2011年6月28日火曜日

地球の論点/スチュアート・ブラント

スチュアート・ブラントはアメリカの未来学者。生物学を学んだ後、1968年に"Whole Earth Catalog"という雑誌を創刊。それがベストセラーになって、カウンターカルチャーのバイブルとまで言われるようになりました。若き日のスティーヴ・ジョブスがその雑誌に熱狂したというエピソード、そして最終号の裏表紙に書かれていた "Stay hungry, Stay foolish" という言葉をジョブスが引用したことなどで、この著者や雑誌もよく知られるようになったのではないでしょうか。

本書は、そのスチュアート・ブラントが2009年に出版した"Whole Earth Discipline"の邦訳版。
これが、大震災後、原発事故の後で出版されたことがまた興味深いです。なぜなら、本書で著者は原発推進の立場をとっているからです。

著者のスタンスは、一貫しています。
地球温暖化を防ぐため、我々は何をしなければならないのか、純粋に科学的に考察し、理論や原則ではなくあくまで結果が大事といったような、実用主義を貫きます。
そのためには、政治や経済といった側面も重要です。どのような大義ある計画であっても、お金がかかれば反対者は必ず出てくるし、為政者が変われば計画も凍結されてしまいます。
現実主義、実用主義を取ろうとするなら、経済的な尺度や、政治的な活動もまた重要であるという当たり前のことを主張しているわけです。

そして、本来環境運動の中心人物であった著者が達した結論は、むしろ多くのエコロジストが反対するような「都市化」「原発」「遺伝子組み換え」の推進でした。

そもそも、我々がぼんやりと考えている文明化が地球環境悪化の原因だ、という観点を、いろんな尺度から再点検しています。
では、その文明化っていうのはいつからのことなのでしょう。
例えば、ネイティブアメリカンがベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に渡ってきた際、この大陸にもともといた大型哺乳類は、人間が狩りをした結果ほとんどが絶滅してしまいました。
あるいは、人間が8000年ほど前から稲作などの農業を開始した結果、森林が減り、一気に温暖化が進んだことが分かっています。
つまり、人間はほとんどその活動の最初期から、ある意味、環境を悪化させてきたのであり、それもまた自然の一つであると言えなくもないわけです。

そうである以上、原始人のような生活に戻ったり、質素につつましく生きることが地球を助ける方法などではなく、もっと積極的に科学の力を利用し、我々の叡智を結集するしか方法は無いと説きます。
「遺伝子組み換え」については、まさに私が昔から思ってきたことを、理論的に補強してくれたと感じました。つまり、人類がこれまで行ってきた品種改良というのは、間接的な遺伝子組み換えであるし、ウイルスレベルでみたら、遺伝子がどんどん突然変異で組み変わってしまうのはむしろ自然だとも言えるわけです。それを人為的にちょっとだけ背中を押してあげるだけ。
現に薬品の開発では、遺伝子組み換えは十分な実績を挙げており、なんとなく嫌だから反対、という態度がいかに非科学的かを論じています。

問題は原発のところ。
確かに、太陽発電、風力発電はコストが高い。それに同じ発電量を出すのに、必要な土地の大きさも原発と較べると桁違いに広くなってしまいます。
著者は、一度事故を起こすともう原発を推進できなくなるから、相当な注意をもって原発の運用がされているはずだ・・・と書いてあるのですが、残念ながら、その期待は裏切られてしまいました。
私たちは、二酸化炭素を吐き出しまくる発電にまだまだ頼らなくてはなりません。
少なくとも、二酸化炭素を出さない原発はグリーンな発電方法なのです。だからこそ、今回の事故は多くの温暖化阻止のために原発を推進してきた多くの人を裏切ってしまったことになりました。
我々は放射能を恐れるのと同時に、温暖化も恐れなければならないのです。本当に原発事故が世界に与えた影響は大きいのです。

