2013年12月28日土曜日

今年を振り返る2013

気が付けば年の瀬。今年も去年のように一年を振り返ってみましょう。

今年は仕事でおおはまりし、特に前半はほとんど仕事一色。これが自分的には一番大きな出来事でしたがここでは細かく書きません。

合唱活動はヴォア・ヴェールの練習の出席が芳しくなく、かなり低調になってしまいました。2年ぶりに参加したコンクール県大会もあまり嬉しくない結果で、来年やろうと思っていた演奏会もまだメドがたっていません。
今年は、松下耕先生率いるアンサンブル・プレイアードさんから男声合唱曲の委嘱をいただき、その作曲を行ないました。初演でも楽しい時間を過ごせたのは良い想い出です。ただ残念ながら、思っていたよりも曲に対する反響は今のところありません。
合唱に関しては、主立った活動はその委嘱関係くらいでしょうか。

個人的にプライベートで最も力を入れたのは、ラズベリーパイを使った電子工作で、オリジナル電子楽器を作る活動。来年以降公開していくつもりですが、今年はその準備期間として、作る楽器の方向性固め、電気部品の選定、ソフトウェア開発を行い、何とか年末に試作品らしきものを作ることが出来ました

まだまだ、こういった活動は趣味的なレベルを超えるものではありませんが、あわよくば自分のライフワーク的な活動にしていきたいという想いで始めています。
世界の流れが大きく変わろうとしている今、自分も何か踏み出さねばならないと思って、自分なりに出した答えがこの活動ということなのです。
今後も暖かい目で見守って下さい。

ということで、来年以降、試作品をより洗練させて、この「電子オカリナ」をいろいろな場所で公表していこうと思っています。

2013年12月21日土曜日

そして再びDTMへ・・・

そもそも、私は人前で音楽を演奏するより、作曲して音符を書いたり録音したりしてそれを残そうとすることが好きなのでした。
高校時代からJ-POPまがいの作曲に熱中し、当時買ってもらったキーボードと2台のラジカセで空中オーバーダビングして原始的な多重録音を楽しんでいたのです。
(ラジカセを再生しながら、それに合わせてキードードを演奏し、二つの音を混ぜ合わせた音を、もう一つのラジカセのマイクで録音する。これを何回か繰り返す方法)

大学生になってからMIDIシーケンサーとMTRを購入し、これを使いながらようやく本格的に音楽製作を楽しみました。
MTRとは、通常のカセットテープを使用して4トラックのマルチトラックレコーダーとして音楽を録音していく機材のこと。しかし、DAW全盛の現在ではMTRももう死語となってしまいました。

その後、自分の創作活動は合唱曲の作曲に移行し、オーディオ録音を作品とするのではなく、楽譜を作品とする世界に身を置くことに。
その間も、パソコン上で動作するMIDIシーケンサを使いながら作曲したり、DAWの時代になってからもアカペラの録音に挑戦したりもしましたが、もうすっかり自分で音を録音して作品にする機会は減ってしまいました。
録音で作品を作ることについては、仕事でも趣味でも音楽に関わりながら、プロの世界を垣間みている中で、とても人に聴かせられるようなクオリティで音楽を作ることが出来そうも無い、という気持ちもあったように思います。

実際、機材やツールが安くなって、DTMが誰でも簡単にできるようになればなるほど、ますます個人のスキルが丸裸になってしまうわけです。
当然ながらその一方で、世の中からはたくさんの才能が生まれました。そしてそれは、ボーカロイドという手段を手にして、アマチュア音楽製作が一気にプロ化する現象になって現れました。
もちろん優れた作品の裏には、無数の駄作があるわけですが、それがまた健全な市場性を生むことにつながります。そして今では多種多様なボカロ音楽がネットに溢れています。

このようなアマチュア音楽製作の世界が一気に爆発し始めている(ように見える)のがここ数年の現象。
流行りを追うのかと問われると返す言葉も無いのですが、自分には自分の表現したい世界観があるし、それはボーカロイドというツールは同じであっても、他の人と同じ類いの音楽表現になるわけではありません。
今ならボカロという標準化された形式で多くの人が聞いてくれるかもしれないという期待もあります。

もうDTMは半分諦めかけていたのですが、今ごろになって急に気持ちが盛り上がっています。まだ何も作っていないし、そもそもツールも揃っていないので、何もエラそうなことは言えませんが、ボーカロイドをネタにもう一度DTMを初めてみたいと思っている今日この頃なのです。



2013年12月14日土曜日

ボカロ文化と音楽の作家性

初音ミクから始まったボカロムーブメントとでも呼ぶべき現象は、すでに多くの人がいろいろ語っていることと思いますが、私自身これは音楽の歴史における一つの転換点となり得る出来事だったのではないかと考えています。

本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。

確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。

つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。


音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。

しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。

その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。

とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。

そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。


これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。

もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。

文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。


2013年12月9日月曜日

ラズベリーパイで動く電子オカリナ製作記

最近家で最も時間をかけているのは、ラズベリーパイ(Raspberry Pi)いじり。
ラズベリーパイを購入してから1年ほどが経ちましたが、この間、Linuxを触りながら、Githubでプログラムを送って、ラズベリーパイ上でコンパイルして、プログラムを動作させる日々を過ごしてきました。

