2005年8月30日火曜日

雇われ指揮者をするの巻

これまで私が指揮した団体は、全て仲間で立ち上げた合唱団ばかりで、いわゆる団員扱いで指揮をしているものばかりでしたが、昨日の合唱コンクール静岡県大会で、浜松ラヴィアンクールという女声合唱団の雇われ指揮者をさせていただくという体験をしました。もともと岸先生が振っている団体なのですが、この日、別の催しで先生が来れないということで、なぜか私が代役を務めることに。
本番を含め計5回の練習。かなり精鋭メンバーとは言え、女声10人というのはコンクール的には不利だし、当たり前だけど、女声合唱団の指揮って初めてなので不安はあったのですが、それでも面白そうという好奇心のほうが先に立ったのは事実。
それに、自由曲のフェルミの曲がなかなか気に入りました。曲の作りがシンプルなのだけど、決して安易ではないし、むしろ随所にシブい音の配列があります。曲調もシリアスでなく、音楽そのものの楽しさを強調した感じで、うまく歌えばかなり印象深い曲だと感じました。
大まかには岸先生の作りを踏襲したつもりですが、まあ指揮の見栄え自体が全然違うし(^^;、若干、好きにやらしてもらったので、最初は団員のかたも戸惑ったかもしれません。どうもご迷惑をかけました。
心配された結果でしたが、幸いなことに金賞・県代表になりました。とりあえず責任は果たしたかな。おまけに、個性的な演奏をした団体に贈られる中村賞を頂くなんていうオマケもつきました。

練習途中、うまく指揮できないフレーズがあったりしてあせったりもしましたが、全体的には結構楽しくやらしてもらいました。何より皆さんお上手で、私が言ったことにきっちり対応してくれたのはとても嬉しかった。こういう団体で指揮できるのはやはり気持ちいいですね。
久しぶりに女声合唱曲でも書いてみようかな・・・

2005年8月26日金曜日

クムラン/エリエット・アベカシス

qumranかなり厚めの文庫本で、読むのに随分時間がかかってしまいました。
この本、主人公が失われた死海文書の捜索を行うというのが基本的なストーリーなのだけど、ミステリー仕立てながら、ついにキリスト教の誕生の秘密にまで到達してしまうという、とんでもない小説。これを若干27歳の女性の哲学者が書いたというのも驚き。
殺人事件も起きるから、まあミステリーと言えるのだけど、どちらかと言うと途中から読者の興味は、失われた死海文書にいったい何が書かれていたのか、ということに移ってきてしまうのです。そして、どうもその失われた古文書には初期キリスト教に関することが書かれていて、死海文書研究チーム、考古学者、雑誌記者、ユダヤ教のラビ、そしてローマの信仰教理省、といった面々が、入り乱れつつその古文書の行方を追っていきます。
といっても、話自体は全然ドタバタじゃない。主人公によるユダヤ教の神秘体験とか、神学的な討論とか、クムラン、エルサレム等の地から沸き立つ霊感の描写とか、そういうことに執拗にページを費やしていて、その感覚を楽しむためにはそれなりにキリスト教、ユダヤ教の知識が必要なのも確か。そして、それゆえにキリスト教圏でこの本が結構ヒットしたというのも頷けます。
何といっても、この作者、饒舌です。ストーリーの流れよりも心理描写や風景描写に異常なほど言葉を注ぎます。途中で主人公は女性雑誌記者に対して恋愛感情を持つのですが、この恋愛感情の描写にも相当力が入っています。それにしても女性作家が、男性の恋愛感情を綿々と綴ったり、宗教的修行にとって女が邪魔であるといった内容を延々と書いたりしているのは奇妙な感じがします。よほど、客観的に世の中を見る術が身に付いているのか、それとも単に男勝りなのか・・・

後半でキリスト教の秘密がだんだん明らかになるわけですが、いくらエンターテインメントとは言え、まあ、これだけの創作をよくやってしまったものですね。場合によっては、キリスト教徒を敵に回しかねないけど、純粋な知的好奇心を満足させるには十分に練られていて(作者のユダヤ、キリスト関連の知識には非常に驚きます)、今の時代ならそれなりに許されてしまうものなのかもしれません。