最後に著者は、こういった大きな問題を解決するのに、夢想家、科学者、エンジニアの三者がうまく分担して事を進めなければいけないことを説きます。
夢想家とはロマンチストのことで、カリスマ性を持った政治家、あるいはジャーナリストといった存在。政治や資金を動かす人たち。科学者は方法を発案し理論化、そして検証する。最後にエンジニアは、その計画をきちっと遂行し、現実に必要なモノを作り出していきます。

著者の提唱する「地球工学」といった考え方にこれからどれだけ多くの人が協力し、従事していくのか、それ如何で地球温暖化対策が本当に実を結ぶかが決まっていきます。私も、今後こういった動きにいろいろ興味を抱きながら応援していきたいと思います。

2011年6月26日日曜日

二群の女声合唱のための組曲「へんしん」楽譜動画アップ

すでにいくつかのチャンネルでお知らせしていますが、ブログでもまとめて紹介します。

もう2年ほど前になりますが、横浜で活動する女声合唱団アンサンブルMoraの1stコンサートで初演された、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」の演奏と、楽譜をまとめて動画にして YouTube にアップしました。
演奏会のお知らせの記事はこちら

また、各曲の動画へのリンクも貼っておきます。
1.子供八人生みました
2.こっちにおいで
3.ひぐらし
4.雛祭り
5.猫屋敷
6.うるんで見える

本作は無伴奏で二群の合唱というスタイルを取っています。
二群というのは、音楽的な面白さという側面もあるのですが、テキストに現れる登場人物を代弁させる意味合いも持っています。例えば、1コアが私、2コアがお母さん、といったような役割分担です。
聞いて分かりやすく、なおかつ楽しめる音楽を目指して作曲した組曲です。とはいえ、もう作曲したのは10年前なんだよね〜

詩の世界がまた、とても私好みなのです。
全体的に、子供向け、というかファンシーな感じに捉えられがちですが、よく読んでみると結構ブラックな味わいのあるテキストなのです。
そもそも子供の感性って、大人の常識が足りない分、自由奔放なものを持っているはずなのだけれど、一般的に子供向けのテキストというのは、どうしても嘘くさい倫理性を纏ってしまうもの。だから、きれいな表現の中にも、恐怖とか死とか、そういうものがきちんと織り込んであるほうが、よほど子供の心象を良く表現しているような感じがするわけです。
この詩を書いた宮本さんとは、初演の際に初めてお会いして、いろいろお話ができたのは大変良い想い出です。

出版も考えてはいるのですが、今までの経験からなかなか数も出そうにないので、まずは動画を見て頂いて、演奏を希望される方に楽譜は直接お送りしようと思っています。
私まで楽譜希望のメールを頂ければ、PDFで添付して返信いたしますので、ご遠慮なくお申し付け下さい。

2011年6月23日木曜日

妄想技術:寄付フォロー

私自身、寄付とは無縁の生活をしているのであまり体感したことは無かったのですが、もちろん世の中には寄付で活動している多くの団体があります。基本的に何とか財団、みたいなのは大元の資本金が寄付から成り立っているのですし、寄付金を集め関連する人々に分配するような法人もたくさんあります(もちろん話題の発端になったNPOも)。
しかし、依然として一般的に経済は売った、買ったで成り立っているわけですが、この中における寄付の比率がもっともっと高まっていったら面白いのに、と思うわけです。

それで一発アイデアですが、Twitterで「寄付フォロー」みたいな機能があったらどうだろう、と思い付いたのです。
基本的には、それほど難しい機能ではありません。
例えば、あなたがTwitterで誰かをフォローする際、通常のフォローに加え、寄付フォローという選択肢が増えます。寄付フォローの際には金額を設定します。例えば月額10円、100円、200円、500円、1000円から選ぶ、みたいな。もちろんそのためには、クレジットカードの登録などは必要になることでしょう。
寄付フォローすると、フォローされた人には、その寄付金が直接手に入ります。まあ、Twitter社に多少の手数料は取られてもいいとしましょう。

