昨日、浜松少年少女合唱団の演奏会にて、私が編曲しました「唄・今昔物語─にほんのうた─」が初演されました。「唄・今昔物語」の編曲シリーズは第二弾。第一弾の話題はコチラ。
今回は題材が日本の歌で、唱歌などを中心に7曲選びました。曲は「ふじの山」「シャボン玉」「砂山」「あめふりくまのこ」「青い目の人形」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」。
最初はメドレーにしたいという合唱団の意向でしたが、私のほうからそれは止めたほうが良いとお話ししました。以前も同じような唱歌系の曲をアカペラでアレンジしてメドレーにしたとき、想像以上に難しくなってしまった反省もあって、児童合唱だと厳しいと思ったからです。
結果的に今回のステージは、最初の「ふじの山」と最後の「夕焼小焼」をちょっと派手なアレンジにして(というか、前回程度の難しさ)、その他の曲は声部も少なく、曲も短くし、曲間は合唱団のアイデアによる演出によってつなぐことにしました。
昨日の演出は、さすがに児童合唱に慣れた皆さんだけあって、お客さんをちょっとクスッとさせるような面白い繋ぎが出来たと感心しました。
しかし、改めて思ったのは、多くの人が知っている日本の唱歌系の編曲ものはやはりウケが良いということ。演奏会後にアンケートを読みましたが(基本的に全て好意的な感想ですが)特に「唄・今昔物語」には多くのお客さんが楽しく聴いてくれたのが良く分かりました。
いいと思う理由を大別すると、「子供の頃を思い出して懐かしくなった」系、「オリジナル合唱曲で無くて知っている曲だから良かった」系、「聞き慣れた曲を違ったアレンジで聴いて面白かった」系の3パターンくらい。
最初の二つは普段合唱を聴かない方々ですから、まさにこういう方々に気持ち良く聴いてもらえるためのレパートリーとして、やはり唱歌系のステージは重要なものだと再確認。
三つ目は、もうちょっと音楽的な聞き方をしてくれた方で、ポリフォニックにしたり、転調したり、和音を変えたりしたことで喜んでくれた方々。もうそんなことなら、いくらでもしてあげますよ!
浜松少年少女合唱団は今年の夏にドイツ演奏旅行の予定があり、ドイツの教会でこの編曲を演出付きで演奏するそうです。
原曲を知らない人はどのような反応をするか若干不安はあります。そのとき初めて純粋に編曲の面白さを聴いてもらえるのかもしれません。
オリジナル曲ではないので、このページには紹介を載せていませんが、興味のある方がいましたら楽譜をお送りすることは可能ですので、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。
2012年4月29日日曜日
2012年4月25日水曜日
作曲とアイデア
創作活動はアイデア出しの連続です。少なくとも、私にとってそういう観点で曲を書いています。今回はアイデアについて、作曲という観点から自分の感じることを書いてみようと思います。
まず曲の構想段階でのアイデアはどうでしょうか。
合唱曲の場合、一般的には既存の詩を選んでそれに曲をつけることを選択します。これが曲の構想とほぼ一致する行為です。詩が決まれば、曲の雰囲気も、規模感も、楽曲の起伏もだいたい決まってくるからです。
自分がよく使っている詩人から詩を選ぶ場合、この段階でのアイデア度は低くなります。
逆に、完全ヴォカリーズであるとか、切れ切れな言葉の断片をテキストにするとか、長い文章から言葉を抜き取るとか、もちろん自分で詩を書くとか、テキスト自体を創作するということになると、そこには多くのアイデアが入る余地が出てきます。
そういう意味で作曲=アイデアとでも呼べるのが、マリー・シェーファーの一連の合唱曲です。Magic Songsでは動物たちの生態のようなものが音楽化されているし、ガムランでは器楽を敢えて口三味線で歌わせます。
それは音のでるものなら、何でも声で真似しちゃえ、という態度がベースになっていますし、その上で作曲家が何を主張したいのかがより明瞭になるわけです。
大切なのは、「これを声でやったら面白い」というアイデアだけでなく、その中にどんな主張を込めるかという点です。アイデア優先のとき、それが目的になってしまうと、そもそもなぜそうなのかという視点がすっかり抜け落ちることが起きてしまうからです。
主張というとややお固い感じを受けますし、平和とか愛とか、そういうありきたりで抽象的なものをイメージする人も多いですが、そういう部分にももっと独自性があるべきでしょう。この辺りが凡庸なものと面白いものの分かれ目になると思っています。
次に実際の作曲過程のアイデアはどんなことが考えられるでしょう。
これは現実には、手癖との戦いとも言っていいと思っています。鍵盤を叩きながらフレーズを考えたり和音の展開を考えていくと、どんどんいつもの自分のパターンに陥っていきます。