聖書やキリスト教、死海文書、といったキーワードに反応するようならこの本はお奨め。単なるミステリーと勘違いして読むとかなりきついかも。

2005年8月24日水曜日

モーグ博士死去

シンセサイザーの生みの親と言われている、ロバート・A・モーグ博士が亡くなったそうです。71歳。
知る人ぞ知るムーグシンセサイザーの開発者。本人は若い頃、テルミンが元で電子楽器に興味を持ち始めたとのこと。そんなオマージュもあってか、モーグ博士の会社から今もテルミンが発売されています。(実はウチにある)
私もいちおう電子楽器開発者の端くれですから、モーグ氏の死に時代の変化を感じてしまいます。
��0年前に産声を上げたシンセサイザーは、全てアナログ回路によって作られていました。今見ると、もうツマミとケーブルのお化けという感じ。でも、音楽と機械が好きな私のような若者は、そんな大掛かりな機械に憧れたものです。私にとってムーグシンセサイザーの音と言えば冨田勲でした。いかにも電子音という音なのだけど、そこから繰り出される音楽はとても幻想的なものでした。実は、最近も「バミューダトライアングル」のCDを買いなおしたばかり。

今や電子楽器は全てデジタルだし、あんなにツマミだらけの楽器もあまりありません。
逆にパラメータは複雑化し、世のさまざまなものと同様、コンピュータ化していきました。そんな今だからこそ、まだムーグシンセサイザーに郷愁を感じている人たちもまだたくさんいます。
シンセサイザーの一時代を築いたモーグ博士は、楽器製作者として、永遠に名を残す人物となることでしょう。

2005年8月19日金曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える

大それたお題になってしまいましたが・・・

まずは、合唱で扱う詩について考えてみましょう。
このネタ、昔も何度か書いた気がします。これとか、これとか。今回はもう少し視点を変えてみましょうか。

もし、ある詩がその曲に深い印象をもたらすのだとすれば、そのために、まずその詩が、実演奏の中で聴衆に聞き取られなければなりません。これって、当たり前のことのように思えるけど、実際、とても難しいことだと思いませんか。何か、一つ邦人合唱曲を思い出してください。そして、その実演の中で、詩が聞き取れるか考えてみてください。もちろん、長い間練習してきた曲なら、詩の内容もわかっているかもしれません。でも、その曲を初めて聴く人が、一回の実演奏でその詩を聞き取れるでしょうか?
その曲が、実演奏の中で詩を聞き取ることを明らかに放棄しているような曲なら、構わないのです。それは一つの作曲のあり方だと思います。しかし、そうでないのなら、演奏側も、作曲側も、詩を聴衆に伝える努力をしなければいけません。もちろん、全ての詩を聞き取れなくてもいいかもしれませんが、この言葉だけは伝えたい、というのは作る側にも必ずあるはずです。
詩の形式から、詩の内容が聞き取れない理由を考えてみましょう。
一つは、詩の文章が長いと、メロディの中で日本語が間延びされてしまい、記憶にとどめるのが難しいということがあるでしょう。以前の談話にも書いたように、日本語は単位音符あたりの意味量が少なく、情報が冗長になりがちです。アルファベット系の言語の方が、そういう意味では分があると言えるでしょう。
もう一つは、詩が難解な言葉である場合です。これは、例えば古語であったり、非常に抽象度の高い比喩であったり、ある種のシュールな言葉の連なりであったりする場合も含みます。頭の中にすんなり入ってくる言葉でないと、人は知らず知らずのうちに言葉を拒否してしまうのです。特に音楽の中に使われる言葉は、単純で直接的なほど印象が深いものです。
と考えていくと、詩の意味が伝わるためには、詩そのものが、文章の短く、単純で直接的な言葉であることが望まれます。作曲家が詩を選ぶ権利を持っているのなら、そのことをまず深く考慮するべきでしょう。
いくらかの邦人作曲家は、上記の詩選びと逆の方向を指向しているように思えます。そして私には、そういう曲は、それゆえに面白くないのではないか、という気さえしているのです。
「文章が短く、単純で直接的な言葉」は、一見、詩の質を低く見積もられます。しかし、それはむやみに難しい言葉を礼賛するスノビズム的な発想になりかねません。どのような言葉が連なっていようと、良い詩は良い、というただそれだけのことなのに。

2005年8月15日月曜日

エンターテインメントを求めて

合唱におけるエンターテインメントの話題、微妙にホットな感じなので、調子に乗ってもう少し考えてみましょう。

たいてい合唱団の演奏会でエンターテインメントといえば、流行曲やアニメソングなどの合唱アレンジのステージといったところでしょう。もちろん、これだって構成やアレンジや演出に凝れば、質の高いエンターテインメントのステージを作ることができるはずです。まあ、たいていはそこまで出来る人材が団内にいないわけですが・・・
実際、エンターテインメント=お楽しみステージ、みたいな発想では、上のような選曲のステージをすることくらいしか思いつかないのですが、私の言いたいところのエンターテインメントというのは、もっと根本的な演奏に対する表現者の姿勢のようなものなのです。

