では、この作品の魅力とは何でしょう。
たくさんの視点があると思いますが、今回は作曲の技術的な方面ではなく、この作品のもつロマンチシズムについて、言及してみたいと思います。
20世紀以後の天才肌的芸術家の一つの特徴として、年齢の変化に伴って作風の変化が非常に明瞭に現れる、ということがあると思っています。
例えば、ピカソは、青の時代→キュビズム→新古典主義→シュールレアリズム、みたいに作風が変化します。ストラヴィンスキーも、原始主義→新古典主義→セリー、と作風が変化します。特にこの二人は、激しく作風が変化した代表格ではあるのですが、優れた芸術家は一つの作風に留まらずにいろいろな方向に変わっていくものです。逆に言えば、凡百の芸術家は、たった一度の成功体験から逃れられないためになかなか作風を変えられないものと思います。
天才芸術家のそういった作風の変遷を、私なりに非常に一般化してみましょう。
・ロマンチックな時代(20代)
・新技術追求時代(30代)
・社会との関わりの模索・古きものの再発見(40代)
・仕上げ、円熟、あるいは全くの新展開(50代〜)
とこんな感じ。
そして、作風の振れ幅はそれほど大きくないにしても、三善晃もまたこういった流れを忠実に追ってきたように感じます。
ようやくここで本題になるのですが、「嫁ぐ娘に」はまさに三善晃のロマンチックな時代に相当するものだと私は考えます。
ロマンチックな作風とはどういうものかというと、ルールや技法より目の前に感情とか、個別の表現を最優先にすること。テキストや作品の背景に物語性があり、音楽で言えば音世界だけでなく、コンテキストに依存した作品になりやすいという点があるでしょう。
逆に言えば、ほとんどの芸術家はこの場所に留まります。その先に行けないし、このロマンチシズムの追求こそが芸術だと死ぬまで思っている人もいます。
「嫁ぐ娘に」は、結婚を前にした娘に対する母親の気持ちを歌ったものですが、20代の男性にとってそんな感情は、ある意味最も共感からかけ離れていると思うのですが、だからこそ作曲家は逆に想像力をたくましくして本物以上の感情を表現することに成功しています。その表現力が半端じゃないため、結果的に全ての年代の人の気持ちに響くわけです。
5曲目の娘の人生フラッシュバック的なテキストは、結婚式のスライド上映のような悪く言えばお涙頂戴の要素をふんだんにもっているのですが、それを安易な泣きの音楽に落とさず、その心情を全く過不足無く表現しているその筆力には感嘆するばかりです。
音楽的な新規性を持ちながら、なおかつ多くの人の心を共感させるテキストの世界観の表現力、というのがまずこの曲の大きな魅力の一つ。それは現代音楽の抽象性とか、難解さとかは無縁の世界。
特に実力のある団体なら、やや音楽的に高度でありながら歌う側、聞く側の気持ちを惹きつけるロマンチシズムを持つこの曲は、非常に魅力ある作品に感ずることでしょう。
実際のところ、若くてギラギラした才能ある芸術家がこのようなテキストを選ぶことはそう多くはありません。見た目のお涙頂戴的世界を受け付けない人が圧倒的に多そうです。
一種、演歌的な題材を使いながら、それを高度に芸術性の高い音楽に仕上げた三善晃の手腕、そういった完成図を事前に思い描く構想力、ありきたりの幸せを陳腐だとは思わないその感性、がこの曲の完成に繋がったのではないでしょうか。
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