人類が発展していくにつれて、近代戦争における兵器の凶暴化、環境破壊などに、人々が大いに不安を感じているのは確かなことでしょう。毎日のようにテレビで放送される世界各地の紛争、また自然破壊による災害などは私たちに不安を与えます。多くの人たちが、こういった現実に対して、技術の進歩や文明の発展が正しかったのか、疑問を持ち始めています。もちろん、その一方でさらに便利を求めて新しい技術を発展させようとする流れもあるわけで、私たちの社会はいろいろな矛盾を孕みながらも、進歩を止めることがありません。
その一つの反動として、素朴な古代社会に憧れを抱くという気持ちもあると思います。事実、私自身も、まだ国家さえなかったような大昔の質素な生活に一つのユートピアを描いていたのは確かです。その頃には、ちょっとした小競り合いはあったかもしれないけど、大量に人を殺すようなこともなかっただろうし、ましてや環境が破壊されるなどということもなかっただろうと私たちは想像します。
「最近面白かったこと」にも紹介した、ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」及び「人間はどこまでチンパンジーか?」を読んで、実はそういった単純な古代への憧れの気持ちを、若干修正すべきだと考えるようになりました。
自然界は実際、血も涙もない激烈な戦場なのです。チンパンジーさえ、隣のテリトリーの集団を一匹ずつ襲って壊滅させるというような行動を取るそうです。その他の動物を見ても、同種の動物の殺し合いは非常にたくさんの事例があります。例えば、未開の原住民(アフリカやニューギニアなど)の暮らしにおいても、各集団同士の争いはかなり熾烈で、場合によっては完全に他の集落を滅ぼして(皆殺しにして)しまうようなこともあります。
もちろんこれらの事例は、数少ない食料を奪い合う熾烈な環境だからこそ起こりうるのかもしれませんが、何百万年もかかって作り上げられた人間の精神活動における遺伝子には、(自分を守ってくれるような)身内に優しく、自分たち以外の集団に敵対心を持つ、そういったプログラムがされているような気がしてなりません。少なくとも、「利己的な遺伝子」に書かれているように、同種の動物に対して殺しあうことを抑制するような、種の保存的な考え方は持ち合わせてはいないことは確かです。
環境においても、例えば、人間が移り住んだ多くの大陸や島で、たくさんの種類の動物が絶滅したことがわかっています。アメリカ大陸には1万数千年前にベーリング海峡を渡って人類が移り住んだといわれていますが、人類はその大陸にいた大型哺乳類を乱獲し、すごい勢いで人口を増やしながら、わずか千年くらいで人類は南アメリカの最南端まで達し、その時点で、アメリカ大陸にいた大型哺乳類はほぼ姿を消したと言われています。その他の小さな島々も同様です。
ユーラシア大陸では、乱獲して大型哺乳類が絶滅する前に、家畜として育てることが発明され、自分たちの食料を支える手段として牧畜が発展しました。これが、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の文化発展の差に大きくつながったということです。
しかし、このようにある動物種が絶滅していくことは、地球の歴史の中で何度も起こっていることです。数万年前の人間に、地球環境のことなど考える余裕さえなかったでしょう(もっとも現代の人間と同じくらいの知性はすでに持っていたはずですが)。環境破壊と自然界の生存競争は表裏一体を成していて、一体どこからが環境破壊なのか私には明確に線引きをすることが出来ません。
現在の多くの人々は日々食べていくために苦労するようなことはなくなりました。そのような環境になって初めて、平和を求めたり、環境破壊を憂うようになったのかもしれません。ある動物種が、このようなことを考え行動するようになったこと、それ自体ある意味驚くべきことです。平穏な日々や自然との共生を求めて古代的世界を羨むのは、せいぜいファンタジーに酔いしれる程度の趣味でしかないと最近は思います。もちろん、そのファンタジー自体魅力的ではありますが、意外と今の私たちも捨てたもんではないな、とちょっとばかり楽観的に感じたりしています。
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