2007年4月29日日曜日

バベル

話題性の高かった映画なので、ぜひ見たいと思っていました。
三つの舞台でのエピソードが平行して語られていくという、構造性の高いストーリー。この三つのエピソードは、冒頭の銃の発射事件という一点で繋がっているのですが、各エピソードが進行するに従ってだんだん絡んでいく・・・みたいな、脚本的なテクニックとはまた違います。実際には、各エピソードは平行して進行し、それぞれの物語がそれぞれに解決して終わります。個人的には各エピソードがだんだん絡んでくる・・・といった技巧的なストーリーのほうが興味あったんですが。

もっとも、この映画のウリはそのストーリーのシリアスさにあるわけです。
近くにいるのに分かり合えない、そんなシチュエーションを拾い上げ、ほんのわずかな狂いがどんどん拡大されて大きな悲劇に繋がる様子を描写します。誰も悪くないのに、事態はどんどん悪くなっていく。それは絶対的な悪の所為なんかではなく、みんなが持っているほんのわずかなエゴの所為なのでしょう。そして、本来的に人間同士が分かり合うことは大変難しいことなんだ、というのが、この映画の伝えたいことなのだと思います。

エピソードの一つ、日本が舞台のストーリーはややエキセントリック。菊地凛子扮する聾唖者の退廃的な若者風俗などは、いささか挑発的すぎるかも。日本が舞台で、日本人役者が演じていても、このストーリーは日本人の下じゃ作れないだろうなと思いました。
ただ、爆音のDJのシーンで何度も静寂になるところ、もちろん聾唖者の感じた様子を表現しているのでしょうが、言葉が通じない・・・「バベル」という状態をうまく象徴しているように感じました。

2007年4月22日日曜日

音量の話

楽器の発達の話をしたので、それに関して思うことなど。
以前も書いたように、楽器の発達の目的の一つは音量を上げることにありました。

これはぜひ、知っておいてもらいたいことなのですが、人間とは単純に音量が大きいほど、印象深く感じる傾向があるのです。音楽の印象深さ、音が与える印象深さには、もちろん色々な要素があるわけですが、ほんのちょっと音量を上げるだけで、人々は音量が増えたと気が付かないまま、そのもの自体の印象は高まります。
例えば、テレビの番組の合間に流されるコマーシャルは、番組よりも少しだけ音量が上げてあります。コマーシャルになるとやけにうるさく感じるはずです。私は関係者では無いので、こういう仕組みがスポンサーと番組制作者とどんな関係において起こるのかは良く知りませんが・・・。
あと、良く分かる例としては、CDの音量です。10年以上前のCDを聴いたりすると、随分音が小さく感じたりしませんか。レコード会社にとっては、少しでもCDをたくさん売りたいのです。それなら、とここ10年くらいCDの音量がどんどん上がってきています。

CDに限らず、楽器でも何でも、電気で音を出そうとする場合、電気的には最大音量が決まってしまいます。また、その電気回路が扱えるダイナミックレンジも決まっています。例えばデジタルの世界で言うなら、CDの信号は16ビットのリニア波形なので、最大96dBのダイナミックレンジがあります。
ところが、音楽全体の平均音量を上げるということは、せっかくのダイナミックレンジを犠牲にして、音量の高いほう側に音楽信号を貼り付けてしまう、ということでもあるのです。

2007年4月20日金曜日

ひとまずのまとめ

クラシック音楽について、いろいろ書いてきましたが、すっかり話題が発散してしまいました。
つまり、まとめてみると
・クラシックは予定調和的で面白くない
・だいたい、本質的に発展していない
・それに権威主義的

それはなぜかというと
・100年くらい前に標準化された編成でオーケストラが成り立っている
・それと違う編成の曲は演奏されにくく、レパートリーも固定化された
・そのため、20世紀の楽器の進化に背を向けてしまった

