2026年7月6日月曜日

お金を必要としない究極の資本主義

資本主義は「距離のコスト」の上に成り立っていた

資本主義という仕組みを振り返ると、そこには一つの静かな前提があった。A地点からB地点へ何かを運ぶには、時間もエネルギーもコストもかかる、という前提である。

この前提があったからこそ、地域ごとに固有の市場が成立した。遠くから運ばれてきた珍しいものは高値で取引され、近場のものは安く手に入った。適切な距離があるからこそ、適正なコストがのっかかり、経済は空間的に多様な姿を持つことができた。

経済学の中にも、この直感を支える理論の系譜がある。アダム・スミスは「分業は市場の広さによって制約される」と説き、フォン・チューネンは輸送コストに応じて土地利用が同心円状に決まるモデルを描いた。新経済地理学は輸送コストを「氷山コスト」として定式化し、集積と分散のバランスを説明しようとした。歴史家ブローデルは、遠隔地交易における貴重品の高値取引こそが資本主義の初期形態を支えていたと論じている。

距離コストの消滅が招いた寡占

しかし現代、この前提そのものが崩れつつある。インターネットと物流技術の発達によって、距離のコストは限りなくゼロへと近づいた。

その結果何が起きたか。かつてある街の特定の業種が競争の末に4つか5つの企業に収斂していったのと同じ現象が、世界規模で起きた。距離コストが消えれば消えるほど、市場競争は皮肉にも「勝者総取り」の様相を強め、少数の巨大企業が世界を独占するようになる。

シュンペーターは「創造的破壊」で資本主義の活力を礼賛した張本人でありながら、後年『資本主義・社会主義・民主主義』の中で、資本主義が成功すればするほど企業は巨大化・官僚化し、起業家精神という本来のダイナミズムを失っていくという、皮肉な予言をしていた。ネットワーク効果や「スーパースター企業」の研究も、同じ現象を別の角度から裏付けている。

これは、資本主義が自らの成功によって内側から空洞化していく過程なのかもしれない。

規制で解決できるのか

市場競争には規制が必要だ、というのが一つの答えである。しかし規制は必ず既得権益を生み、規制主体が常に清廉であることを期待するのには無理がある。

規制自体を市場化できないか、という発想は魅力的に映る。複数の監視会社が競争し合う社会。しかし、これは既に一度、歴史によって試され、失敗している。2008年の金融危機で明らかになったのは、格付け機関という「民間の監視者」が、発行体から手数料を得るビジネスモデルの下で、甘い評価を競い合う「底辺への競争」に陥ったという事実だった。監視を市場化しても、それが「誰が監視会社に金を払うか」という設計を誤れば、質の向上どころか劣化を招く。

貨幣そのものをなくすという思考実験

ここで一つの大胆な思考実験が生まれる。お金自体をなくしてしまえばどうか。お金がなければ法人もなくなり、人々は取引のたびに互いを評価し合う。これは一見、資本主義の否定のようでいて、実は個人にとっての究極の資本主義だと言えるかもしれない。すべての取引責任が、法人という盾を失った個人の身体と人格に直接紐づくことになるからだ。

同時に、貨幣が消えれば、距離コストは個人の肉体に束縛される形で、かえって増大するはずである。社会学者ジンメルが『貨幣の哲学』で論じたように、貨幣とは元来、人間関係を人格性から解放し、見知らぬ他人との取引を可能にする装置だった。それを取り払えば、取引は再び「相手が誰か」という人格的な信頼関係に縛られることになる。

ローカルへの回帰か、それとも新しい地平か

歴史的に見れば、貨幣以前の贈与経済は常に「顔の見える範囲」でしか機能しなかった。人類学者モースが描いた贈与のシステムは、部族や村落という限定された共同体の中でのみ成立するものだった。

しかし私たちは、何百年も前の、世界がどうなっているか知らない状態にはもう戻れない。インターネットという、街や村を超えて人とつながる手段を既に手にしているからだ。だとすれば、貨幣なき評価経済は、原始時代のような閉じたローカル経済への回帰ではなく、地理的制約を超えた人格的ネットワークとして立ち現れる可能性がある。

とはいえ、ここには認知的な壁もある。人類学者ダンバーが示した「ダンバー数」は、人間が実感を伴って信頼関係を維持できる人数がおよそ150人程度だと教えてくれる。SNSで数万人とつながっていても、その一人ひとりを人格として評価することはできない。結局、評価経済がグローバルに機能するには、レビューやスコアといった「人格性の代理指標」に頼らざるを得なくなる。これは皮肉にも、貨幣が果たしていた「抽象化による接続」という機能を、別の形で反復してしまうことを意味する。

職業の貴賤という副作用

貨幣には、もう一つの副作用がある。単一の金銭的物差しがあらゆる労働を序列化してしまい、結果として職業に貴賤が生まれる。ヴェブレンが『有閑階級の理論』で描いたように、労働そのものの価値ではなく、労働からどれだけ距離を置けるかが名誉の指標になってしまう。

評価経済への移行は、この貴賤を解消する可能性を持つ一方、別の危うさも抱えている。貨幣という「非人格的だが平等な物差し」を失えば、貴賤は「誰と付き合っているか」「どんな評判ネットワークに属しているか」という、より人格的で逃れにくい形に置き換わるかもしれない。評判の中心にいる者が、新たな既得権益者になるおそれは常につきまとう。

既得権益を消すためのメタルール

ここで根本に立ち返る必要がある。評価基準を作る組織や人が永続的に存在してはならない。そうでなければ、貨幣なき世界はただの暗黒中世に逆戻りしてしまう。

理論的に厳密であろうとすれば、「恒久的な権威を許さない」というメタルール自体を誰がどう担保するのか、という問いに行き着く。これは社会選択理論の根源的な壁に触れる話であり、完全な解決は望めない。しかし、その厳密性にこだわりすぎることもまた、現実からの遊離を招く。

現実的な手がかりはいくつかある。ハーシュマンが論じた「離脱(Exit)」の概念——制度の内部から声を上げるのではなく、単にその制度から抜けて別の選択肢に移るという行動様式——は、ブロックチェーンのフォークという形で既に技術的に実装されている。ワイルとポズナーの『ラディカル・マーケッツ』が提案する自己申告課税の仕組みも、資産や地位を常に市場で再評価させ続け、固定化を防ぐ発想として参考になる。

ただしDAOの実験が示す通り、権威を分散・市場化しても、資本や情報の非対称性がある限り、新しい形の集中(プルート化)は再発しうる。課題は「恒久的な組織を作らないこと」自体ではなく、「離脱のコストを恒久的に低く保ち続けるための、さらにメタなルール」をどう設計するかにある。

何十年もかけた移行という現実解

お金を突然使えなくすることは不可能である。もし本当にこの構想を進めるのなら、それは何十年もかけた緩やかな移行になるだろう。その過程では、評価と貨幣がバランスを取りながら併存する時期が長く続くはずだ。

歴史家ポラニーの「二重運動」——市場の拡大が行き過ぎると、それに対抗する形で社会的な仕組みが再生するという振り子運動——は、この移行を捉える枠組みとして有効である。制度経済学者ノースが論じたように、制度は革命的な断絶によってではなく、既存の仕組みの上に新しい仕組みが重なる形でゆっくりと変化していく。実際、贈与経済・信用取引・地域通貨・国家貨幣は、歴史上ずっと重層的に併存してきた。

どこから評価経済は始まるのか

では、どの領域から評価経済への移行が自然に進むのか。医療、介護、地域交通、地域の食材——これらは有力な候補になる。

これらに共通するのは、経済学でいう「信用財」という性質である。サービスを受けた後ですら、その質を消費者が正確に評価できない財のことだ。価格だけでは質を担保できず、継続的な関係の中で蓄積される信頼こそが唯一の質の担保になる。そして何より、これらはいずれも物理的な身体や場所に紐づいており、そもそもグローバルに流通できない。距離コストが消えない分野だからこそ、貨幣的な規模の経済が働きにくく、評価経済への移行が自然に進みやすいのである。

