恐れ多くも、今回は合唱曲としてみたときのこの曲の今ひとつな点、疑問を感じるところについて書いてみます。
私はベースなので、ベースの立場で言わせてもらうと、ベースが歌うところが少ない! それに、歌う箇所が非常に断片的です。もっともっと歌わせてくれよ〜とか思っている人たちは結構多いことでしょう。
でもこれが欠点でしょうか。それだけでは欠点ではないでしょう。しかし、それを手がかりにしてみていくと、この曲には全体に比較的休符が多いことに気付きます。
もちろんこの曲は男声と女声の対比が多く、譜表の括弧の付け方などを見ても、女声と男声の二群の合唱のための曲、という見方も出来なくはありません。
それにしても、休みパートがあるときでさえ派手にディビジョンをしていたり、ディビジョンの内容を良く見ると単に3声を2声にするためだったり、各所にソロが配置されていたり、オクターブで旋律を補強していたり・・・。こういった書法から私は、能力の高い歌い手が全く均等に配置されていることを前提とした、無駄に精緻な音量制御をパート割りから感じたりするのです。
そしてその感覚は、むしろオーケストラの書法に近いものです。例えば2菅編成のオケなら、各楽器の数は大体決まってきます。その数を念頭に置いて作曲しながら、例えばフルート用のフレーズを一本のフルートで吹くか、二本のフルートで吹くか、まで作曲家は指定しなければなりません。
「嫁ぐ娘に」の楽譜から感じるのは、そういった厳密さです。そして、それは合唱団という編成の特性上、やや無駄な努力に思えます。
実際、「地球へのバラード」など後のアカペラ曲では、そういった感覚は減っているので、三善晃なりに合唱曲ってそういった厳密さが必要ないことがだんだん気付いていったのではないかと思うわけです。
まあ、三善晃に限らず、合唱曲を書いたことのない現代音楽作曲家の楽譜というのは、まるで団員一人一人がオーケストラの楽器と同じように均等に演奏できる前提で書かれたようなものは多いです。しかし、それは合唱曲の作曲としてはあまり正しい態度とは思えません。
当たり前ですが、合唱団の人数バランスや歌手の技術力については、全く合唱団ごとにばらばらで、この不均等ぶりは器楽とは比べものになりません。
ですから、どんなに合唱団の人数が多くても、合唱曲は一般的には同属楽器のアンサンブル的な書法であるべきだし、古くからある合唱の優れた曲はほとんどそういったシンプルなものです。そういった汎用性のある音符を、各合唱団がそれぞれの特徴に合わせて、指揮者によって音量配分やパートバランスを整える、というのが一般的な練習のあり方です。
そういう場において、このような厳密な書法を突きつけられると、合唱団側のコントロールが非常にしずらくなり、結果的に演奏に悪い影響を与えてしまいます。
そういう意味では、この曲は非常にプロ向けの曲とも言えますが、それは合唱に慣れていない書法の裏返しとも私には思えてしまうのです。
あのレベルの曲を普通のアマチュア合唱団が演奏する時代が来るとは、
返信削除作曲家も想像できてなかったのでは、と邪推します。
ソロの扱いや役割も、後世の作品とは全然ちがいますもんね。
どうも、MUGIさん。
返信削除もともとプロフェッショナルな世界にいたので、アマチュアのことなど考えてなかったんでしょうね、きっと。
なるほど、ソロの扱いとかも、その後の作品ではずいぶん違うわけですね。