北野武監督モノの映画は、実は今まで全然観たことが無かったのですが、今回は「売れない(自称)芸術家」の話ということで、身につまされる思いでついつい見に行ってしまいました。
ただ、ここで書く内容としてはめずらしく批判的です。
シリアスともギャグともつかない表現は、ビートたけしの漫才にも通じる世界を感じて今ひとつ感心せず(作中の絵と、ビートたけしの顔のペインティングと感性が通じていたり)。今回は主人公の画家を少年、青年、中年と三人の役者が演じているのだけど、その三つの繋がりにも違和感があります。
個人的には青年のエピソードが最も(自分には)痛々しくて、興味深かったのですが、少年、中年の部は今ひとつ。
特に少年時のストーリーは富豪のお坊ちゃまからいじわるな叔父の元で暮らすはめになる転落人生を描いているのだけど、その表現が全体的にチープに感じてしまいました。出てくるキャラがいかにも、という感じで逆にリアリティを感じないというか・・・。このようなありがちな設定にするのなら、少年期はもっと尺を縮めてしまった方がバランスが取れるような気がします。
青年期は芸術仲間との思索の日々が描かれているのだけれど、やっていることの真剣さとバカバカしさの対比がうまく、そこから生じる悲劇と仲間に生じる精神的衝撃の表現がグサリときます。
ところが、中年で監督自身が主人公を演ずるようになると、話がだいぶふざけ始めます。それまで芸術一途だった人生だったはずなのに、画商の一言に影響を受けすぎるのはおかしいでしょう。自分を信じる気持ちがあるからこそ、その年まで売れない芸術に身を投じてきたはずなのですから。
北野監督の映画が特にヨーロッパで人気の高い理由の一つとして、死の表現方法というのがあるのだと思います。確かに、人の死に対して日本の映画は優しすぎて、そこに生温さを感じることは確か。アメリカ映画でさえ、情を抜きにして死を語ることは難しいのです。
それに比べると、ヨーロッパ映画の方が、あるいはヨーロッパの芸術全般が、表現の一つの極致として倫理の一線を踏み越えようとするベクトルが強いように感じます。
そういう意味では北野武の死の表現は、情を廃した上で、徹底的に死を記号化しているように感じました。今回の映画では、芸術に身を捧げるあまり、陰惨な場も、死体でさえも、デッサンの対象になるという倫理規範の危うさを表現しています。なるほど、こういう表現は(目を背ける人は多いけれども)独特の感性を感じて感心しました。
死の記号化、という点では、邦画では中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」なんかを思い出しました。
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