オランダの地域看護組織ビュートゾルツや、生産者の顔が見える産直市場は、この移行の先行例として既に存在している。

開放性という進化的な解

しかし、地域に根ざした評価経済には一つの罠がある。参入障壁が生まれ、地縁社会が閉鎖的になりやすいという罠だ。

だが、ここに希望がある。閉鎖的でコテコテの地縁社会は、マクロ的には地域間競争に負けていく。他者に優しいことも、その地域にいる人たちの評価の一部になるからだ。

経済学者ティブーが示した「足による投票」理論は、人々が自分に合った地域を選んで移住することで、自治体同士が競争せざるを得なくなることを説明する。社会学者パットナムの研究は、閉鎖的な「結束型」の社会関係資本よりも、異質な他者ともつながる「橋渡し型」の社会関係資本のほうが、経済的な繁栄をもたらすことを示している。進化ゲーム理論における「間接互恵性」の数理モデルは、中央の権威なしに、評判システムそのものが開放性や親切さを競争優位として自然選択的に選び出すことを裏付けている。

これは、私たちが求めていた「永続的な権威に頼らない自己修正メカニズム」の、最も説得力のある具体例かもしれない。閉鎖的な地域に対する「離脱」——人々がそこから出ていくという行為そのもの——が、地域的既得権益を破壊する自然な圧力になるのである。

移動の自由と、その代償

私たちには移動の自由がある。しかし移動すればするほど、積み上げてきた信用はリセットされる。よほどの名声がない限り、これは個人にとって不利益でもある。

この不利益は、しかし欠陥ではない。労働経済学でいう「組織特殊的人的資本」——ある場所でしか通用しない評判やスキル——が移動によって失われるのは、当然の摩擦である。この摩擦こそが、評判システム全体の信頼性を担保している。もし移動が完全に無コストなら、悪評が立つたびに次の場所へ逃げることができてしまい、評判の抑止力そのものが崩壊してしまうからだ。

重要なのは、これは誰かが設計した罰則ではなく、情報の非対称性という自然な条件から生まれる摩擦だという点である。規制担当者が「移動する者に罰を与えよ」と決めているわけではない。

経年劣化しない評価と、経年劣化する評価

すべての評価が同じように失われるわけではない。学位や資格といったスキルセットは、経年劣化しない、持ち運び可能な評価である。一方、地域での評判は時間をかけて形成され、場所を離れれば減衰していく評価である。

この二層構造は、労働経済学でいう「一般的人的資本」と「特殊的人的資本」の区分にちょうど対応する。持ち運べる客観的な資格が移動の際の最低限の信用の下駄として機能し、その上に、地域ごとの評判が時間をかけて積み上がっていく。この二階建ての構造があれば、移動によるリセットの痛みもある程度は緩和されるだろう。

結び

距離のコストの上に成り立っていた資本主義は、その距離のコストが消えたことで、皮肉にも少数の巨大企業による寡占という形で自らを掘り崩しつつあるのかもしれない。だとすれば、貨幣という単一の物差しを手放し、多元的な評価によって取引を行う社会は、資本主義の終わりではなく、資本主義がもう一度、個人の身体と人格の上に立ち戻る姿だと言えるかもしれない。

そこに必要なのは、評価基準を独占する恒久的な権威ではない。移動の自由と、その代償を引き受ける個人と、開放性そのものを競争優位として選び出す進化的な圧力である。規制担当者は最小限でいい。摩擦を人為的に消そうとせず、そのまま受け入れること。それこそが、お金を必要としない究極の資本主義への、最も現実的な道筋なのではないだろうか。

2022年4月16日土曜日

マウントからの逃走とリバタリアニズム

 日々のもやもや、面倒なことのほとんどの原因は人間関係であり、またその人間関係の問題のほとんどは、相手より自分が高い立場でいたいと思うマウント取りに発していると思う。

これは性格的なものとしか言いようがないけれど、常に周りの人をディスることによって自分を高い立場に置きたいと思うタイプの人がいる。これは本当にイラっとするが、大抵の場合、そういう人は声が大きく、戦闘力が高い。もちろん、だからこそ、そういう性格になるのだろう。

常に逆接の言葉で他人の言葉をさえぎる人がいる。上記のようなタイプの人の一つの典型だ。ただ話すだけでイラッとするが、実は自分自身にも思い当たる節があるし、人のことは言えない部分は誰にでもある。

多くの人は、たくさんの経験の中でそういう振る舞いの愚かさに気づき、だんだんと態度を改めていく。生まれつき戦闘力の高い人が、そういう紳士的な振る舞いを身につけると、最強のリーダーになっていく。

しかし、そのような学習能力の低い人は、ただの嫌がられる人になっていく。

たまに、そういった態度を全く学習できないまま、言語能力だけが磨かれて、どこにいても最強のオピニオンリーダーになってしまうサイコな人もいる。憎まれっ子世に憚る的なリーダーとなり、場合によっては恐怖政治を実現する。


しかし、一方でSNSの発達でそのような人たちは簡単に可視化されやすくなった。

女性は常に、男性からのマウント取りに苛まれ、ときには性的搾取を受ける場合もある。しかし、SNSで過去の被害をカミングアウトすることで、逆に相手の社会的地位を剥奪する手段を手に入れた。もちろん、いつでもうまくいくわけではないけれど。


こういったSNSでの、マウント取りするやな奴の可視化は、それが拡散されることで、人々にそれが自分が抱えている問題だけではない安心感をもたらす。そして、その体験の克服は結局のところ、その環境から離脱したという当たり前の結論であったことを知るだろう。

多くの人は、今の環境から逃れられないと何となく思考停止しているのだが、実はいつでも嫌な環境から逃げられるという単純な事実に意外と人は思い至らない。

しかし我々はもっともっと嫌なことから逃げていいと思う。

私がそう思うだけでなく、現実に社会はどんどんそういう流れになっていっているとも思う。

職場が嫌なら会社を辞めて転職すればいい。

近所が嫌なら、引っ越しすればいい。

もちろん、それが出来ない理由はまだたくさんあるけれど、未来はもっともっとその理由は減っていくのではないだろうか。


社会や組織の設計の方法には二通りある。

一つは規律、ルールで人を縛る方法。

もう一つは快楽で人を惹きつける方法。

ほとんどの人は1番目の方法のみが、人を組織化する唯一の方法だと思っている。もちろん後者より効率的に、即効的に人を束縛し、統制することができる。

しかし、市場による競争原理は、むしろ後者の可能性を開拓してきた。特に昨今のIT化によるもろもろのサービスや、組織のパフォーマンスをDXによって可視化する流れは、人の意識や行動を統計的に処理することにつながり、それはつまるところ、人々の欲望の総計が見えることにつながった。

つまりサービス設計をきちんとすることで、人々の欲望を刺激し、人の行動を制御することは少しずつ実現しつつある。それを怖いと思う人もいるけれど。


人々が嫌なことから逃げる、ことは、欲望の現れの一つだ。

欲望とは、欲しいものを手に入れて楽しむことだけではなく、自分の嫌なことを遠ざけることでもある。その一方、規律やルールで人を縛ることは、嫌なことから逃げられずに束縛するための手段であり、結果的には人を幸せにはしない。

ある政治家が「最小不幸社会」と言って非難を浴びたが、私はその政治家の好き嫌いはともかく、全く言い得て妙だと思う。

私的な企業は人々の欲望を刺激するものを作り続ければいいが、政府の役割はむしろ、嫌なことから逃げられる社会を作ることにあるのではないだろうか。

規律を最低限にし、嫌なことから誰でもいつでも逃げることが出来る、完全市場社会こそ、これから我々が目指すべき社会だと思う。まさにリバタリアニズムだ。


もう少し、スコープを狭めて考えれば、他人にマウントを取って他者を不快にしてもその人が生きられる社会とは、人が組織から逃げられないという前提があるからに他ならない。