簡単に言えば、聴衆を、すなわちお客様を、どれだけ満足させられるか、というこの一点につきます。全ての考え方をここから逆算して考えるのです。
ですから、当たり前ですが、美しい発声で歌うことも、正しいピッチで歌うこともエンターテインメントにつながります。それは聴衆に感銘を与える演奏になるからです。
そして何より大事なのは、今演奏する曲の内容を聴衆にしっかり理解してもらうことです。曲の理解なくしてお客様が楽しめるわけがないのです。その辺りをショートカットしたいという誘惑が、ポピュラーステージに繋がる訳ですね。
だから、歌い手が曲を理解していなければ、お客が理解できるわけが無いし、誰も理解できない曲なら、そもそも演奏する必要などないのです。
曲の内容を伝えるために、例えばちょっとした演出があったり、所作があったりしたって構わないのです。お客が曲を理解する補助になるのなら、どんなことでもするべきです(ちょっと前に盛り上がった字幕とか)。
先日のノルディックボイセスの現代曲も、(正直意図はわからなかったけど)演奏の演出が楽しくて、お客を十分に引きつけることに成功していました。バリバリの現代曲だって、良質なものなら多くの人が楽しめるはずなのです。それでなければ、演奏会でやる意味がない。現代曲は難解、という発想そのものが私は嫌いです。演奏する側も聞く側も理解できない音楽にどんな楽しみがあるというのでしょう。まあ、わからないことを楽しむというひねくれかたもあるのかもしれませんが。

聴衆に感銘を与える、満足してもらうためには、もちろん様々な局面があります。
ほとんどの聴衆が日頃合唱を聞いていない人ならば、今自分たちが披露しようとしている合唱曲の魅力をどのように伝えるのか、それをもっともっと考えなければなりません。それは、自分たちがさらに合唱について勉強することにもつながります。
そして、そのもっと前の段階、そもそも選曲の段階で、聴衆に楽しんでもらえる曲を選ばなければなりません。これが今のところ最も大きな問題です。聴衆まで楽しんでくれるような合唱曲が、今の邦人曲にどれだけあるのか、と思うかもしれません。でも、たくさんあるはずですよ。それを探す眼こそが、技術スタッフに求められているのです。
不肖、この私も、エンターテインメント性を求めた曲を作り続けているつもりなんですけどね・・・

2005年8月9日火曜日

郵政解散に寄せて

本来、政治ネタを書くような場所ではありませんが、たまには備忘録も兼ねて、政治のことなど書いてみようかな・・・。
昨日、郵政法案が参院で否決され、小泉首相は衆院解散に踏み切りました。
私はこの場で法案の中身について意見を言うつもりは毛頭ありません。興味があるのは、ある意見を通そうとするのに、政治家各人がどのような行動を取ったかということです。これは、ひいては我々が会社や様々な集団の中でどのような政治的活動を行うのか、あるいはどう行うべきなのか、考えるのによいきっかけになると思うのです。
もっと言えば、欧米と日本の政治風土の差、のようなものを私たちが考える良い機会とも思います。
欧米では大統領や首相の在任期間が長いし、権力も集中していて、やりたいことが十分やれるし、そのため改革もドラスティックで、その分、反対派の行動も過激です。アメリカだって、政権が民主党から共和党に変わっただけで、戦争をバンバンやっちゃう国に大変化してしまうわけです。
それに比べると、日本の政治は複雑で難しい。どんな議論だって完全に意見が一致することなどあり得ないのに、それでも集団の維持を最優先にしようとする力学が強い。だから、意見を曲げても賛成、反対することもあるし、そういった恩を売る行為によって、意見が違うものたちが持ちつ持たれつの微妙な関係を続けるのです。
こういった曖昧な関係に敢然と立ち向かったのが小泉首相でした。
それだけのことをやれる人格自体尊敬に値するのですが、こういった日本的な政治風土の中で、欧米的な政治行動を貫いたのはまさに変人といわれる所以です。いや、欧米にいたらそれが普通なのだけど、日本では変人になっちゃうんですね。

