。奔放性の評価には、知識ベースではなく感性ベースのアートに関するセンスが問われます。このセンスが弱い人は、なにしろアートの奔放性が嫌いになってしまうのです。

次に様式性が嫌いな人は、逆に敷居の高さで入っていけない状況だと思います。
これは多くの人が理解できる気持ちでしょう。例えば私は歌舞伎には詳しくないので、歌舞伎が好きな人が言っている感想や、こだわりを理解することは難しいです。
そうすると、良く分からないから好きでない、という発想になってしまう人も出てきます。どちらかと言うと、自分が詳しくないことをはっきり言って、感想を控える方が紳士的な態度とは思います。

冒頭にも書いたように、クリエイティビティを高める、ということはアートの本質に近づこうとする態度でもあります。
アートの力を高めるために、上記のように奔放性、様式性の両面からアートを捉え、理解していく必要があるのではないでしょうか。


2013年4月6日土曜日

私の中のロジック、アート、マーケット

某有名ブログでこんなことが書かれています。

これを読んだ直後、自分の比率はどうなんだろうと考えてみたのですが・・・時間が経つごとに、ようやく分かってきました。恐らく私には、マーケットが足りない。
ロジックやアートは、他人がどう思うかはともかく、自分の構成要素として十分な領域を占めているのだけれど、どうやらマーケットが最も心もとないようです。

正直、これは性格に起因するところなのでしょうが、自分の欲望を表現し、押し通すようなバタ臭さが自分には足りないのです。どうせ思い通りにならないなら、最初から諦めちゃうか、みたいな性根の悪さがどうも深層心理にありそう。だから、ものごとについついシニカルな対応をしてしまう。
しかし、何かをやり遂げようとするなら、まず自分の欲望に忠実に生きるような生命力というか、強引さが在る程度必要なのでしょう。これは決して、押しの強さとか、カリスマ性とかとは同じものではなく、おっとりしていても頑固に自分の思いを押し通す人はいます。

その一方、自分がこれまで意識して重要視していたのは、ロジックとかアートという文脈で語られる部分だったと思います。

ロジックは、理系&技術屋である以上、言わずもがな。
ロジックを追い詰めることには、人によって得手不得手もありますが、それと同時にロジックをきちんと正しく追い詰めること自体に執着を感じる気持ちはとても良く分かります。
これはまさに研究者のスタンス。金儲けが出来るとかそういう現世的な利益があるわけではないのに、何か真理に近づこうとすることを一生懸命考えることを止められないのです。
しかし、こういう気持ちを持っている人がいたからこそ、人類の科学技術が発展したわけですから、マクロ的に見た場合人間の資質にとして重要な指標であるに違いありません。


三つの中で恐らく最も説明し難いのがアートでしょう。
前衛的なアートを鑑賞した後「こういうのは良く分からないよね〜」とか真顔で、憚りも無く主張出来る人は、アート要素ゼロの人です。残念ながらこういう人は世の中にとても多いです。
「分からない」と憚りも無く主張することによって、自分の世界観とは相容れないと宣言してしまっているのです。

アートは分かりやすいものである必要はありません。
後でじわじわ来る場合もあるし、全く共感しない場合もある。共感出来ればラッキーです。後は多くの人がどう感じるかという積分値で勝手に淘汰されるだけです。

そのように考えれば、もっとアートに対して親近感が湧くと思うのです。
何かを伝えたいという気持ちは誰でも持っています。それをどうやって伝えるか、それがアートの最も苦心する点です。
万人に伝わらなくても、ある程度のセンスのある人に深く伝わるのであれば、それは長い目で見て優れたアートになり得るでしょう。
自分がそのアートを理解できるセンスを持てるかどうかは、その人がどれだけ多くのアートに触れたかに影響されます。
個人が持つアート、芸術の要素を高めるには、日頃から、音楽、絵画、造形、映画、文学など、そういうものに触れ続けることが本当に大事だと感じます。
自慢できるほどでは無いにしても、自分はこれまでそれなりにアートには触れてきたとは言えると思っています。

2013年3月31日日曜日

何かを作って生きていくということ

創作・表現活動を実際にしている立場として、それ自体が生業になるということは一つの理想ではあります。
当たり前ですが、実際に創作活動だけで生きていくことは至難の技なのですが、私自身の体感からそれはどのような構造であるのか、ちょっと考えてみました。

上の表にあるように、全ての創作・表現活動はアマチュア活動から始まります。いきなりプロから始まるということはあり得ません。
スキルを積み上げ、仕事のクオリティを上げることによって、その人や作品の評価が高まり、対価を得ることが可能になっていきます。
このアマチュア活動から仕事に変わるタイミングはもちろん状況やその人のレベルによって、大幅に差がありますし、そもそも仕事に変えることが出来る人はごく一部の人たちだけの話であり、ほとんどの人は到達することが出来ません。