嫌な人間から人々が去っていけば、そのような人が活躍できる場は無くなる。

そうやって嫌な人が駆逐されていくことは、健全な人間関係における市場主義の実現であるように思う。


2021年6月6日日曜日

静的な音楽、動的な音楽

 ちょっと前に「演奏に参加する音楽」というタイトルで文章を書いたけれども、似たようなことをもうちょっと別の視点で言うことが出来そうな気がする。

表現はもう少し変えたほうが良いかもしれないけど、タイトル通り「静的な音楽」「動的な音楽」という分類。

静的とは、すでにオーディオに録音されてしまい、ひたすら再生するしかできない音楽。

準静的な音楽としては、楽譜通りに書かれた音を生演奏する、という場合も含まれる。

それに比べて、動的とはその場で生成されて、二度と同じ音が鳴らない、その場限りの音楽。既存の音楽で言えば即興、インプロビゼーションに近い。


なんだけど、動的な音楽がいわゆる即興だけかと言うと、そうではなくなるかもしれないと言う話。

例えば、テレワークでバックミュージックをかけるとする。

知っている曲だとかえって気が散ってしまう。だから、あまり聞いたことがないけれど、それほど気持ちに引っかからない環境音楽的なモノを聴きたくなる。

その割には、暗めの曲、明るめの曲、アコースティック、ダンスミュージック、などなど、人によっては好みはあるはず。

これらの変化する聞き手の好みに合わせて、その場その場で最適な音楽が選択される。それは単純に既存の音楽から選ばれるというよりは、むしろ、その場で音楽自体が生成されるほうが好ましい場合もある。


普通に、音楽を再生しているのに、即興演奏でもないのに、その場でリアルタイムに生成されている音楽、というものがこれから現れるのではないかと思う。

個々の人生は、個々の人々にとって唯一のドラマだ。

そのドラマには、個々のバックミュージックがいつも鳴っている。それは借り物ではない、自分だけのオリジナルな音楽だ。それは常に、私たちの気持ちに寄り添い、最適なフィーリングのものが生成されるべきだ。だからこそ、より自分を主人公とした、自分だけのドラマだと感じることができる。

むしろ、ここで大事なのは音楽そのものというより、生成アルゴリズムであり、未来の音楽家の役割は音符を書いて演奏するだけでなく、アルゴリズムや音色をセットにした自動生成システムを提供することになるかもしれない。

いや、それはすごい確信を持ってそうなるような気がしている。


2021年5月16日日曜日

未来のマインドセット

 未来予測というよりは、未来のマインドセットの予測。


例えば、著作権。

今は過剰な権利意識が浸透しすぎて、そもそも著作権が何を守っていたのか、良くわからなくなっている現状。

本来であれば、売れるはずのものがコピーで鑑賞する人が増え、売れなくなってしまうのがI番の問題なのに、自分の著作物にほんの少しでも他人のものが載るだけで、著作権違反などというのはバカバカしいにもほどがある。これが一体、誰の経済的損失を引き起こしているのか?

この傾向はしばらく変わらないとしても、実際のコンテンツ販売の現場がサブスクになり始めたり、恐らく寄付的なものに変わっていくので、クリエータやアーティストは、作品から直接収入を得なくても良くなり、そうなると著作権という概念自体が無くなっていくだろう。

ただ、これにはもう20年は最低かかりそう。


リアルとバーチャル、モノとサービスについて。

会わないと出来ないことがどんどん減っていくはず。少なくとも今は会議は、それなりに出来るようになった。体験もだんだんネットの情報量が増えれば、バーチャルで良くなるものは増える。むしろバーチャルの方が、質の高い体験を得られる。

リアルとバーチャルの違いは、そこからすぐにExit出来るかどうか、なのだと思う。体験の中身というより、そこからすぐに出られる気楽さは、常に人をエンターテインし続ける必要に迫られる。

リアルにそこにいれば、人は簡単にそこから脱することは出来ないから、多少の我慢を強いることができる。だからリアルな体験はこれからも無くならないし、リアルならではの良さは今後、逆にさらに開発されると思う。

そして、PCやスマホがどんどん置き換えていくモノの世界も、モノでなければいけないモノ、PCやスマホアプリで良いモノ、の仕分けが進んでいくだろう。今とは思いもよらぬものが、専用化しまたその逆も起こる。

どちらかというとPCやスマホはどんどんバーチャル化し、SF的なホログラフみたいなものになっていくのかもしれない。ヘッドフォン、マイク、メガネ、指先などがどのようにクラウドに繋がるかは考えてみると面白そう。

いずれにしても、未来のマインドセットは、モノに対する執着がどんどん減っていく。お金持ちになったら、アレが欲しい、コレが欲しい、と思うのは今は普通のことだけれど、おそらく未来はそう考えないだろう。というか、モノを買わないのならお金に執着が無くなってるのかもしれない。

このマインドセットの変化は大きい。


自分の人生の豊かさは、結局のところ自分の能力、スキル、そしてその結果である地位や資格に依存することがどんどん明確になり、ある意味、それは身も蓋もない世界であり、底辺から抜け出す難しさが誰にでも明白である社会であると言える。


SDGsが誰も取り残されない、と言っているけれど、恐らく、分断はどんどん激しくなるのだろう。賢い人は同じ場所にどんどん集まるから、分断のスピードはますます早くなる。

今はそれを避けることが正しいこととされるが、いつの間にか、その分断は正当化されるようになるような気がする。でなければ、人類は進化していくことができないから。

しかし、そのとき我々が獲得するであろうマインドセットは、ちょっと怖いような気もする。


2021年5月4日火曜日

演奏に参加する音楽

 音楽を楽しむには、作曲、演奏、鑑賞という三つの局面がある。

また鑑賞の中にも、座って聞くだけ、何かしながらヘッドフォンで聞く、音楽に合わせて踊る、といった違いがあるだろうし、演奏でも、練習を重ねて演奏会を開く場合、歌いながら仕事をする、歌いながら祈る、といった違いもあるだろう。

そういう意味では、音楽の楽しみ方は、作曲、演奏、鑑賞に明確な区切れ目があるというわけでもなく、限りなく中間に近い楽しみ方も存在する。


もちろん、音楽を鑑賞する側から、演奏したり作曲したりする側に向かうにはそれなりの訓練や、学習が必要である。それゆえに、人口比で言えば、圧倒的に鑑賞する側にいる人が多かったのがこれまでの状況だ。

人が獲得できるスキルや知識のレベル、または楽器を変えるだけの経済的余裕、楽器を置く場所が確保できる居住スペース、など、過去ほとんどの人類の歴史においては音楽活動を続けるためのハードルも高かった。

例えばレコードが生まれる前は、音を記録することも出来ず、音楽は常に一過性のものだった。演奏家は今の我々にとっての音楽再生装置と同じ立ち位置にいた。多分、今の音楽家よりも演奏の機会は多かったかもしれないし、演奏家の役割ももっと機械的なものだったかもしれない。

当時は、全ての音楽は生音楽で、その場でのみ共有される体験だったのだ。


ところが、レコード発明以降、そのバランスは崩れた。

しばらくオーディオセットは高価なものだったが、今では誰でも安価なヘッドフォンステレオで音楽を聞くことができる。それはコンサートに行くよりも、圧倒的に低コストだし、何度でも好きなだけ繰り返して聴くことができる。

このような環境においては、今の演奏家は、レコード以前の演奏家の役割とずいぶん違っていて然るべきだろう。

コンサートでさえ、もはや生演奏かどうかは分からない。コンサートは、カリスマ的なアーティストと同じ場を共有するためのものか、まだ見たこともないパフォーマンスを見るためのものと化していると思う。


音楽を楽しむ敷居が圧倒的に下がった。

とすれば、ただ鑑賞しているだけでは飽き足らなくなる人も現れる。次には、自分が音楽をコントロールしたい、そういう欲求が起きてくるのではないだろうか。

とはいえ、既存の楽器を演奏するスキルはない。

幸か不幸か、音楽はデジタルととても相性が良くて、ここ数十年で人がリアルに演奏しなくても十分に音楽は聴けるようになった。

録音したデータは何度でも再生できるし、MIDIを使えばキーを変えたりテンポを変えたりすることもできる。人が介在しなくてもインタラクティブに楽しめる要素がどんどん増えている。

