もう少し、具体的に音楽的な魅力を挙げてみたいと思います。
・多声部による重厚なアカペラ合唱の魅力
邦人合唱曲の主流がピアノ伴奏にある中で、アカペラ合唱というのはほとんどシンプルなものが多かった時代、このような厚みのある声部によって構成された複雑なアカペラ合唱曲というのは、それだけで独自性があったのではないかと推察します。今でこそ、たくさんの重厚な(むしろ難しすぎる)アカペラ合唱曲がありますが、当時は(約50年前)一部の現代音楽以外では珍しかったのではないでしょうか。
・温故知新的なポリフォニー処理
そもそも合唱の源流はルネサンス音楽にあり、その時代にすでにポリフォニーという技法が大きく発展していました。和声が複雑になるにつれ、西洋音楽においてもポリフォニー処理はそれほど一般的でなくなってきましたし、その流れを汲む邦人合唱曲では全編ポリフォニックな音楽というのは、ほとんど聞きません。
しかし、「嫁ぐ娘に」はどこまでもホモフォニックな書法を嫌います。実際楽譜を見れば分かりますが、6声全部が同じリズムで同じ歌詞を歌う箇所は全くありません。
常に複数の声部が対比され、同じメロディが模倣され、言葉が時間をずらして連呼されます。圧巻なのは、3曲目のAllegro。複数の主題が絡み合いながら、リズムの鮮烈さと言葉の強さが見事に表現されています。こういった書法は、その後のアカペラ邦人合唱曲に大きく影響を与えたと思います。
・高次テンション音の使用と移ろう調性
シンプルな和音中心の当時のアカペラ合唱曲において、7th,9th,11th といったテンション音の使用はまだ日本では珍しかったと思います。
今でこそ、決めの和音の maj7th, 9th は常套ですが、今風なオシャレな音使いともちょっと違った、アブストラクトな雰囲気が独特な浮遊感を作り上げており、それが泣きのコンテキストを不思議な格調高さに感じさせます。
また、その場の音楽の流れに逆らわずに和音を連ねた結果、特定の調性を楽譜上に書き込むのがあまり意味のない状態になり、結果的に作曲家は全て調号を放棄するという書法を採用しました。
これにより、音楽の解釈から調性は解き放たれたのですが、依然として音楽は調性音楽の枠からは外れていません。現代音楽のような佇まいをもつ楽譜ながら、随所に調性を感じさせる安心感を生んでおり、それが歌う側のモチベーションを維持させているようにも感じられます。
・多彩なヴォカリーズ
歌詞を歌わないパートは、M、A、だけでなく、ル、ラ、ルン、ランが使われます。
カタカナで書いてあるのは時代を感じさせますが、これ、当時の感覚からすれば、まるで少女漫画のようで、ほとんどギャグのように思われたかもしれません。人によっては、こんなふざけた歌詞を歌えるか、くらいの意見もあったのではと思います。
もちろん、今ではこんなの全然当たり前。もっともっとヘンテコなヴォカリーズが使われることもしばしば。だからこそ、芸術的アカペラ音楽のほとんど最初期に、こういったヴォカリーズを採用した三善晃のセンスについて、私は敬意を表したいと思います。
ひとまず、このシリーズ終えますが、また歌っているうちに何か新しく思うところが出て来たら、書き足すかもしれません。
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