それでも、日本で生きていくためには、「変人」であり続けるわけにはいかないんです。それは、誰もが経験していることだと思います。人の意見をよく聞き、適宜そういった反対者の意見を取り入れながら、肝心なところは引かない、といった強さ、そしていったん自分の意見がマイノリティだと分かったとき、強い主張はせずに、小さな要求だけでも反映させてもらう粘り強さ、そういった政治態度が実際私たち(日本人)の生活では求められているように思います。
たまに上のような議論を収拾しようとする流れから外れるような人がいますが、そういう人は煙たがれてしまうんですね。みんなの意見をうまくまとめられる人物こそ、一般的には高度に政治能力のある人間なのです。

私たちが政治的にどう成熟していくのか、なかなかこれは難しい問題です。しかし、少なくとも、国民一人一人が選挙に行って意思表示をするという習慣を持つことが、その最低ラインの必要条件だと思えます。それは自己主張をしない日和見的な態度から脱する第一歩にもなるからです。

2005年8月4日木曜日

世界の中の日本

世界合唱の祭典で、日本の団体が演奏した曲目は、やはり民謡をベースにしたものとか、日本的な素材を元に作曲されたものが中心になりました。
しかし、よくよく考えてみると、こういった曲って、それほど日頃合唱団で歌っているわけではないんですね。むしろ、敬遠されがちと言ってもいいでしょう。実際、日本で歌われている合唱曲の多くは、現代詩人の書いた詩に、ピアノ伴奏付きのドラマチックな音楽をつけたものが主流です。しかし、そういった音楽が、このシンポジウムで紹介されないのなら、私たちが日頃楽しんでいる合唱活動は、世界の場に持っていけるものではないことを暗に仄めかしているような気がしてしまいます。

そういった二重構造にどこか釈然としないものを感じます。
確かに、日本的な素材を用いた合唱曲の方が外人ウケは良いでしょう。しかし、だからといって日本人が世界に通用するために、そういった民族系のものをやるべきだと考えるのは、むしろ逆説的に西洋史観的な立場に立っているように思えてしまいます。
欧米人が、純日本的、あるいはアジア的、アフリカ的、のようなエキゾチックなものを楽しみたいと思うのは、意識の裏に、中心に対する"周辺"と感じる気持ちがあるように思います。少なくとも合唱を含めたクラシック音楽は西洋中心に発展してきたわけですから、誰とても西洋中心史観で見てしまうのは当たりまえです。

こういった態度は例えば、西村朗氏の作曲態度に非常に顕著に思いました。彼は日本的、アジア的なものを作曲の中に取り入れることを、自身のアイデンティティとしています。しかし、そういった発想こそ西洋中心史観のたまものとも思えるのです。海外で三島由紀夫がよく読まれるのと同じ構造です。無論、芸術的価値が高いものであれば、どんなアプローチであっても最終的には構わないでしょうけど。

なんだか否定的な言い方になってしまいましたが、何が正しいのか断定するつもりはありません。
ただ、私としてはありのままの自分たちを見てもらい、そして評価してもらいたい。民謡の世界にどっぷり浸かって生活しているのならともかく、そうでないのなら、自分たちの好きな歌を歌えばいいと思います。他人が面白いと思うものを先回りして考えすぎてしまうと、その意図が透けて見えた場合、何だか居心地の悪さを感じます。
本当に自分の心から伝えたい言葉が見つかったときこそ、クールかつホットな演奏ができるのではないでしょうか。そして、そのときが本当のスタートラインになるような気がするのです。

2005年8月2日火曜日

世界合唱の祭典 ワークショップの紹介

私が聞いたワークショップは、既に紹介した鈴木雅明氏の「バッハのモテット」以外は、「日本の合唱音楽」(新実徳英/松平頼暁/中村透/西村朗)、「ラテンアメリカの合唱音楽」「アジアの合唱音楽」に行きました。
ナマの作曲家を拝みに行こう、というのが基本的な動機。だけど、ほとんど日本人相手に、講師も慣れない英語でしゃべるというのは正直厳しかったのも事実。ただ、それぞれの作曲家の人となり、考え方、方向性を知ることが出来たのは良かったと思います。
ラテンアメリカの合唱では、本国の出版状況が良くないという点について、さんざんこぼしていました。自国の作曲家が曲を書いても、アメリカに行かないと楽譜が買えないという状況らしい。そういう国もあるのですね。ブラジルの合唱曲はいずれもリズミカルな楽しさを強調したもので、アンコールで使えそうな面白い曲を皆で歌いました。
アジアの合唱では、韓国の作曲家の自作品紹介と、台湾のブヌン族の倍音唱法のレクチャーでした。倍音唱法はマジですごかったですよ。パソコンでスペクトルアナライザ(音声の周波数分析)を立ち上げて、リアルタイムにグラフを見ながら倍音を制御した声を聞かせてくれました。人間の声で高次倍音をあんなように制御できるとは驚きです。口の中の空間を舌で二つに分割したりして、特定倍音を出すのだそうです。電子楽器でレゾナンスをいじったような電子的な音が鳴っていました。でも、相当修行しないと、体得出来なさそう・・・