電子楽器的な文脈で言うと、左手でコード指定して自動伴奏を自在に操作することも出来るし、さらにそれを外部からプログラミングで制御することもできる。

AIの出現で、フレーズそのものの生成も不可能ではないし、そもそもAIを使わずともある程度の生成アルゴリズムは音楽なら可能だろう。


こういった環境の高まりは、明らかに音楽の楽しみ方を変えるきっかけになるはずだ。音楽はただ鑑賞するものから、参加して干渉するものに変わっていく。


もしかしたら、こんな考えはずっと昔から多くの人が考えていたのかもしれない。だからこそ、ただの思索ではなく、具体的なものを作ることで、きちんと可能性の一つとして提示してみたい。面白くなければそれまでのこと。その探求そのものが新しいアートへの取り組みと言える。

とりあえず、いま考えていることを整理して書いてみたつもり。


2021年1月2日土曜日

リバタリアニズム、続き

 特に考えがまとまっているわけではないけれど、、、もうちょっと思いついたことを書いてみる。

未だ、ハイエクは読書中。といっても原著ではなくて、新書でハイエクの思想を紹介している本。言っていることは一貫していて、ひたすら計画的に経済を回すことは、特定の人を利することになり、社会は良くならないということ。

福祉でさえ必要最小限にし、期間も限定にしないと簡単に既得権益化してしまう。そのように公的にもらうお金は、その職種、業界を独り立ち出来ないようにさせ、結果的に消費者のためにならない。


全くもって納得なんだけれど、最近の世の中の論調をみる限り、全く逆の方向に人々の思いは向かっているように見える。

新自由主義が格差を招き、多くの人が貧乏になった。だからお金のある企業や個人からきちんと税金を徴収し、それを分配すべきだと。また、行きすぎた資本主義を見直すべきだと。人々が儲けを求める限り、過剰な生産や消費が止まらないと。そして、それが限りある地球資源を無駄にすることに繋がると。


ところが、そのような競争を否定するほど、ハイエクの主張とは逆の方向性に向かい、計画経済を思考するようになる。

私はむしろ逆に、今は市場経済性がまだまだ足りないようにさえ思える。もっと一人一人が儲かる方向に行動すれば良いのにと思うことは結構ある。

もう一つ思うのは、私企業は市場の中で利益を追い求める主体ではあるけれど、企業という法人にとって市場経済的に振る舞っても、その企業内で働く人々は、集団の中では全く市場経済的には振る舞うことが出来ない。むしろ、そこには軍隊的な決定論的な行動規範が人を縛っている。

海外ならば、労働市場がもう少し開かれているが、日本ではとても市場とは言い難い。これが本当に市場になれば、日本の労働環境もだいぶ変わってくると思うのだけれど、もうこれは何か、日本中が談合して労働市場を大きくしないようにしているとしか思えない。


市場経済が、個々人の目で見た時に、一消費者の立場だけでなく、生産者の立場としても成り立つような感じが必要なのではないかと思う。

そして、その考えを進めれば進めるほど、大きな組織は解体され、個々人がプロジェクト的に離合集散を繰り返すといった世の中になっていくことになる。

これぞハイエクのいう、自由な社会そのものではないだろうか。

2020年12月26日土曜日

お金とリバタリアニズム

 後で拙文を読んでみると、本当に考えが浅くて恥ずかしくなる。

いくら立派なことを考えているつもりでも、文章でその程度の内容になってしまうということは、結局のところそこまで立派なことを考えているわけでは無いのだろう。

とはいえ、やはりどうしてもお金って何だろう、ってずっとずっと考え続けている。


みんながお金のために生きなくなったら何と幸せなことだろう、と単純に考えてしまうけれど、世の中はそんな簡単には出来ていない。

仕事ならば、お金が基準になって、誰がいつまでにどのくらい何をしなければいけないかをはっきりせざるを得ない。ところが、趣味の世界になるとこれが全くダラダラになってしまう。もし仮にうまくいったとしたら、相当に人を動かすことが上手い人が、その中心にいるはずだ。

つまり、人は嫌々ながらも誰かに尻を叩かれて動くからこそ、社会が回っているという側面があって、そこには趣味だけでなく、〇〇せねばならない、という義務の世界がどうしても必要だということ。


もちろん、お金以降の世界では、ある種のスコアが人の価値を決めるようになるだろうから、そのスコアを上げるために、人はやはり義務の世界で生きる必要はある。ただし、そういう世の中になってみないと、衣食住が満ち足りた環境で人が義務に生きるインセンティブとなるのか、今のところ全く見当がつかない。


昨日からハイエクに関する本を読み始めている。

ハイエクは一貫して社会主義ではなく、自由主義、市場主義を重んじている。ところが、ほとんどの人は、市場主義を敵視していて、素晴らしい為政者が世の中を良くしてくれると信じている。そんな人は永遠に現れないのに、それでもそれを信じるというのは、もはや人間の遺伝子に刻まれているくらい本能的な感覚なのかもしれない。

そういう意味では、ハイエクのいう、全ては市場、競争環境が世の中を良くするはず、という言説は人の神経を逆撫でし、本能的な嫌悪感を感じさせているのだろう。


ソフトウェアの世界では、もはやオープンソースが一般的になった。

ウチらの職場ではいつまでたってもそのメリットを享受しようとするでもなく、リスクばかりを騒ぎ立てる。その一方で、IT系企業の技術者はサラッと、オープンソースのコミッターとなって、会社自体がそういうコミュニティと関わることを奨励したりする。

あまりの感覚の違いに愕然とするけれど、自分自身が何のコミッターをやっているわけではないので、偉そうなことは言えない。


このオープンソースの世界は、もちろんプログラムがタダで使えるという意味では、お金の世界から背を向けている。今のところ、その周辺の需要を探ることでオープンソースをビジネスにしようとしている人たちは多いが、それでも根の深いところで、ソフトウェア、というか、全ての知的財産はフリーを指向するのではないかという予感がある。

ハイエクのいう市場競争と、オープンソースのフリーの世界は一見両立しないように見えるけれど、オープンソースはどれだけ多くの人に受け入れられているかという意味において、競争もしているわけで、大企業によるルールによって統一された世界より、健全だという気もする。

そう、ITの世界では、商売になればなるほど、なぜか市場性が失われ、一極集中になっていく。オープンソースの方が純粋な競争が起きるような気がする。それもすごく不思議なことではあるけれども。


この考えは、いずれ大企業、或いは国家さえ不要ではないかという、リバタリアニズムの極地に今自分は向かおうとしている。

2020年7月26日日曜日

コロナが明らかにする日本の闇-その3

7月にはすっかり収束して、あんなこともあったねとか言ってるだろうと予想していたが、全然そんなことなかった。自分の想像力の無さに愕然とする。

7月になって、明らかな第二波が起きて、浜松でもクラスターが起きて、まさかの感染者増加。この季節でこれなら、冬はもっとひどいに違いない。この騒ぎはそうなると、来年の夏くらいまでずっと続くような気がしてきた。

そうなると、本格的にヤバいのは経済。
今年の後半くらいには、恐らく続々と観光業、飲食業が廃業していくだろう。街に失業者が溢れ、治安は悪くなるだろう。そんな社会に日本が耐えられるだろうか?