いわゆる芸術の世界では、新規性や実験性が高いほど、仕事として成り立つレベルはさらに跳ね上がります。
もっと、今ウケていてマスに対して需要があるものであれば、対価を得るためのハードルは下がっていくことでしょう。

この表の一つのポイントは、アマチュアとプロの世界は厳然と分かれるようなものではなく、あるラインからグラデーションのようにその領域が混じり合うということです。
この趣味と仕事の微妙な領域では、対価を得ることもあるけれど、そのための出費も多く、残念ながらその対価だけでは生活をすることは出来ません。


同じことをしていても、お金を払う立場からお金を得る立場に変わる、というのは一見するとおかしなように思えます。
なぜなら、普通の人の感覚では、仕事と遊びは違うものであり、仕事はお金を得られるが、遊びはお金を払うからです。

しかし、私はそれはちょっと違うのではないかと最近感じています。
創作活動だけでなく、一般的な社会の仕事に敷衍して考えてみましょう。例えば、何か趣味でスポーツをすれば通常それはお金を払うことになりますが、その頂点にはプロスポーツの世界があり、プロ選手として対価を得て生活をしている人たちがいます。
それはあまりにもレベルが違い過ぎるので、そのような人たちと結びつけて考えることは普段しないというだけです。

もう少し、地味な世界を考えてみると少しイメージが湧くかもしれません。
家具を作るのは通常仕事です。しかし、自分の趣味でテーブルや椅子を作りつつ、趣味が高じてそれがあるレベルを超え始めれば、他人にそれを売ることが可能になっていきます。
このようなことはこれまでの時代では非常に難しいことでした。
なぜなら、何かモノを売るには宣伝しなければいけないし、展示したり、販売の管理をしたり、配送したりしなければいけません。商売するには作る以外のたくさんの面倒なことがあります。

しかし、IT化はそのような面倒なことの負荷を減らしてくれています。
そうすると、これまで「仕事」と「遊び」、というように二つの感覚が別ベクトルを向いていたものが、だんだんと同じベクトルを向くようになっていくのではないかとそんなことを感じているのです。

創作・表現活動においては、そういう感覚は昔からそれほど変わりなかったのですが、それが社会全般、仕事全般に言えるようになっているのではないか、極端に言えば、多くの仕事は趣味から始めることが出来る、とも言えるのではないでしょうか。

2013年3月23日土曜日

新しい中世が始まる

最近の世の中の流れを「中世」というキーワードで考えてみると、何だかしっくりくるような気がしています。
もちろん私は歴史家でも何でもないので、専門的な知見に基づいた話ではありませんし、そもそも歴史上の中世について正しい認識を持っているかも疑わしいです。
それでも、これからの時代が何かここ数百年の近代化とは逆の方向を向いているのではないかと感じます。

例えば、我々は理想の統治形態を民主主義だと考えます。日本ではきちんと選挙も行なわれ、人々の投票を元に議員が選ばれ、その議員が法律を作っていきます。
しかし、今や日本の政治は凋落の一途を辿っています。政府の力ではどうにもならないことがあまりにも増えてしまいました。

では政府に変わる存在はあるのか、と考えると、それはグローバル企業なのではないかと思うわけです。世界を牛耳る少数のグルーバル企業は、我々の常識を決定し、我々の行動様式を規定します。政治的な強制力はないけれど、私たちが自分の意志で喜んで購入していると思っているものは、実はグローバル企業の巧みな戦略にまんまと嵌っているように思えます。
企業の統治は民主主義ではありません。少数のエリートがビジネスやサービスの方法を決めていきます。グローバル企業が世界を牛耳る世界では、もはや民主主義は通用せず、一部のエリートによる社会の制御が可能になる社会でもあるのです。

さて、近代化の象徴といえば、モータリゼーションや、飛行機などによる人間の移動の活発さです。
しかし、IT技術はテレビ電話を容易にし、人々がある場所に行かなくても用が足りるような環境を作ってしまいました。
交通機関を利用する人が減れば、コストも上がり、交通費が高くなります。エネルギー問題がだんだんとシビアになっていく昨今、燃料費もバカになりません。
そんな未来、人々はだんだんと遠距離移動しなくなくなるのではないでしょうか。
また、社会の効率化が進み、過疎化と都市化が進み、ほとんどの人々が都市部に住むようになれば、そこだけで衣食住の環境が揃い、人々の行動範囲がむしろ今より狭くなっていくような気がします。これも私的には中世的な現象に思えます。

