いろいろと楽譜から何を読み取るのか書いてきましたが、具体例に乏しく今ひとつ説得感が無かったようで心配しています。私としては、音楽の非常に基本的な面について書いたつもりで、実際には今まで言ってきたことから外れることだってたくさんあるはずです。
そんなわけで、今回は具体的な作品を挙げて、楽譜の中で暗示されている意味を「読んで」みようと思います。曲は今流行りの千原英喜作曲「おらしょ」の第二楽章。実は、ある団体で私も今歌っているところです。この曲、知らない人はゴメンなさい。
まあ、読むといっても、こと細かくアナリーゼしようというわけではありません。今回は、楽譜の書き方からにじみ出る作曲家の気持ちを、演奏側が考えるきっかけになれば良いと思っています。
まずは、全体的なこととして、スラーの書法について。声楽でスラーを使う場合、大まかに分けて、旋律のレガートを指定する場合と、同一母音の音のレガートを指定する場合があると思います。一般的には後者のみの使い方をする作曲家が多いと感じますが、千原氏は両方の意味でスラーを使っています。そのおかげで、楽譜はスラーだらけとなり、場所によっては2重、3重にスラーがかけられます。従って、スラーを見る際、どちらの意味かをまず認識する必要があります。旋律に対する指定なら、ブレスのタイミングもこのスラーより考えることができるでしょう。
練習番号1,2の部分。アーティキュレーション記号が非常に饒舌となります。ここから何を読み取るかは人それぞれだと思いますが、「おらしょ」全体を通してみれば、民謡調(日本風)の歌いまわしにアーティキュレーションが多そうです。楽譜ではなかなか伝わりにくい民謡調の歌い方を千原氏なりになんとか懸命に伝えようとしている感じがします。そういう意味では、日本風の民謡メロディは、やはり西洋風に洗練された歌いまわしにして欲しくない意思をちょっと感じます。
練習番号2では、音価においてもそういったこだわりが見えます。付点音符と3連音符の混在があるのです。もちろん、この細かい音価の指定に対して、きっちりと音価どおりに歌おうと指示するのは野暮な方法で、ここに隠される民謡調の歌いまわしを理解することがまず大事でしょう。
練習番号7以降は、この曲のハイライトとも言える語り調の部分です。日本語の語り調の合唱曲は、これまでもいろいろな作曲家がトライしてきましたが、こういう部分を持つ合唱曲がここまで有名になったのはこの曲が初めてのような気がします。
ここでは、ビートの基本単位が8分音符(場所によっては16分音符)になります。そのため、楽譜全体が黒々となり、多くの歌い手がまず最初に「えー、何これー」みたいな反応をすることでしょう。作曲家としては、もちろん、この部分の音価を全て2倍にして書くことも可能だったでしょう。その方が、譜読みは断然早くなります。それでも、敢えて楽譜が読みづらくなるような、音価の細かさで書いたのか、その意味を考える必要があります。私としては、音価の細かさがある種の切迫感を感じさせ、語り口調をなお促進させる効果を感じます。一般的に語りの雰囲気を出したい場合、作曲家は音価を細かく書くことが多いはずです。
この部分、まさに千原節の真骨頂とも言えるかもしれません。和声感よりも旋律でぐいぐい音楽が進められ、一見ユニゾンに見えながらオクターブ関係の違いで旋律のバリエーションを作ります。男声、女声で旋律は交互に歌われ、高声、低声同士は共に同じ旋律であることが多く、各歌手の分担は変わりながらも音楽全体の太いラインは一本通っています。こういった書法が、声部を増やして響きのバリエーションを増やそうとしてしまう他の作曲家へのアンチテーゼとも思え、千原氏を特徴付けています。
この語り口調が淡白にならないように、いろいろな工夫がされています。この中で、アクセント、スラーが付けられた語句があり、ここをどのように歌うか、考える必要が出てきます。また、5拍子になってからの後半の盛り上がりは単純のように見えながら良く計算されて書かれていて日本語の力をうまく生かしていると感じます。
もう一つ、どうでもいいことですが、練習番号7の男声「てんちをつくりたまいて」と練習番号10の同じところ、3拍目がちょっと違います。浄書屋あるいは作曲家のミスのようにも思えますが(私の楽譜は第1版第3刷)、どちらが正しいとも言えないので、今は取りあえず楽譜どおり歌っています。
練習番号14も少し面白い。というのは、拍子、小節、休符、音価などの表記が急にルネサンス風に変わるのです("forte", "piano"などと書くのも芸が細かい)。ポリフォニーを意識しているように思えますが、その割には主題以外のパートがすぐホモフォニックになり、音楽的な意味でルネサンス風を模倣しているようにはあまり思えません。大体、語り調から流れてきた音楽のクライマックスを受けていて、実際には非常に劇的な部分でもあるのです。しかし、最後のAmenはちょっとばかり中世を感じさせる音使いがされています。この部分の作曲家のこだわりをどう演奏に反映させるかはいろいろな考えがあると思いますが、私には作曲家のちょっとしたお遊びにも感じられ、それほど深読みをする必要はないようにも思えます。
千原氏の音楽の面白さは、音そのものの多様さというより、楽譜表記の多様さという側面があるように感じます。それはテキスト重視の音楽作りとうまくリンクし、演奏者側に考える余地を残させます。つまり、楽譜表記においてその表記の物理的側面よりも、そう書いた作曲家の意思を読み取ることがことさらに重要であり、それがこの作品を歌う楽しみの一つにもなっているように私は感じます。
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