なにやらとてつもなく恐ろしい状況が産まれようとしている。
もう経済のために、感染を恐れず普段の生活をしよう、という気持ちは世界から消えた。私はいまだに、世界は騒ぎすぎだという感覚があるけれど、もう有無をいわさぬほどコロナを防ぐための暗黙の圧力が世界を覆っている。
それは決して間違いではないから、結局コロナから身を守るために、世界経済は凄まじく悪化していくだろう。


それは、どんな世の中に変わるきっかけになるのか?
またも無駄に大きな表現すると、貨幣経済の終焉ではないかと思う。
もちろん、貨幣は簡単には無くならない。100年経っても無くならない。
ただ、貨幣でカバーできる領域がどんどん狭くなるのではという気がする。

誰もがお金が無くなるから、いらないものは買わなくなる。
最低いるものは食事と光熱費。
光熱費を払えなければ死んでしまうから、多分、光熱費はどんどん安くなったり、結果的に失業者は免除されたり、ある量以下は実質タダになるんじゃないかな。
食べ物もそう。食材は極限まで安くなって、一部はタダになり、それで食いつなぐ人たちが現れると思う。家庭菜園とかも一般的になるだろう。

その時に何らかのバリューが個人に紐付けばいい。
他人に無償で何かを提供する行為が、個人のバリューを高める。オープンソース的な仕組みが、社会全般に蔓延するかもしれない。というか、そういうふうになったらいいのに。


お金の良くない点は、それ自体が目的になりやすいということだ。
もともとは、物と物の円滑な取引の道具でしかなかったのに、富の総計を測ったり、それ自体を貸すことで儲けたりする手段が発明されることで、お金そのものが目的になるような行為が増えた。
それは、本来の人間の活動には不必要なものだったのだ。多分。

必要なものを必要なときに必要なだけ。これを実現するための社会システムこそが求められている。

2020年4月5日日曜日

コロナが明らかにする日本の闇-その2

もちろんどんな職種もリモートできるわけじゃない。
でも、きちんと業務を仕分けすれば、リモートで出来ることは意外と多いような気がする。

Twitterにもちょっと書いた。




仕事が出来るとか、出来ないとかを、コミュニケーションのやり方に求める感覚は、すごい体育会系っぽい。
私も何となく、そういう感覚をもっていたし、それはある面間違いではないのだけれど、その意識が日本では強すぎるのだと思う。

まさにハイコンテキストな仕事のやり方であって、空気が読めなければ、ダメなやつと思われてしまう。個人の個別の能力をきちんと評価してくれない。

コロナでリモートワークが増えてきたとき、コミュニケーションコストは等しく増える。
だから、リアルに会っていたときにコミュニケーションに苦労していた人の相対的立場はむしろ良くなることだろう。

とてもいいことだから、コロナが収束しても、是非その感覚は残って欲しいものだ。

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そういえば某氏と話していて、ちょっと気づかされたことがある。
明らかに若手の方が残業が少ないし、業務に対するコミットメントが低く感じられる。
これは、我々のような古い製造業の現場でどこでも起きていることのような気がしてきた。それに彼らは、簡単に辞めてしまう。
もはや、上から圧力をかけて、残業をさせるなんていうことは、不可能な状況になりつつあるのだ。これもいいことだ。

でもこんな時代に、もう50代なんてちょっと悲しい。

2020年3月2日月曜日

コロナが明らかにする日本の闇

正直言っちゃうと、みんな心の中では会社なんていかずに、リモートワークしたい。だから、コロナでリモートを推進とかいうと、喜んでリモートやりたいと言う人が増えてくる。
会社は時節柄、彼らを拒否できないから、しばらくはリモートをやる人が増えるだろう。もちろん、彼らは会議に出ることができないから、そこで仕事は滞る。何となく、そうやって顔を見せたくない人は、いい印象がないので、恐らく評価は悪くなる。
もちろん、そもそも評価が高くない人がリモートをやりたがるので、どちらが先というわけでもないけれど。

こういう先進のワークスタイルを導入すればするほど、日本的組織はどんどん体力が無くなっていく。
日本的組織は、長い間、同じ場所にいることが前提でパフォーマンスを発揮するようにできているからだ。
無駄であろうがなんだろうが、その場にいて、何かあったときに、出来る人がいつでも現れて問題が解決されていく、それに期待しているのが日本的組織。

しかし、世界は違う(と思う)。
日本以外は、組織やチームの目的が明確で、個々人が何をやるべき人かがはっきり決まっているから、他人の仕事はやらない。
他人の仕事はしないから、誰が仕事をできないか簡単に可視化されるし、それで困るのはマネージャーだから、マネージャーがテコ入れせざるを得ない。
もちろん、チームの誰も基本的には他人を手伝わない。

***

世界は基本的に、リモートでも可能な仕事の仕方をしているから、それをそのままの形で日本でも導入できると思ってしまう。
リモートでうまく仕事できるのは、上記のように仕事の範囲が明瞭な職場だけ。
ほとんどがそうでないから、まあ無理でしょう。

さらに日本の職場の生産性は下がるはず。

今ある職場をよくするのは不可能。
新しい職場を作るしかない。
そして、そこに移るしかない。

そのタイミングがいつなのか? つまりそういう問題なのだろう。

2019年10月13日日曜日

会社がオワコンな理由

一度、会社のダメなところを挙げておきたい。そうすれば、少なくとも会社の何にコミットすべきかを判断できる。

山口氏の本でなるほど、と思ったのは、会社内は資本主義ではなく、社会主義だということ。それでもスケールメリットがあったから会社が成り立っている。

今の会社の大きな問題は、意思決定のあり方だ。
意思決定のコストが本当にダメダメ。創業社長ならまだ意思決定は早い。しかし、大企業はすでに官僚的な体勢が出来上がってしまい、意思決定の根拠がないと社員が納得しない。だから、文句が出ないようにどんどんルールが厳格になっていき、そのルールに振り回されているうちに、意思決定に掛かるコストが膨大になっていく。

そこに日本独特の無責任体勢が加わり、意思決定が誰の責任でもないようにする仕組みがさらに追加される。稟議のような合議体勢だったり、意思というよりは単なる許可だったり。それならその権限を降ろせよと言いたい。

もう一つは、山口氏も言っていたモチベーションの問題。
徹底的に効率を追求すると、業務分担は細かくなり、さらに無駄が排除される。全体を知る人がいなくなり、そもそもこの仕事を達成したいと思う強力なモチベーションの源が消えてしまう。リーダーでさえ、やらされ仕事だ。
いくら業務を効率化しても、モチベーション不在の業務の質は低く、むしろ生産性は上がらないだろう。何といっても圧倒的にスピード感が違ってしまう。

それから垂直統合を進めたことによる非効率性。
むしろ昔はこれが完全に逆だった。全て自前で持つから、自分たちの事業に最適な形にカスタマイズすることでどんどん効率が高まっていた。
ところが、IT化は汎用性をすごい勢いで進め、気がつくと自己最適化されたシステムより、汎用システムのほうが使いやすく、効率も良かったりする事態が発生している。
大きなことが悪い方に作用していることが多くなっている。

それから、その閉鎖性。
オープンな会社もあるにはあるだろうが、昔ながらの大企業は非常に閉鎖的。
プロダクトベースの事業が多いので、開発情報は秘密にしたいし、そのテクノロジーも公開すべきではないという考えが一般的。
プラットフォーム事業であれば、秘密であるより公開した方が良い場合が多いし、GAFAMもむしろOpenSource化している。
まあ、これは会社のダメなところというより、古い考え方に縛られているだけで、世の流れが分かっている会社ならきちんとやれているのだろう。

そういう意味では、日本の会社のダメなところ、という括りだと、さらにいろいろな面があぶりだせる。
既に日本企業は目先の利益にしかリソースを投入できないマインドになっている。
創業社長でないと、長期的な視野で投資することができない。なぜなら、長期政権がほとんど不可能だからせいぜい3年以内くらいに利益が出ないと、簡単に事業は終わってしまう。

人材が流動化しないのも悪いところ。
人が動かなければ活性化しない。しかし、終身雇用を是としてきた日本企業にそれを望むのはほとんど不可能だろう。

2019年10月12日土曜日

アート主義への現実的な変化

理想社会というものは永遠に訪れない。
社会はいつも理想に対して道半ばの状態でしか存在し得ない。そして、理想へのベクトルは時代によって変わっていくから、つまるところ、理想には永遠にならないのである。

なので、アート主義の理想的な社会を語っても、それは永遠に訪れない。
であるなら、不完全ながらもどのようにアート主義な社会に移行していくのか、現実的な変化についてもっと語るべきであろう。