世界合唱の祭典 北欧マジック

コンサートの中で飛びぬけて印象が強かったのは、いずれも北欧の合唱団。
まずは、初日のオスロ室内合唱団。もう曲がいいとか悪いとか、そんな問題じゃない。音色だけで人を感動させられる、というのはとんでもないことです。本当に、ただのドミソがハモっただけで、澄み切っていて、それでいてストレートな響きのある声で、もう涙が出そうなくらい感動。ビンビンに鳴ったまま、ピアノからフォルテまで変幻自在に声がコントロールされているのです。全ての曲が一つなぎになるような、クールでシャレたステージングもまたよかった。大体ですね、皆んな背が高くてかっこいいんですよ。指揮者も長身ですらっとした(ちょっと攻撃的なイメージの)女性で、これがまたかっこいい。民謡ベースのシンプルな曲が中心だったのですが、その圧倒的な響きにもうただただ驚いていました。こんな声は、絶対日本人には無理です。正直、世界との壁を感じてしまいました。
もう一つ、面白かった団体は、同じくノルウェーのノルディックヴォイセス。ここは6人のボーカルアンサンブル。古楽から現代まで抜群のアンサンブルセンスで軽々とこなします。初日の「鳥の歌」では、もう鳥の歌声で、これでもかというくらい音楽を崩していくのに、アンサンブルの骨格が崩れないのは、もう一言プロの技としか言いようがありませんでした。土曜日に演奏した現代曲も面白かった。はっきり言って歌ではなくて、パフォーマンスに近いのだけど、彼らのプロとしての演奏魂に触れた気がしました。当然のことながら、一人一人がソリストとして活躍できるほど素晴らしい声の持ち主なのだけど、ひとたびアンサンブルになると、これが一糸乱れぬディナーミク、アゴーギグを聴かせます。この団体が根本的に持っているユーモアセンスも堪能。この芸風は、キングスシンガーズにとても近いものを感じました。
ちょっと特殊ものですが、デンマークのヴォーカルラインはマイクを使った合唱団。いわゆるヴォイパ付き。アカペラだけどなぜか30人近い人数。もちろん、一人一人がかなりの実力ですが、マイクワークも相当研究していると思いました。私自身はマイクを使った合唱の可能性というのは興味はあるのだけど、残念なのは彼らが単なるポップスのアレンジに留まっている点です。演奏した曲もミディアムテンポが多く、曲のバリエーションに乏しい感じがしました。マイクを使うからこそ、もう少しレパートリーの可能性を追求して欲しい気がします。例えばアディエマスみたいな・・・

北欧以外の演奏では、コンゴのラ・グラースとか、インドネシアのパラヒャンガン大学が、歌と踊りで楽しませてくれたのが印象的でした。人を楽しませるということをきちんと追求している姿勢は見習うべきだと思いました。

結局、私が思ったのは、日本の合唱にはエンターテインメントが足りない、ということです。アマチュア中心、コンクール中心という日本の合唱界の現実が、演奏活動をますます内輪なものに、そしてシリアスなものへと変えてしまいます。どうやったら聴衆が楽しむのか、そういう最も基本的なことを外国の合唱団から学んだような気がしました。今回の合唱の祭典がきっかけにそういう機運が日本に高まればいいのですが・・・


2005年8月1日月曜日

世界合唱の祭典 BCJに酔う

かねてから日本で一番うまい合唱団だと、私が個人的に勝手に思っているBCJが、今回の合唱の祭典に参加しました。
BCJはご存知の通り、鈴木雅明氏が指揮を務めるバッハを演奏する団体。なんと、演奏会に先立ち、指揮者である鈴木雅明氏がワークショップにてバッハのモテットの演奏に関する講義を行いました。もちろん、私はこれを聴きに行きました。ワークショップの部屋はちょっと狭くて、立ち見が出るほどの盛況でしたし、多くの方が大変興味を持って来られたことが実感できました。
何といっても、鈴木雅明氏のレクチャーは大変うまかったと思います(私が参加したワークショップの中で一番よかった)。英語が極めて堪能で、そもそも、人前でしゃべるのが大変うまい。私にとって良かったのは、それでも日本人の英語ということで(発音がわかりやすい)、かなり聞き取りも出来たこと。ま、相当、頭をつかいましたけど・・・