楽器の話、編成の話は、クラシックを語る一側面でしかないとは思いますが、一つのジャンルが成立し、形式化し、伝統芸能化する典型的な流れを表しているような気がしてなりません。
なので、新しい価値観を模索しようとしている芸術家気取りの私としては、クラシック音楽とは過去の偉大な教科書の役割でしかないのかもしれません。芸術として今、現在をどう切り取って提示するのか、そのための感受性は、もっともっと別のジャンルからの刺激が必要なのです。

2007年4月16日月曜日

合唱名曲選:フォーレ・レクイエム「Sanctus」

とある助っ人要員で今日、フォーレのレクイエムを歌ったのですが、やっぱりいい曲だなあ、フォーレク。
フォーレの曲の良さというのは、ひとえに流麗な和音展開にあるのではないかと思います。そこで、今日歌った記念に(?)、Sanctus の和音を解析してみます。といっても、「Hosanna」の前まで。

ハープのアルペジオが曲の雰囲気を決定していますが、和声的に注意すべきなのは、これが第三音を最低音に置いているというところ(第一展開)。根音や第五音でなくて、第三音というのが独特の浮遊感を感じさせます。和声が移ろっても、明確な調性を感じさせないような感じをうけます。
基本的に "Eb/G" で曲は進行しますが、その後は以下のようになります。

[A]
| Eb/G | Eb7/G | C7/G Bb7/Ab | 〃 | Eb/G …
[B]
| Gm | Dm/F | Gm6 | D/F# | 〃 | 〃 | Bb7 …

練習番号[A]の "C7/G" は面白い音なのだけど、ドミナントとして "F" には向かわずに "Bb7 " に移行します。このときベース音の "G→Ab" という動きが自然なので "C7→Bb7" という和音進行が変に聞こえません。おかげで、この後、曲はまた Es-dur に戻れます。
次に面白いのは、練習番号[B]で、あれあれと思っているうちに、半音下の調に転調してしまうところ。ここも、"Bb7"から一旦 "Gm" に行き、三の和音だったのを二の和音に読み替えて、次の "Dm" でF調に転調、しかもその次を "Gm6→D" として、気が付くと Es-dur が D-dur に転調してしまいます。何と鮮やか。
ちなみに、この D-dur は、練習番号[C] の直前で、"Bb7" に無理やり行った後、Es-dur に戻ります。

[D]
| Bbm/Db | GbM7 | Db/Ab Ab7 | Bb/Ab Gm Bb7/F |
| C7/E Bb7/F | Eb/G Ab | Bb7sus4 Bb7 | …

「オザンナー」と盛り上がる前に、一拍単位で和声が移ろうところ。気持ちいいですねえ。特に "Bb/Ab→Gm→Bb7/F" とバスが降りながら、Des-dur ぽかった雰囲気をまた Es-dur に戻そうとする動きがいいです。
フォーレの和声は現代から見れば、複雑でもないし、テンション音も多くありません。しかし、ベース音を根音から外して、浮遊感を漂わせながら次々と転調していく様は、シンプルでありながら学ぶところがとても多いのです。

2007年4月14日土曜日

楽器の発達と標準化

自分でも大それたテーマだなあ、と思いつつ、相変わらず思うにまかせて書いてみます。
本来楽器というのは、絶えず改良が加えられ、変化していました。現在のオーケストラの楽器だって、古典派くらいの時代までは試行錯誤の連続だったのです(それが古楽というジャンルを生み出す要因でもあるわけです)。楽器の発達とは、前も言ったように扱いやすさや大音量化の追求であり、ピアノのような鍵盤楽器だけでなく、管楽器、弦楽器、そして打楽器もどんどん進化していきました。
しかし、音楽文化が国境を越え始めるに従い、進化と同時に標準化が必要になってきます。でなければ、オーケストラの編成の規格化が出来なくなり、ひいては同じ曲を世界各地で演奏することが不可能になります。
この標準化は、例えばJIS規格とか、最近であればDVDの規格とか、昨今ではそういう形の標準化団体があるわけですが、恐らく楽器の標準化にはそんな人為的な動きは無かったように思います。つまり、長い時間をかけながら、いろいろな人が取捨選択をした結果、なのでしょう。そういう意味では、自然淘汰による生物の進化と似ているかもしれません。