山口周氏の本を読んだ。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07SSY4LJ9/ref=ppx_yo_dt_b_d_asin_title_o00?ie=UTF8&psc=1

基本的には、ほぼ私の気持ち通りの内容で、そこをうまく言語化してくれたのが心地良いし、氏の博学さや説明のうまさに対して、とても好感がもてた。

やや、煽り過ぎの面もあるから、そこはある程度差し引いて読んだとしても、アート主義的な考えとはほぼ方向性はシンクロしている。
私が会社で感じる違和感をほぼオールドタイプと断定し、忌み嫌っているのは笑えるが、とはいえ、今の会社のやり方を全面的に否定するのは現時点では難しいだろう。


なので、やはり現実的な変化、を考える必要がある。

おそらく、一匹狼で生きていける人が増えるはずだし、そういった人々が活躍出来るフィールドが増えるはずだ。でなければ、アート主義には全く移行できない。

まずは一匹狼は、既存の大企業から仕事を請け負う形で飯を食うしかない。だから、彼らはそれなりに、人格者でなければならない。古巣から仕事をもらいつつ、顔を広げていって、人のつながりで仕事をもらっていくパターンだ。
その一方で、アイデアでヒット作を出し、ネームバリューを上げる人も出てくるだろう。請負からだんだんと、ヒット作型への移行が始まっていく。これはそう簡単な流れではないけれど、ここが描けないとアート主義への移行は始まらない。


請負からヒット作型への移行のためには、ヒット作を出す人が、とりあえず現状の資本主義の中でお金を得る必要がある。
その仕組みには

  • プロダクトそのものから収入を得る
  • パトロンからお金を得る
  • 不特定多数から寄付を得る
  • 請負の仕事を半分混ぜる
といった方法が考えられる。
いずれにしてもまだまだハードルは高い。

パトロンや寄付が立ち上がるのが理想だ。それこそ、信用の数値化といった世界観に繋がるし、ひとまずはリアルなお金を通すとしても、いずれお金が無くなる布石にはなりそう。


寄付はかなり可能性は高い。
一人一ヶ月100円払ったとすると、1000人で10万円。うーん、まだ苦しいかな。
1000円払わせるのは、まだ厳しい。500円を100人で5万円・・・
もう少しかもね。

2019年9月29日日曜日

お金の回り方

大局的に見れば、自分の考えは筋が通っているとは思うけれど、結局、世の中がお金で回っている以上、それをうまく集められる人たちが力を持つことは避けられない。

だから、お金の回し方を変えていくか、そもそもお金を放棄するしかない。

私がずっと夢想しているのは、後者のお金を放棄する方法だ。

対価は欲しい人から与える人に直接届けられる。そんな、とてもシンプルなやり方が、今のお金では不可能になっていると思う。
お金を扱うときには、債権や証券のような仕組み、それを扱う金融機関が必要で、ルールに則った企業会計がきちんと管理され、それに従ってお金は回る。
お金は常に仕組み、システムの中で管理されており、そのシステムを回す(権限のある)立場の人たちにお金は流れる。

必要なモノを作ったり、サービスを提供したりする末端の労働者と、それに対価を支払う末端のお客様の間には、直接な価値のやり取りは存在しない。必ず、企業の売り上げに計上された後に、給料として労働者にお金は配られる。

お金である以上、この流れは当面変えようがない。

ただし、お金でないものであれば、全く新しい価値循環の方法をゼロから考えていけばいい。もっと今の時代に即した形で。
だからこそ、お金のようなものではない新しい物差しに、私は期待してしまう。


仮想通貨も基本はお金のアナロジーだ。
ただし、使っているうちにお金でなくなる可能性は秘めている。

もっと今のお金ではない何かは何か?
ちょっと前、個人に投資するようなサービスができたけれど、あういうのがより洗練されたような感じ。
多分、株が個人に適用されるようなものなのだと思う。

ただし、それを売り買いして儲けるとかそういうことではなく、どちらかというと、個人の評価システム的なもの。ちょっと考えると、超ダークな社会になりかねない話だけれども。

でも、そういう仕組みがなければ、今のままではスキルのある人に直接お金が届かない。そこが今後の大きな問題だと思う。

先日の、ファブ地球社会コンソーシアムで、スキルをバッジしたらどうか、というアイデアが出てきて、とても面白いと感じている。うまく運用していけば、これこそお金のない世界での、新しい世の中の回し方になってくれれば嬉しい。

2019年9月22日日曜日

アート主義の時代と私がやってきたこと

2012くらいからmakeにはまった。
合唱はそれからまだ3年ほどはやっていたけれど、2015年にやめた。
その間、これでビジネスできないか、ずっと考えてきた。もう7年も。
これだけ長い間、同じようなことを考えて何も行動していないのだから、きっと私はまだ10年も同じことを繰り返しているに違いない。
本当はどこかで行動が必要なのだろうけれど、全く勝算がない行動はどう考えてもとれない。

アート主義の時代がいつ来るのか、その見極めが大事だ。
今の資本主義は当然、そう簡単には終わらない。しばらくはアート主義と並存する期間がある。少なくとも20-30年くらい。

それでも、数年くらいのうちにアート主義が立ち上がる、という楽観的な見通しの上で、自分の計画を立てるしかない。

アート主義はどんな形で立ち上がるのか?
GAFAMに代表される巨大ITプラットフォームが世界帝国化する。彼らは納税義務さえ軽々飛び越え、利益を出し続け、先端テクノロジーに投資し続けるだろう。
その一方、ほとんどの企業は才能を吸われ、抜け殻のようになり、プラットフォームにしがみつくしか生きる術がなくなる。

国よりも強くなったITプラットフォームは、便利さで人を操作する。
法律よりも強く人の行動を制御できる力を持つようになる。
中国は国家権力で、EUはGDPRなどで対抗する。どこが勝つかは分からない。
意外と中国かもしれない。その可能性は常に心の片隅に置いておく必要がある。

なぜなら、中国ほどオープンソースの精神が進んでいるところもないからだ。ITプラットフォームも依然として大事な技術は抱え込む。しかし、SDGs的な価値観からいえば、優れた技術は囲い込むのではなく、公開すべきだ。そのためには、自分たちが儲ける、という価値観を越える必要がある。

GDPRについては、いまひとつ筋が悪いと思う。
倫理的なルールで人を縛るのは無理だ。人の欲望を使って、人を制御するべきだ。

データをどう扱うのか、そのあたりの展開は注意する必要がある。それにより、ゲームを先導する主体が変わってくるからだ。
できれば、ITプラットフォームでもなく、国家でもないほうがいい。オープンソースをべーすにしたものであってほしい。

つまり、自分のデータはどのプラットフォームからもオープンなフォーマットで吸い出すことができるようになっていればよい。技術的に難しくても、誰かが簡単にできるようにしてくれる。
例えば、Gmailが嫌になったから、別のメールシステムに乗り換えたいとき、Gmailを全てオープンフォーマットで吸い出せればよい。(今でもできるとは思う)

そういう仕組みが無ければ、そのサービスが廃るような価値観になってくれれば、ある程度自分のデータを自分で制御するすべは手に入ると思う。

で、アート主義にどう繋がるかはまた別途。


2019年9月14日土曜日

さらに資本主義の終焉について

同じことを何度も考える。

地球上にフロンティアが無くなった時点で資本主義は終了する。
イースター島で起きたことと同じことが、世界全体で起きる可能性がある。だからこそ、SDGsが叫ばれる。でなければ、人間社会がどこかで文明崩壊する。

もう一つ、資本主義の限界の理由の一つとして、時間差、距離差が極限まで小さくなっていることが挙げられるかもしれない。
時間差や距離差があるからこそ、富の偏在が発生する。ある人は持っていて、ある人が持っていなければ、それを交換して両方がハッピーになる。これこそが資本主義の大元の原理だと思う。