このワークショップの凄かったことは、BCJのトップクラスの歌い手が参加しており、生演奏付きでの曲解説になったこと。セミナーの演奏で、こんなむちゃくちゃうまい演奏聞けるなんて、誰も思ってなかったと思います。
個人的に印象に残った話としては、ドイツ語を母語にしない我々だからこそ、歌い手に質問されてもちゃんと答えられるように調べたりするので、逆に理解が深まるきっかけになる、と言っていたこと。必ずしも日本人がバッハを歌うことをハンデとは思っていないところが素晴らしい。知的なアプローチが必要だからこそ、曲や歌詞について調べざるを得ない環境にいる彼らが良い演奏をできるのだと思いました。

最後の質問コーナーで出た話も面白かった。BCJがヨーロッパで演奏会を開いた際、ほとんどのジャーナリストが絶賛してくれたそうですが、一つだけ批判があったそうです。いわく「あまりに言葉をはっきり言い過ぎている」。本人たちは、言葉をはっきり出すことに一生懸命になって練習していたのに、それが思わず批判の言葉になってしまった、というのは、ある意味、彼らの努力が報われたといえるのかもしれませんね。

そして、その夜のBCJの演奏は本当に素晴らしかった。
私がなぜ、彼らの演奏を素晴らしいと思うのか。BCJの合唱団員一人一人は、ソロでもやっていけるほどの優れた歌手です。実際彼らの何人かは曲中でソロを取っていました。しかし、ひとたび、合唱のパートの一人となると、アンサンブル重視の歌い方にきっちりと切り替え、ボリュームバランスや、パート内の揃えなどに最新の注意を払っているのがよくわかるのです。
究極の合唱には、歌い手個々人の知性がどうしても必要です。BCJはその事実をあらためて我々に突きつけているように思うのです。
もちろん、レパートリーが限られている、というのも、演奏の純度の高さの一要因ではあるでしょう。それにしても、あれだけのメンバーを揃えているこの団体は、もう日本では最高レベルの合唱団の一つであると断言できます。

世界合唱の祭典in京都に参加

7.27~8.3にかけて開催されている世界合唱の祭典(第7回世界合唱シンポジウム)の、前期日程に参加してきました。今日日曜日がちょうど折り返しで、月曜日からまだ三日間、合唱漬けの日々は続きますが、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。
それにしても、前期だけでも、超濃かった。一つ一つの演奏が本当に興味深くて、毎日毎日が感動の日々です。少し言い過ぎのように思われるかもしれないけど、これは参加者みんなの実感ではないでしょうか。前期だけでも、ガラコンサートを含め、計7回のコンサート。どのステージも印象的だったけど、あまりに多すぎてどんどん前の演奏の印象が薄れていってしまいます。それはそれで贅沢な悩みという感じ。
ワークショップもいろいろ刺激になりました。全部英語というのは確かにきつかったけど、分かりにくさは自分の聞き取りレベルの低さだけの問題だけではなかったように思います。それでも、それぞれの講師が工夫を凝らし、講義だけでなく演奏、映像などを使ってやってくれたので、話の流れくらいは皆つかめたのではないでしょうか。

ワークショップとオープンシンギングの会場は京都国際会館、コンサートは京都コンサートホールで行われました。ちょっと奇妙だったのが、ワークショップとコンサートの合い間の度に、地下鉄に乗る民族大移動が行われること。近場に住んでいる方にはいい迷惑だったかもしれません。日本人だけでなくて、外国人も含めて、みんな首から名札をぶらさげて、地下鉄の改札口から大勢で移動するのは妙な風景でした。
京都コンサートホールは初めて行きましたが、素晴らしいホールですね。合唱の良さを十二分に発揮できる場所だと思います。こんなホールで、世界中の一線級の演奏を聞けたことは本当に幸せなことでした。

さすがに一週間、会社を休みのは厳しいので、私は前半のみの参加としました。そんなわけですので、前半の内容の印象深かったものについて、何回かにわたって紹介したいと思います。