しかし、実は標準化は進化を妨げる作用を引き起こすことがあります。
例えば、誰かが6弦あるバイオリンを作ったとします。それにより音域や表現が拡がり、作曲家が新しい音域や表現で曲を作るかもしれません。しかし、その曲は新しいバイオリンでなければ演奏できません。そのバイオリンを演奏できる奏者、それを抱えるオーケストラというインフラが整備される必要があります。それは取りも直さず標準化された形態を変更する作業であり、世界中が同意しなければ先には進まないのです。

クラシックが標準化、規格化されつつあったのとほぼ同時に、全く規格外の新しい形態の音楽が発展し始めました。私も歴史的にそれほど詳しいわけではないですが、それがいわゆる現在のポピュラー音楽の大元になっているはずです。例えば、楽器としては比較的最近登場したサックスがクラシックよりもポピュラー音楽に使われることが多いということも、こういった流れと関係が深いのではと思います。
こうやって、クラシック音楽が楽器の発達(編成の規格の変更)を許容しづらくなった20世紀に、ポップスやロックと言われる音楽はそれを尻目に楽器の発達を貪欲に取り入れてきたというわけです。
そして、何より20世紀(特に後半)における楽器の大変革というのは電気化という点にあったと思います。

2007年4月11日水曜日

ピアノの未来

例えば、よく合唱団の練習には公民館を使いますが、その部屋にはピアノが置いてあることでしょう。実際、それほど値段は高くないアップライトピアノですが、それなりに乱暴に扱われるし、毎年調律をする必要はあるでしょうし、結構維持費がかかるはずです。それが電子ピアノに変わるなら、アップライトピアノよりは安いでしょうし、何より調律の必要がありません。多くの自治体が赤字の折、これは結構なコストダウンになります。
同じように小学校や中学校などのピアノはどうでしょう。各種集会場や、教会などは?ホテルのラウンジや、レストランなど、用途として電子ピアノでも構わない場所はいろいろあるように思います。商売ならなおさら、経済性でものを考えれば電子ピアノで十分、という判断はあり得ます。

それでも、芸術というのは費用対効果で考えることを拒絶させるイメージがあります。これが、先日紹介した「金と芸術」という本でも言っていた芸術の神話というやつです。あるいは、前々回書いた権威主義的な発想とも言えるかもしれません。
だから、実際にはそう簡単に、いろいろなピアノが生から電子にすぐに変わることはないでしょう。まだまだ、生ピアノ信仰は根強いと思います。安物であろうと何であろうと、電子ピアノが目の前にあるよりは安心してしまうというのが一般的な心理だと思います。
しかし実際、アマチュア合唱団の練習時に生ピアノでなければならない必然はそれほどないし(ピアニストは嫌がるでしょうが)、ましてやピアノを習いたての子供など何をかいわんやです。(などというと、最初から本物の音に触れさせるべきだ、と逆に説教されそうですが・・・それだって、本物の音って何?と言いたくなってしまう)

皆が現実的に考えられるようになるのには、まだ数十年が必要ですが、その頃までにはじわりじわりと身の回りに電子ピアノが忍び込んでいくはず。
もちろん、生ピアノは絶対なくなりません。むしろ、少量生産になっていくことで単価は高くなり、生ピアノのステータスは逆に今より上がっていくことになるのではないでしょうか。

2007年4月9日月曜日

電子ピアノはどうなるのか?

あてどもなくクラシック音楽について書いていますが、そこから派生して楽器のことなど考えてみましょう。
今、もっとも普及していて、多くの演奏人口を抱える楽器とはやはりピアノだと思います。クラシックでも、ポピュラーでも様々な音楽で使われ、学校教育で広く普及しており、そして一台だけで音楽の骨格を奏でてしまうことも可能な万能楽器。
また鍵盤をスイッチと考えると、最も機械化、電気化が容易なため、生の代用として多くの電子ピアノが作られるようになりました。昨今では、電子ピアノの性能も上がってきています。では、今後生ピアノと電子ピアノの関係はどうなると思いますか。