ところが情報は瞬時に世界を駆け巡り、モビリティや運送の発達で、世界は非常に狭くなった。まだ文化や言語の壁はあるが、それらは少しずつ少しずつ崩れていくことは間違いない。
時間差、距離差が無くなることで、モノは瞬時に世界に流通し欲しいものを誰もが手にできるようになった。全てはコモディティ化し、珍しいものがなくなることで、価格は極限まで下がる圧力を受けるようになる。

逆にそのような社会ではコモディティにならないことが大きな戦略の一つとなる。
コモディティは博打のようなもので、当たらなければ大きな投資が無駄になる。だから誰もが買うような必需品は大きな会社が大規模な製造手段と流通手段で世界に販売し、薄利多売を目指す一方、ほとんどの小さな会社はコモディティにならないもの、よりアート性の高いものを販売するようになるだろう。

資本主義的な発想なら、たくさん売って利益を出すことが正義だけれど、たくさん売れなくても、自分を支持してくれる世界中の少数のファンが自分に必要な分だけ投資をしてくれればいいということになる。
自分の活動に世界中の人が投資、というより寄付してくれるような世界。これこそがポスト資本主義な世界だ。

アーティストであることが一番価値のある社会。
芸術作品を作ることだけがアートではない。人へのサービスにもアート性は宿る。というより、全ての人の行為には常にアート性が宿っていて、どのような職業であっても、そのようなアートセンスが必要とされるような社会になっていく。

このような社会のことを何と呼ぼうか。
ポスト資本主義でもいいけれど、とりあえずアート主義の時代とでも言うべきか。

アート性の高い人が評価され、そのような人はいろいろな職業で優遇されるようになる。
人の流動性は高まり、必要とされる人とそうでない人の格差は高まる。ただ、その格差は貧富の差というより、人間力の差だ。
貧者が富めるものに使われる時代から、少しずつ愚者が賢者を祀り上げる時代になっていきそう。

***

そういう時代には、そもそもお金がいらなくなる。
お金こそ、資本主義の象徴だ。
お金は、数量を増やすことを肯定する。お金は持っている人ほどお金がさらに集まりやすくなる。お金で時間差や距離の差も買うことができる。

ところが増えることが難しくなり、誰もが時間差や距離差を克服できる時代、お金を人間活動の唯一のものさしにするには都合が悪くなってきた。
アート主義の時代には、アート性の高い人が評価されなければならない。
現状では、そういう人にお金は流れない。

アート性の高さは、まさに評判を客観的に数値化して評価するしかない。数量では評価できない。
評判の数値化、これこそが未来の貨幣だ。と言いつつそれはもはや貨幣ではないのだろう。なぜなら、貨幣みたいに交換したくても評判は減らないからだ。むしろ、株価のようなものだ。
そういえば、個人を株式化するようなサービスがあったっけ。何となくわかる人にはわかっているのだと思う。

2019年8月11日日曜日

サステイナビリティ

サステイナビリティとかSDGsみたいな言葉は、単なる資本主義へのアンチテーゼではなく、本当に地球から資源が無くなっていく、あるいは資源の確保が難しくなっていく状況から生まれているっぽい。

資本主義というのは、未開のフロンティアがあり、そこから資源がどんどん採掘されるような状況において成り立つ経済システムであり、世界中からフロンティアがなくなりつつある今、資本主義自体が見直しを迫られているように思える。
お金はジャブジャブ作ることが出来るが、モノはある分しか使えないわけで、その限られた分量を世界中の人が取り合うわけである。

ある未来予測で、2025くらいまでは先進国はデフレが進むが(途上国での生産コストがやすいため)、それ以降はモノ不足が起きてインフレになるという。

あれー、限界費用ゼロ社会と逆の現象じゃん!
今まで信じていた話が微妙に崩れていく。
どこまでもモノの値段は安くなっていって、いずれゼロになるって話だったのに、どうも資源が足りなくなって、逆にモノの値段は高くなるのである。
もちろん、人は代替案をどんどん見つけるので、長い目で見れば、またコストダウンの方法を考えるだろうけど、限界費用ゼロ社会はそう簡単には起こりそうもない。

サステイナビリティとFabLab、あるいは個人によるFab活動は割りと相性がよい。
というのは、個人でFab活動することは、企業による大規模な生産のアンチテーゼであり、ハードウェアの地産地消という意味でも 、最適な生産が可能になる方向なのは確かだ。
であれば、長い目で見れば個人のFab活動はサステイナビリティを進めていくエンジンになる可能性はある。


2019年5月3日金曜日

Maker Movementの挫折

Maker Faireは確実に広がっている。出展者も増えているし、毎年観客も増えている。そういう意味では、Maker Movementの広がりは確実に進んでいるとも言えるのだけれど、当初、私が熱狂したような広がり方の予想からすると、随分歩みは遅い。むしろ、幻滅、あるいは挫折に近い感覚を持っている。
Maker Movementはある意味、個人の経済的、社会的自立を意味していた。
しかし、2012年にMaker Movementの可能性を感じて以来、Makerは単なる趣味でしかなく、それ以上のものになっていない。

ファブ地球社会コンソーシアムで田中先生曰く、ほとんどのmakerの興味はMaker Faireに参加することであり、現実はそのためのプロジェクトを回すことで精一杯であり、社会的な問題解決のための活動とは程遠いところにいる。
問題解決は社会に役立つということであり、それは必ず経済的価値を生むはずなのだけれど、そこに至らないのだからMakerは社会の経済的循環の中に位置を見いだすことができない。

確かに私は楽観的過ぎたかもしれない。
自分のつくりたいものを作って、それが売れて商売できたら嬉しいのは誰もが思うことだけれど、それが成り立つためには、人が欲しいものを売らなければいけない。
ほとんどのMakerにとって、それは全くリアリティに欠ける現実で、どうせ売れないんだから一発ギャグ的な作品でいいじゃないか、という逃避の姿勢を生んでしまう。
結局、Maker Faireは一発ギャグの消費の場にしかならない。
持続的にMakerが自立するためには、もっと綿密なマーケティングと、譲歩の姿勢で市場にコミットする意識が必要だけれど、そうなるともはや趣味でなくなり、日常のお仕事と変わらなくなる。それが嫌だからこそ、Maker活動してきたのにである。

まだそこには大きな隔たりがある。
その隔たりは何か、それを超えるにはどうしたら良いか、そこについてもう少し考えなければいけない。
他人に対する価値提供として、いくつか軸があるのだと思う。
例えば、アートと機能軸。マーケットのベクトル軸(マスかニッチか)。社会問題と趣味軸、ローカルとグローバル軸。このくらい考えればいいかな。

とりあえずここまで。

2018年3月25日日曜日

AIが人にもたらす影響

AIは人間に無力感をもたらすのではないか。

AI将棋が圧倒的に強くなり、プロ棋士を負かしてしまう。
おそらく、数十年のうちにプロ棋士の存在意義が問われるようになるだろう。全ての対局は簡単に分析されるし、打った瞬間に悪手かどうか分かってしまう。
聴衆にその意味が分からなかったとしても、AIの下した判断に多くの人は納得してしまう。それはいわば、プロ棋士の威厳の失墜に繋がる。

そんな時代には、我々の価値観は変わらざるを得ない。
何かがすごい人に人は憧れる。同じように食事をして、同じように下世話な世界を相手にして、同じように人間として生活しているのに、自分と才能の差が歴然としていることは、多くの人にとって畏怖に値する。

しかしその畏怖の感情は、AIが簡単に持ち得るスキルであることが分かるにつれ、だんだん薄れていくであろう。
人でないもの(AI)が、あるスキルを獲得したとしても、それは純粋に工学的現象であり、努力とか才能とかに畏怖するような魔法のような感覚を想起することはない。私たちはそういうスキルを程度の低いものと認識するようになるに違いない。
また、我々がそのスキルを欲しいのであれば、クラウドなどを通して、簡単に手に入れることができる。


そんなことに人は耐えられるのだろうか?
ふとそんな疑問を抱く。
他人を畏怖するような神秘がなくなり、人より優れた判断システムが自分の思い通りに使える世界。私たちは、一度それを使ったらもう手放せないのにも関わらず、その価値をますます低く見積もるようになる。それは人間の感情がなせる技だ。同じことを人でなく、システムが成し遂げてしまえば、それは畏怖の対象ではなくなる。

だから、人はAIが熟達してしまったスキルを自分であらためて習得する気にはならないだろう。
どうやってもAIに勝てないのに、それはAIが優れているからではなく、自分が劣っていることを証明することになってしまうからだ。だから勝ち負けではなく、あくまで自然の力として受け入れるかもしれない。

それでも、世の中のありとあらゆる判断システムがAI化された時、人間が成し得たテクノロジーであったのにも関わらず、人はそれに振り回されるようになる。
このときの無力感は人類をどのような方向に導くか?