近代は人々を豊かにしましたが、中世には大きな貧富の差がありました。
そして、これからも同じことが起きるのではないかと考えます。世の中のIT化、ソフトウェア化はホワイトカラーの仕事をどんどん奪っていき、機械に出来ない単純作業か、新しい価値を創造する頭脳労働の二方向に職業は収斂していくでしょう。
当然前者は貧乏で、後者は大金持ちです。またこういった格差は世代を引き継ぐことになり、またしても人間は階層社会を作ってしまうことでしょう。
行き過ぎれば、その階層社会を打ち破る人も出てくるのでしょうが、むしろ今は無駄な平等意識が社会全体のコストを押し上げているような気がしてなりません。

世の中の日常品は、大会社の大工場によって作られるのではなく、ほとんどが近場にいる職人によって作られるようになるでしょう。
もちろん、世界中の誰もが使うもので、なおかつコストを低く抑えられるのであれば、大量生産が向いています。
しかし、家具とか電機製品などもデザインで選ばれるようになれば、大量生産品が避けられ、最終的には稀少なモノの方が有利になるような気がします。
メーカーの視点に立つと、プログラムも図面も全てネット上で入手出来る時代、工場を自力で建設するよりも、製造そのものを他社に委託してしまったほうが固定費が削減出来、経営的には嬉しいことと思われます。
そのような時代、結局大会社は瓦解し、一人一人が自らの力で収入を得るということが、より重要なことになっていくものと思えるのです。

2013年3月15日金曜日

楽譜を読む─プーランク SALVE REGINA

プーランクにしては比較的音が簡単で、その割にそこそこの演奏時間になる SALVE REGINA は混声アカペラ宗教曲の重要なレパートリーとして広く歌われていることと思います。
今、私の指揮で取り上げている曲なので、演奏する立場からこの曲の楽譜からいろいろと読み取ってみましょう。

まず、調の関係から曲の構造を考えてみます。
最初は Gm です。練習番号2の前でGの長三和音で終わってから、ちょっと変化的な和音(Bbm→C→Fm→C→Adim→Cm7→D→Gm)を使いながらも、練習番号2は Gm の雰囲気のままドミナントのDの和音で終わります。
練習番号3で急に長調になります。同主調の G です。しかし、それも4小節しか続かず、Eb/G→Bb→Db→C→Fm→G→C という流れの中ですっかり Fm っぽい雰囲気になってしまいます。練習番号4では高声→低声の引き継ぎで Db→C→B→Bb の半音で和音が下降していく感じになり、調は気が付くと Ebm になっています。Ebm→Adim→Bbm→Gb→F の流れの中で、調は Bbm になり練習番号5から印象的な美しさを持ったフレーズが現れます。
練習番号6では、Bbm→Bbdim→Fm→Fdim→Ebm→Ebdim→D という若干強引な和音の流れの中で Gm に持っていくためのドミナントで終わります。
練習番号7以降はずっと Gm です。いくつか面白い和音がありますが、最後まで Gm の雰囲気を保ったまま曲は終わります。

このように解析すると、曲は全体で三つのセクションに分かれることに気付きます。
最初は練習番号1、2の部分、次は練習番号3〜6まで、そして最後は練習番号7以降です。これを仮に A,B,C とすると、A/C はともに調が Gm で、B のみ調は激しく変化します。そう考えると、このA,B,C はそれぞれ、提示部、展開部、再現部というように呼んでも良いかもしれません。

楽曲が提示部、展開部、再現部の3つに分かれたとすると、これを演奏としてどのように表現するかは、いろいろな方法があると思います。私は区切れ目で軽くリタルダンドして、区切れ目感を出そうと考えています。

曲は全体的にプーランク的な細切れ感、コラージュ感が漂うものの、比較的息の長いフレーズもあり、プーランクの宗教曲の中でも宗教的な厳粛さが強く出ているように感じます。

とは言え、プーランクの面白さはフレーズの歯切れの良さ。
この曲の中でも、フレーズが八分音符で終わっているか、四分音符で終わっているか、終わりに八分休符があるか、ブレス記号があるか、のようにフレーズの終わり方にバリエーションがあり、これを演奏の中できちんと歌い分けたいものです。
特に語尾が八分音符で終わる場合の言葉のさばき方で、プーランク的な細切れフレーズの雰囲気が上手く出るのではないかと思われます。

もう一つこの曲の面白いところは、音量記号に mp が無いことです。
p/pp/ppp はあるし、mf/f もありますが、私には mp が無いのは偶然には思えません。つまりプーランクの作曲の意図として、音楽を明確に「大きい」「小さい」の組み合わせで表現したいと考えており、そのために中間的な音量を敢えて排除したように思えます。
従って、この曲の音量の表現については、エッジを立てて変化量を大きく示してあげるべきではないかと考えています。