こんなことを考えるのも、これからの音楽を考えるのに、非常に象徴的なことだと考えるからです。
楽器は大音量化、扱いやすさ、という点を改良するために、これまで発展してきたと言えると思います。大音量化は電気拡声(つまりPA)が可能になった時点で、新しい局面を迎えました。この点については、また別の話題で書くこととして、一方で電子化は扱いやすさに貢献しています。
例えば、ピアノは大音量化のため、弦の張力アップが必要で、そのためにフレームが巨大化し、頑丈になってきました。そのため、最上級のグランドピアノなどは楽器自体が非常に大きくなっています。また、きちんとした音を鳴らすためには、調律や整音も欠かせません。
しかし、その問題は電子化によって解決可能です。乱暴に言ってしまえば、電子ピアノは鍵盤とスピーカがあれば事足りてしまうのです。だから楽器も小さくて済むので移動も簡単になります。また電子音なので音の調整も不要だし、鍵盤とスピーカがへたらない限り、メンテナンスフリーです。

もちろん、多くの人が生ピアノが電子ピアノに取って代わられるとは思っていないでしょう。
鍵盤のタッチもまだまだ生には及ばないし、そもそも生楽器の持つ豊かな響きをスピーカで再現するのはほとんど不可能だからです。どんなに技術革新しても、そうそう生と同じレベルに電子ピアノが到達するとは、正直私自身思っていません。(←開発者のくせに・・・)

ただ私は、仮に電子ピアノが生と同じレベルに達しなくても、今後10~20年くらいの間に、多くの生ピアノが電子ピアノに取って代わられるのでは、と本気で思っています。
それは、時代が変わることによって人々の価値観が変わってくるからであり、生ピアノにはない電子ピアノのアイデンティティが確立してくるからということなのですが、この続きはまた、ということで。

2007年4月6日金曜日

クラシックにおける権威主義

前回紹介した「金と芸術」によると、クラシックはハイアート、ポップスなどの大衆芸術をローアートと仮に称して、このハイアートとローアートの非対称性について語っています。
ローアート側の人は、ハイアートに対して尊敬の念を持つが、ハイアート側の人はローアート側を見下す。人々の芸術の嗜好そのものが社会的階層と密接に繋がっており、その二つの不均衡さが非対称性ということ。日本では若干、状況は違うような気もするのですが、どのような芸術を楽しむのかということが、その人の社会的地位を示す一つの尺度として機能するという要素はあるのだと思います。

実は、私がクラシック音楽で時々違和感を覚えるのは、クラシックに携わる人、あるいはマニアな方々にはびこる権威主義的な態度です。有名演奏者、オーケストラを聞きに行くためにはいくらでもお金を出して、賞賛を惜しまない。そういった態度の中には、本当に分かって言っているのかアヤしい言動もあるし、権威を利用して自分の判断を正当化しようとする魂胆が見え隠れします。
例えば、○○コンクール優勝とか、コンセルヴァトワールに留学とか、そういうのも権威として機能している重要な言葉。しかも賞賛する言葉って、音楽の具体的なことじゃなくって、豊かな響きがどうのこうのとか、力強さと繊細さを兼ね備えてどうのこうのとか、何やら抽象的で感覚的なことばっかり。

「権威が認定したスゴイもの」というのは、私たちの評価にとても影響を与えます。誰とても権威筋の判断とは無縁にものごとを判断することは出来ないのは確かなこと。
それでも、その権威を借りて知らないうちに自分の意見と同化させてしまうのって、見ていて気持ちの良いものではありません。常識知らずで恥ずかしいと思われるのも嫌だけど、もう少し自分の力で芸術の本質を見抜こうとする努力をしないといけないし、わからないことは分からないと謙虚に言うのも大切だと思うんですけどね。

��ひとつささやかな権威主義の例: モーツァルトのレクイエムで、あなたはジェスマイヤーが書いた部分は音楽的に質が低いと思いますか? もしかして、その意見はモーツァルトという権威に対する安心から起こったものだとは思えませんか?)