そもそもTwitterって、有名人の言動を直接見聞きできることがその魅力なので、自分の好きなアーティスト、言論人、政治家に対する直接支援を寄付することによって行えるなら、その人に対する共感度はさらに増していくものと思います。
それが、Twitterというシンプルな仕組みと同期することで、より気軽に寄付することに繋がるのではと思うのです。10円みたいな超低価格寄付もありとすれば、その気軽さはさらに増していくのではないでしょうか。
Twitterのフォローはいつでも簡単に出来ますし、解除も簡単。受ける側はブロックだって可能。それなら、寄付といっても後腐れない関係として利用し易いのではないでしょうか。

前も書いたように、寄付というのは需要・供給とか、最適な価格とかという観念があまりそぐわない行為です。支援したいという積極的、前向きな気持ちの表れであり、したくない人は全然する必要はないのです。
こういった経済観、価値観が広まっていけば、売り上げ=人気、のような価値観も崩れていき、より本質的なアート、言論、政治が育っていくのではないかという気がするのです。

2011年6月20日月曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその4

もう少し、具体的に音楽的な魅力を挙げてみたいと思います。

・多声部による重厚なアカペラ合唱の魅力
邦人合唱曲の主流がピアノ伴奏にある中で、アカペラ合唱というのはほとんどシンプルなものが多かった時代、このような厚みのある声部によって構成された複雑なアカペラ合唱曲というのは、それだけで独自性があったのではないかと推察します。今でこそ、たくさんの重厚な(むしろ難しすぎる)アカペラ合唱曲がありますが、当時は(約50年前)一部の現代音楽以外では珍しかったのではないでしょうか。

・温故知新的なポリフォニー処理
そもそも合唱の源流はルネサンス音楽にあり、その時代にすでにポリフォニーという技法が大きく発展していました。和声が複雑になるにつれ、西洋音楽においてもポリフォニー処理はそれほど一般的でなくなってきましたし、その流れを汲む邦人合唱曲では全編ポリフォニックな音楽というのは、ほとんど聞きません。
しかし、「嫁ぐ娘に」はどこまでもホモフォニックな書法を嫌います。実際楽譜を見れば分かりますが、6声全部が同じリズムで同じ歌詞を歌う箇所は全くありません。
常に複数の声部が対比され、同じメロディが模倣され、言葉が時間をずらして連呼されます。圧巻なのは、3曲目のAllegro。複数の主題が絡み合いながら、リズムの鮮烈さと言葉の強さが見事に表現されています。こういった書法は、その後のアカペラ邦人合唱曲に大きく影響を与えたと思います。

・高次テンション音の使用と移ろう調性
シンプルな和音中心の当時のアカペラ合唱曲において、7th,9th,11th といったテンション音の使用はまだ日本では珍しかったと思います。
今でこそ、決めの和音の maj7th, 9th は常套ですが、今風なオシャレな音使いともちょっと違った、アブストラクトな雰囲気が独特な浮遊感を作り上げており、それが泣きのコンテキストを不思議な格調高さに感じさせます。
また、その場の音楽の流れに逆らわずに和音を連ねた結果、特定の調性を楽譜上に書き込むのがあまり意味のない状態になり、結果的に作曲家は全て調号を放棄するという書法を採用しました。
これにより、音楽の解釈から調性は解き放たれたのですが、依然として音楽は調性音楽の枠からは外れていません。現代音楽のような佇まいをもつ楽譜ながら、随所に調性を感じさせる安心感を生んでおり、それが歌う側のモチベーションを維持させているようにも感じられます。