何度か紹介しているように、ラズベリーパイは4000円程度で手に入る小さなコンピュータ。パソコンとして使うなら、キーボードやモニターは自分で追加する必要がありますが、このボードにいろいろなセンサや表示装置などの電子機器を接続することで、オリジナルな電子ガジェットを作ることが出来るのです。

私は当初から、ラズベリーパイで動作する楽器を作るべく、ソフトシンセサイザーのプログラムを作成し、これを鳴らすための入力装置として電子部品を買い集めて製作しておりました。

この1年の間に作ろうと考えていたものがいろいろ変わっていきましたが、今はオカリナっぽい笛のような楽器を作ろうとトライしているところです。

現在の状況を動画にしてみました。


オカリナの筐体はまだありません。
まだラズベリーパイから引き出した配線が裸のセンサーと繋がっている状態。

センサーの一つはLPS331APという気圧センサ。
このセンサは、3Dプリントサービスで作った白い吹き口の中に入っています。ここに空気を送り込むと気圧が高くなり、息を吹き込んだ力を検出できます。
もう一つはMPR121という静電式のタッチセンサ。
ここに透明の電極シートを繋げ、このシートにタッチしたらその信号を受信できます。

これらのセンサの出力はI2Cバスを通してラズベリーパイに繋がっています。
プログラムでは周期的にこの信号を受信して音楽信号として処理します。
そしてその信号によりラズベリーパイ上のソフトシンセを発音させます。

現状の問題は、何しろ反応が悪いこと。
ソフトシンセのレイテンシー(処理遅れ)のせいで、吹いても音がすぐに反応してくれません。これはかなりイライラします。
この辺りの本質的な改善が出来なければ、普通に使える楽器にするのは難しいでしょう。

もう一つは、音色や音程動作のチューンナップの余地がまだまだある点。動画では音がピロピロ言っているのが聞こえてきます。これも少しずつよくしていきたいと思っています。


まだまだ先は長いですが、将来的にはラズベリーパイのような小型コンピュータは今後益々活躍しそうなので、こういう汎用ボードで楽器が作れるようになるといろいろ楽しみも拡がるのではないかと思っています。


2013年12月7日土曜日

秘密を保護するのって難しい

もちろん、今回の話題は夕べ国会で成立した某法律に触発されて書いているわけですが、私自身はこの法案に対して政治的に特に賛成とか反対とか言いたいわけではありません。従って,以下は政治的な主張とは全く違う次元で書かれていることをご承知おき下さい。


私には、現実問題、秘密を保護するのってとても難しいよな・・・という気がするのです。
例えば、子供の頃「誰か好きな人いる?」とか聞かれるときどう答えますか。もちろん、聞く側は私が誰を好きか具体的な人の名前を知りたいわけです。
1.好きな人の名前を教えてあげる。
2.「好きな人はいるけど教えない」と言う。
3.「好きな人はいない」と言う。
4.ひたすらはぐらかす。
まあ、反応としてはこんな感じでしょうか。
もし自分に好きな人がいるならば(そしてほとんどの人はいるに決まってる)、3の答えは明らかに嘘です。
しかし、3で答えた場合、それが嘘かどうか確かめる術も無く、尋ねる側もこれ以上面白い回答が得られないと断念するのでそれ以上この話題には触れなくなるでしょう。

それに対して、答えた側は嘘をついたことで自分の良心に負荷がかかります。
この程度の話題なら、まあそこそこに嘘を付くこともあるでしょうし、人はそういう嘘のつき方を覚えながら、みんな大人になっていくものですが、逆に大人になるほど面倒な秘密も増えていきます。


例えば、私のようにメーカーに勤めていると、社外の人からこういうことを尋ねられることがあります。
「○○の新製品っていつ出るんですか?」
これに対する答えはいくつか考えられます。
1.いついつに何々が出ますよ、と教える。
2.今開発してるけど、いつどんなのが出るかは言えない、という。
3.開発していない、という。
4.それは秘密、という。
5.ひたすらはぐらかす。
1は企業秘密そのままバラすのでヤバいです。2も新商品を作っていることを言ってしまっているので、ある程度の情報が漏れているとも言えます。3は上で言ったような嘘であり、数ヶ月後に実際に商品が出るとそれが嘘であることが明確になってしまいます。
4.は正しいけれど、むちゃくちゃ勘ぐられます。「あー、やっぱり作ってるんだ」みたいな反応をする人もいるでしょう。たいていの場合、人は「秘密」と言われるともっと知りたくなるし、一度知りたくなる気持ちに火が付くと、逆にあらゆる手で探ろうとするかもしれません。今のIT時代にはそれは十分恐れるべきことです。


そんなわけで、もし相手が知りたいことが、こちらの秘密にしたいことだった場合、秘密が無いようにみせかけ、嘘もつかずにスルーすることは論理的に大変難しいことではないかと思うわけです。

たいていの場合、最初の例のように嘘をつくわけでしょうが、それはその時の常識で正しい判断だったとしても、数十年後の常識で正しいことなのかは誰にも分からないし、下手をすれば数十年後の常識で糾弾されかねない怖さもあります。

当然のごとく、国家や組織の利益を損ねないようにするためには、ある種の情報は秘密でなければいけません。
しかし、秘密を守るためには、何が秘密か定義しなければならず、もしその定義が揺れ動くようなら、守るためについた嘘が今度は犯罪になる可能性もある、という気がして、こういったルールの運用は大変難しいのではないかと個人的には感じてしまうのです。