しかし、実はほとんどの人は今のテクノロジーを理解していない。
意外と人は、今のように淡々と与えられた人生を生きていくだけなのかもしれない。
すでに、自分の人生は多くのシステムによって翻弄されている。いや、むしろAIシステムは人を幸せにするかもしれない。Matrixのカプセルのように。それなら、我々がそれを忌諱する理由もない。

世の中のあらゆる諸相を知りたいと思うタイプの人たちは限られる。
しかし、そのような人々がいる限り、テクノロジーは発展するし、そうでない人はその果実を享受する。
人類は自分たち自身を間違って滅ぼさぬ限り、AIがあってもなくてもこれまで通り世界は続くのかもしれない。

私たちがこれまで何千年も培っていた匠の技はすべからくAIが習得するのは間違いない。
しかし、それは我々の仕事観の修正を迫るだけで済む、という気もしてくる。


もし、この議論で別の解があるのだとしたら、人間のように振る舞うAIが現れたらどうするか?という議論との関連性から出てくるかもしれない。

この点については、私は強い疑いを持っている。
人のように振る舞うAIは現れない、という強い確信を私は持っている。
なぜなら、人が人として振る舞うためには、人の肉体が絶対的に必要だからだ。形とか性能の問題だけじゃない。生まれてから死ぬまでの身体的変化や、事故や病気、肉親との関係、他人との争いなど、これらを経験して初めて人らしく振る舞うことができる。
それはAIとかいう前に、機械的に不可能だし、そもそも意味がない。

AIは生物的前提を持っていない。だから、ある一面で人間的な判断を示したとしても、全人格的に人間としてみなされるようなパーソナリティは持たないであろう。それが私の考え。

必要以上にAIに不安を感じる必要はない。
興味とビジネスの原則に従い、私たちは順当にAI技術を発展させれば、まあ悪くない未来にはなるんじゃないかな。

2018年2月18日日曜日

お金の無い社会の契約

会社で契約の講義を受けた。
契約とは、ある意味、他人が絡む全ての約束行為ということになる。
コンビニで何か食べ物を買うことも、契約の一つの形である。

今は、値札が書いてある商品が陳列されていて、好きなものを持って行ってお金を払えば持って帰れる。
でも、それはお金がある社会の話。

お金が無いとはどういうことか。
商品はあるが、それを持ち帰っていいかどうかは、交渉して契約が成立すれば可能となる。一人一人、一商品ずつ、それをやる。

あるモノを欲しい人が、売主に「これが欲しい」と交渉する。
売主は自分にメリットがあれば、この商品を持っていくことを許可する。


前回、ストックが微分値として、個人の信用力を表す尺度になると書いた。

おそらく、その値は1次元ではなく、多次元ベクトルなのかもしれない。
だから、お金のように単純な数値で表現することは出来ない。

買う人のストック値が高い場合、商品を与えることによって売る人のストック値が高くなるとすれば、ストック値の高い人に商品を与えるメリットが出てくる。

コンビニで食べ物を買うといった程度の取引なら、フロー的な方式の方が分かりやすいとは思うが、今の価値観による価格が高いもの、例えば住宅のような買い物の場合、このようなストック値のやりとりによる契約というのは可能性としてあるのではないか。

例えば、Aは新しい住宅を建てたい。
住宅建築のプロであるBに新しい住宅建設の依頼をする。
Bは、Aのストック値が高ければ高いほど、自分の仕事のストック値も上がるので、Aのストック値と要求を判断し、この案件を引き受けるかどうかを決める。

ひとたびBが住宅建築を引き受けたとする。
Bは、住宅を建てるため、いくらかの建材屋や、家具屋、大工、電気工事屋などに部材や専門的な工程を依頼する。

ここでもAがBに依頼したような関係が、Bとその他の業者に対して発生する。この連鎖がお金と同様に、経済システムを成していく。


お金が無いということは、値段が無いということ。
値段が付いているのは、金銭の授受という形で契約を簡略化させるためであり、お金の無い社会は、今の感覚では面倒になりそうな契約をITで簡単に実現することによって成り立つことになる。

このような新しい社会では、人は階級化してしまうのは避けられないかもしれない。
ストック値のランクによっては、永遠に享受できないサービスというのが出てくるだろう。それは貧乏だから、ではなく、自分が社会に与える価値が少ないから、ということになってしまうのだ。

2018年1月2日火曜日

フローとストック

会社経営の指標としてのBS, PLが個人の指標に変わっていくのではないか、と思っている。

BSをストック、PLをフローと言い換えよう。

フローは日々のお金の出入り。
ストックは個人がそれまで集めた信用の指標となる。

お金は法定通貨から仮想通貨、そして時間通貨に変化していく。
時間通貨とは、例えば平均的な人が1時間働いて生み出す価値を100timeとすると、それが1時間で何万になる人もいれば、一桁の人も出てくる。

1timeの価値がどのように安定するのかは難しい問題だけれど、社会全体のスキルが上がれば、1timeの価値も上がっていくのかもしれない。

その一方、限界費用ゼロ社会への移行により、「モノ」の値段は極端に下がり(場合によってはほぼゼロになり)、人が生み出す価値とは、行為そのものとなっていく。

つまり、今はモノやサービスを作ってそれを人に与えて対価を得る、という考えだが、モノやサービスを与えたのはあくまで行為の結果であり、行為そのものから対価を得る、という感覚になっていく。

ストックが低い人は、行為の結果からしか価値の創造が測れないので、結果的にモノやサービスの質で対価を得る形になるが、ストックが上がっていくと、人々はその行為に期待するようになる。未来の行為に期待する気持ちは、投資や寄付という形で支援するようになる。つまり、ストックが高ければ高いほど、その可能性だけで事前に通貨を得られるようになる。

例えば、何か日用品を買うとき、ストックの低い人は、時間通貨でそれを買う。
しかし、ストックの高い人は投資、あるいは寄付という形で、通貨を支払わずに得ることが出来る。

貨幣の意味が変わるのだ。
お金持ちは高いものが買える人という感覚から、ストックの多い人はお金を払わずにものやサービスを得られる人になる。それだけその人の価値が高いから。

つまり、お金とは個人の信用力を表す尺度となる。
高価なモノやサービス、そのものが無くなる。これまで高価だったものは、ストックの多寡で手に入れられるかどうかが決まるようになる。

ストックはフローの結果ではあるけれど、単位系が同じではないのかもしれない。
フローはtime通貨によるものだけれど、ストックとは、1時間あたりのtime値、つまり株価のようなものになる。電気で言えば、フローはクーロンで、ストックはアンペア。
ストックなのにフローの微分値という感じ。

しかもストックには負債という概念は無くなる。

人にtimeを与える場合、その人のストック値に応じて1日あるいは1ヶ月単位の最大値が決まる。例えば、普通の人は2万timeを与えられる(使える)が、ストック値の高い人は100万timeを人に与えられる。
ただ、それは与えなかったから貯まるものではない。最大使用料のようなもの。通信の最大パケット数のようなもの。

ストックを微分値で表すために、我々には資産をどんどん貯めていきたいという価値観が無くなっていく。
常に今の行為に対して、time値が入ったり出たりし、その人の時間あたりのtime値がストック値として保持されるのみだ。