・多彩なヴォカリーズ
歌詞を歌わないパートは、M、A、だけでなく、ル、ラ、ルン、ランが使われます。
カタカナで書いてあるのは時代を感じさせますが、これ、当時の感覚からすれば、まるで少女漫画のようで、ほとんどギャグのように思われたかもしれません。人によっては、こんなふざけた歌詞を歌えるか、くらいの意見もあったのではと思います。
もちろん、今ではこんなの全然当たり前。もっともっとヘンテコなヴォカリーズが使われることもしばしば。だからこそ、芸術的アカペラ音楽のほとんど最初期に、こういったヴォカリーズを採用した三善晃のセンスについて、私は敬意を表したいと思います。

ひとまず、このシリーズ終えますが、また歌っているうちに何か新しく思うところが出て来たら、書き足すかもしれません。

2011年6月18日土曜日

寄付社会は成り立つか?

たまたまTwitterで、NPO法案が通って、NPOに寄付すると税金が減額されるようになった、ということを知りました。
まだまだこの法案に対して認知度は低いだろうし、どこに寄付したらよいかも皆目検討は付きませんが、寄付することで払う税金が安くなる、逆に言えば税金を払うくらいなら、そのお金は自分の好きなように使いたい、ということに繋がるわけで、その意義は決して小さいものでは無いのだろうと思います。

このような話を聞いてから、そもそも寄付という形の経済こそ、私がいろいろと疑問に思っていた社会のあり方への模範的な解答になり得るのではないかという気がしてきたのです。
例えば、こんな本とか、こんな本を読んで思ったのは、人のやる気というのは単発的な報酬では起きないということ。むしろ、社会や組織の中でいかに個人が認められたか、という観点が非常に大きいのです。
プロ野球選手が年俸にこだわるのは、それが球団の中で自分の価値をどのように判断しているのか、という証になるからであって、お金そのものにこだわっているわけではありません。

非常に細切れに単価を決めて、はい一時間だから何円、というような形でもらうお金というのは、逆に労働する側からものごとを考える意欲を失わせます。どちらかというと、単純な仕事に向いた賃金の支払い方法です。
本来、知的な作業、例えば何かを設計したり、絵や文章や音楽を作ったり、といった場合、あまりにその報酬を細切れにして単価を決めるのは、仕事する側にあまりいい影響を与えません。
むしろお金の話などせず、あなたを信頼するから、あなたの作品が好きだからこの仕事をお願いするのです、みたいなほうが、依頼される側は圧倒的にモチベーションが上がります。

問題はそのときの報酬体系です。
何にしても生活するわけだから、報酬が無いわけにはいきません。先ほどのプロ野球で言うなら、一年単位でその人の貢献度を金額で判断していました。しかしそれでさえ、球団側の原資があっての話ですから、生々しい話にならざるを得ない。
そこで、最初の寄付の話が繋がるわけです。

例えば、音楽家の場合・・・
最近はCDが売れなくなってきており、明らかに音楽ビジネスの形が変わりつつあります。誰もがYouTubeでただで音楽を聴けるのが当たり前になった時代に、今さら3000円出してCDを買う人は少ないのかもしれません。
それなら、自分の好きなアーティストに寄付すれば良いのではないでしょうか。
アーティストは、音源をほとんど無料で解放します。
ファンのうち、お金を出してまで支援をしたい人が、寄付をすればよい。そしてアーティストは、その寄付金を自分の活動資金にしていくわけです。

寄付した人に何らかの特典があるのなら、正直、ファンクラブの年会費、とさほど違わないように思えるのですが、それでも何か心持ちが違います。
年会費で払わなきゃいけないお金と思うと、どうしても人はサービスの質と金額を天秤にかけるようになります。その金額が妥当なのか、ということです。それは、結局もっと安くして欲しい、と願う感覚に繋がります。
しかし、寄付というのは、個人が積極的に支援したいという気持ちの証です。その人の経済状況によって金額は違っていてもいいし、値切ろうと思う感覚と根本的に異なります。むしろ、お金を出せば出す程、そのアーティストに対する思い入れはさらに強くなる、といった心理。

お金が無ければ寄付はしなくても良いのです。
むしろ、寄付というのはお金を持つ者が、自分の嗜好やあるべき社会の理想型とかを示す良い方法だとも思えます。言わばお金の使い方による自己表現です。
現実的に簡単にそのようには行かないでしょうけど、人々の意識がだんだん変わっていけば、寄付で成り立つ経済、社会というのもあり得るのでは、とちょっと夢想してみました。

2011年6月14日火曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその3

では、この作品の魅力とは何でしょう。
たくさんの視点があると思いますが、今回は作曲の技術的な方面ではなく、この作品のもつロマンチシズムについて、言及してみたいと思います。

20世紀以後の天才肌的芸術家の一つの特徴として、年齢の変化に伴って作風の変化が非常に明瞭に現れる、ということがあると思っています。
例えば、ピカソは、青の時代→キュビズム→新古典主義→シュールレアリズム、みたいに作風が変化します。ストラヴィンスキーも、原始主義→新古典主義→セリー、と作風が変化します。特にこの二人は、激しく作風が変化した代表格ではあるのですが、優れた芸術家は一つの作風に留まらずにいろいろな方向に変わっていくものです。逆に言えば、凡百の芸術家は、たった一度の成功体験から逃れられないためになかなか作風を変えられないものと思います。

天才芸術家のそういった作風の変遷を、私なりに非常に一般化してみましょう。
・ロマンチックな時代(20代)
・新技術追求時代(30代)
・社会との関わりの模索・古きものの再発見(40代)
・仕上げ、円熟、あるいは全くの新展開(50代〜)

とこんな感じ。
そして、作風の振れ幅はそれほど大きくないにしても、三善晃もまたこういった流れを忠実に追ってきたように感じます。
ようやくここで本題になるのですが、「嫁ぐ娘に」はまさに三善晃のロマンチックな時代に相当するものだと私は考えます。

ロマンチックな作風とはどういうものかというと、ルールや技法より目の前に感情とか、個別の表現を最優先にすること。テキストや作品の背景に物語性があり、音楽で言えば音世界だけでなく、コンテキストに依存した作品になりやすいという点があるでしょう。
逆に言えば、ほとんどの芸術家はこの場所に留まります。その先に行けないし、このロマンチシズムの追求こそが芸術だと死ぬまで思っている人もいます。

「嫁ぐ娘に」は、結婚を前にした娘に対する母親の気持ちを歌ったものですが、20代の男性にとってそんな感情は、ある意味最も共感からかけ離れていると思うのですが、だからこそ作曲家は逆に想像力をたくましくして本物以上の感情を表現することに成功しています。その表現力が半端じゃないため、結果的に全ての年代の人の気持ちに響くわけです。
5曲目の娘の人生フラッシュバック的なテキストは、結婚式のスライド上映のような悪く言えばお涙頂戴の要素をふんだんにもっているのですが、それを安易な泣きの音楽に落とさず、その心情を全く過不足無く表現しているその筆力には感嘆するばかりです。

音楽的な新規性を持ちながら、なおかつ多くの人の心を共感させるテキストの世界観の表現力、というのがまずこの曲の大きな魅力の一つ。それは現代音楽の抽象性とか、難解さとかは無縁の世界。
特に実力のある団体なら、やや音楽的に高度でありながら歌う側、聞く側の気持ちを惹きつけるロマンチシズムを持つこの曲は、非常に魅力ある作品に感ずることでしょう。

実際のところ、若くてギラギラした才能ある芸術家がこのようなテキストを選ぶことはそう多くはありません。見た目のお涙頂戴的世界を受け付けない人が圧倒的に多そうです。
一種、演歌的な題材を使いながら、それを高度に芸術性の高い音楽に仕上げた三善晃の手腕、そういった完成図を事前に思い描く構想力、ありきたりの幸せを陳腐だとは思わないその感性、がこの曲の完成に繋がったのではないでしょうか。

2011年6月11日土曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその2

恐れ多くも、今回は合唱曲としてみたときのこの曲の今ひとつな点、疑問を感じるところについて書いてみます。
私はベースなので、ベースの立場で言わせてもらうと、ベースが歌うところが少ない! それに、歌う箇所が非常に断片的です。もっともっと歌わせてくれよ〜とか思っている人たちは結構多いことでしょう。
でもこれが欠点でしょうか。それだけでは欠点ではないでしょう。しかし、それを手がかりにしてみていくと、この曲には全体に比較的休符が多いことに気付きます。
もちろんこの曲は男声と女声の対比が多く、譜表の括弧の付け方などを見ても、女声と男声の二群の合唱のための曲、という見方も出来なくはありません。

それにしても、休みパートがあるときでさえ派手にディビジョンをしていたり、ディビジョンの内容を良く見ると単に3声を2声にするためだったり、各所にソロが配置されていたり、オクターブで旋律を補強していたり・・・。こういった書法から私は、能力の高い歌い手が全く均等に配置されていることを前提とした、無駄に精緻な音量制御をパート割りから感じたりするのです。
そしてその感覚は、むしろオーケストラの書法に近いものです。例えば2菅編成のオケなら、各楽器の数は大体決まってきます。その数を念頭に置いて作曲しながら、例えばフルート用のフレーズを一本のフルートで吹くか、二本のフルートで吹くか、まで作曲家は指定しなければなりません。

「嫁ぐ娘に」の楽譜から感じるのは、そういった厳密さです。そして、それは合唱団という編成の特性上、やや無駄な努力に思えます。
実際、「地球へのバラード」など後のアカペラ曲では、そういった感覚は減っているので、三善晃なりに合唱曲ってそういった厳密さが必要ないことがだんだん気付いていったのではないかと思うわけです。
まあ、三善晃に限らず、合唱曲を書いたことのない現代音楽作曲家の楽譜というのは、まるで団員一人一人がオーケストラの楽器と同じように均等に演奏できる前提で書かれたようなものは多いです。しかし、それは合唱曲の作曲としてはあまり正しい態度とは思えません。

当たり前ですが、合唱団の人数バランスや歌手の技術力については、全く合唱団ごとにばらばらで、この不均等ぶりは器楽とは比べものになりません。
ですから、どんなに合唱団の人数が多くても、合唱曲は一般的には同属楽器のアンサンブル的な書法であるべきだし、古くからある合唱の優れた曲はほとんどそういったシンプルなものです。そういった汎用性のある音符を、各合唱団がそれぞれの特徴に合わせて、指揮者によって音量配分やパートバランスを整える、というのが一般的な練習のあり方です。
そういう場において、このような厳密な書法を突きつけられると、合唱団側のコントロールが非常にしずらくなり、結果的に演奏に悪い影響を与えてしまいます。
そういう意味では、この曲は非常にプロ向けの曲とも言えますが、それは合唱に慣れていない書法の裏返しとも私には思えてしまうのです。

2011年6月7日火曜日

県民合唱祭を聴きながら思ったこと

たまには、行事の感想など。
日曜日、静岡県民合唱祭が静岡市の市民文化会館で開催されました。全部で69団体の参加。終了が20時を超えるという巨大なイベントです。
我々も、53番目夕方18時頃の演奏。いろいろと課題の多い演奏だったなあと痛感。自分たちのことはまた別途反省することにいたします。

自分たちの演奏に先立ち、早めに会場に行って20団体程聴きました。本当は我々の演奏以降も聞き所は多かったのですが、残念ながらそちらは聴けませんでした。
多くの合唱団は、ほぼママさん系ですしかなり高齢でもあります。率直に言えば、聴き応えのある演奏をしてくれる団体はそれほど無いわけですが、それでも指揮者や団体の雰囲気は何となく伝わってきます。
団の演奏レベルはどうであれ、いや逆に演奏レベルがそれほど高くないからこそ、指揮者が何を練習中に語り、そして何を表現したいかが演奏や雰囲気から伝わってきます。

団のあり方は十人十色だし、指揮者と団員の関係もまた様々。ですから、団のあり方を一般化するのは難しいです。
しかしアマチュアであるからこそ、団員がのびのび歌っているか、それとも何か制約を感じながら歌っているかが演奏の雰囲気を大きく変えているような気がしました。
これは大変難しい問題で、指揮者は自分の思う世界が強すぎる程、いろいろなことを団員に求めます。まあ指示の仕方にも依りますが、注意点が多くて細かいと歌い手が制約を感じる気持ちが強くなる。それにより、自発的に気持ちよく歌いたい感覚から一歩遠ざかってしまうという現象が起こってしまいます。

演奏を聴いて、強要された世界観を表現しようとして縮こまってしまう団体とか、逆に自由に歌ってやや音楽的な統制が欠如している団体とかがあるわけです。
その二つの悪い状態に陥らずに、重要な点をきっちり抑えていくことは、それなりに指導者の能力を要求します。やはり音楽ですから、作りたい世界観以前にピッチやテンポ感といったソルフェージュの精度、または声の美しさという要素は押さえたいところ。そのあたりに、どの程度練習を割いているのかが演奏から如実に伝わるわけです。

そんなことをつらつら考えてみていると、本当に一団体ごと、どんなレベルであれ、それぞれ苦労を重ねながら日々の練習をしていることが愛おしく感じられます。そして自分たちのやっていることがそれほど凄いことでなくても、きちんと基本を押さえ、粘り強く愚直にやるべきことをやることの重要性を感じました。そして、そういうことをきちんとしている団体こそ、誉められるべきだなとも感じました。
プロ志向で考えると、良い演奏だけが絶対的に思えますが(そういう指向性もまた必要なのですが)、アマチュアとしての音楽の関わり方においては、もう少し懐の深い態度も必要だなと、個人的にもやや反省したのでした。
あ〜、しかしこれは堕落なのだろうか?

2011年6月2日木曜日

ブラックスワン

バレエ団内での主役をめぐる争い・・・というような程度のイメージで見に行った映画、ブラックスワン。もう〜全然違うじゃないですか。これ、もうほとんどサイコホラー。しかも、正直やや趣味が悪い。

趣味悪いってのは、「呪怨」並みのどっきりシーンがたくさんあるってこと。つまり、いるはずのないところに人がいたり、動くはずのものが動かなかったり、動かないはずのものが動いたり・・・
後半にいくに従い、現実と妄想の境目が曖昧になってきて、いつどんなショッキングなシーンが出てくるかとハラハラしながら見てました。
女癖の悪い芸術家肌の舞台監督(演出家?)ってのもやや古典的な設定で、ちょっと苦笑してしまいます。

こういったサイコ系としては、必ずエロ妄想などが出て来ます。主演のナタリー・ポートマンは、正直セクシーとは言い難いのですが(バレリーナ役だし)、ここまで体当たり演技をしたのはびっくり。まあ、内容が内容なので、こういったエロシーンもすんなり入ってきてしまうのは確かなんですが。
しかし、ちょっと間違うと成人映画すれすれなわいせつ感、お下劣感が、ダーク感、アングラ感を余計助長させています。

こんな感じの映画なので、コワイものを見たい人にはお勧めしますが、痛いのが嫌な人とかは、止めた方が良いでしょう。バレエ団が舞台、という一見すると格調の高さを感じる題材ですが、それも誤解を招く原因の一つ。
とはいえ、観客をどうしようもない不安と恐怖に陥れるこの監督の手腕は大したものです。そして、全体を覆う薄暗さ、登場人物の薄気味悪さ、鋭利な小物の数々・・・。あるいは、このストーリーの中に、芸術を極めようとする崇高さとか、心理学的な要素を感じることも可能でしょう。
サイコな世界が好きな方はご覧下さい。