もちろんアイデア自体、自分が思い付くものには限りがあるし、自分のパターン化があるわけですが、それでもマンネリな曲展開に刺激を与えるために、時々意識的なアイデア投入が必要です。
例えば、最低音のパートであるベースに和音の第三音を持っていくとか、突然ユニゾンにするなど和音感を逆に薄くしてみるとか、ビートを四分音符ベースから二分音符ベースにしてみるとか、変拍子を挿入してみるとか、いろいろな方法で曲に刺激を与えていきます。
今書いたことは自分が思い付いて書いていることなので、私の曲に顕著なのですが、もちろん他の作曲家にはそれぞれ自分なりのパターンがあるものと思います。
こうやって考えてみると、作曲におけるアイデアというのは、マンネリ打破のための積極的な刺激投入策という言い方が出来るのかもしれません。
まず曲の構想段階でのアイデアはどうでしょうか。
合唱曲の場合、一般的には既存の詩を選んでそれに曲をつけることを選択します。これが曲の構想とほぼ一致する行為です。詩が決まれば、曲の雰囲気も、規模感も、楽曲の起伏もだいたい決まってくるからです。
自分がよく使っている詩人から詩を選ぶ場合、この段階でのアイデア度は低くなります。
逆に、完全ヴォカリーズであるとか、切れ切れな言葉の断片をテキストにするとか、長い文章から言葉を抜き取るとか、もちろん自分で詩を書くとか、テキスト自体を創作するということになると、そこには多くのアイデアが入る余地が出てきます。
そういう意味で作曲=アイデアとでも呼べるのが、マリー・シェーファーの一連の合唱曲です。Magic Songsでは動物たちの生態のようなものが音楽化されているし、ガムランでは器楽を敢えて口三味線で歌わせます。
それは音のでるものなら、何でも声で真似しちゃえ、という態度がベースになっていますし、その上で作曲家が何を主張したいのかがより明瞭になるわけです。
大切なのは、「これを声でやったら面白い」というアイデアだけでなく、その中にどんな主張を込めるかという点です。アイデア優先のとき、それが目的になってしまうと、そもそもなぜそうなのかという視点がすっかり抜け落ちることが起きてしまうからです。
主張というとややお固い感じを受けますし、平和とか愛とか、そういうありきたりで抽象的なものをイメージする人も多いですが、そういう部分にももっと独自性があるべきでしょう。この辺りが凡庸なものと面白いものの分かれ目になると思っています。
次に実際の作曲過程のアイデアはどんなことが考えられるでしょう。
これは現実には、手癖との戦いとも言っていいと思っています。鍵盤を叩きながらフレーズを考えたり和音の展開を考えていくと、どんどんいつもの自分のパターンに陥っていきます。
もちろんアイデア自体、自分が思い付くものには限りがあるし、自分のパターン化があるわけですが、それでもマンネリな曲展開に刺激を与えるために、時々意識的なアイデア投入が必要です。
例えば、最低音のパートであるベースに和音の第三音を持っていくとか、突然ユニゾンにするなど和音感を逆に薄くしてみるとか、ビートを四分音符ベースから二分音符ベースにしてみるとか、変拍子を挿入してみるとか、いろいろな方法で曲に刺激を与えていきます。
今書いたことは自分が思い付いて書いていることなので、私の曲に顕著なのですが、もちろん他の作曲家にはそれぞれ自分なりのパターンがあるものと思います。
こうやって考えてみると、作曲におけるアイデアというのは、マンネリ打破のための積極的な刺激投入策という言い方が出来るのかもしれません。
2012年4月21日土曜日
PCも携帯も無かった時代
気が付けば私も40代半ば。昔のことを考えてみると、やはり歳を取ったんだよなあと実感します。
自分の息子はまだ3歳前ですが、PCでYouTubeを見たり、iPhoneやDSのタッチパネルで遊んだりしています。
翻って自分のことを考えてみれば・・・私がPCに継続的に触れたのは、就職してからのこと。大学の研究室には置いてありましたが、もちろん個人用ではありませんでした。
携帯が一般化したのは90年代の後半。恐らく私が初めて買ったのは30歳頃でしょう。
そうやって考えてみると、物心ついた頃にすでにPCも携帯もあった今どきの新入社員とか、ましてや物心つく前から電子機器に囲まれている息子の環境などは、自分の経験からは思いもよらぬ状況であり、そこで形成されるモノゴトの考え方なども当然変わってしかるべきなのかもしれません。
私は、多感な学生時代、PCも携帯もなくどうやって生きていたのでしょう。
そう考えると不思議な感じがしてきます。今や、PCや携帯無しには生活もままなりません。そんなのは文明以前の世界に思えます。でも、確かに私が若かった時代にはそんなハイテク環境にはなかったのです。
PCが無かった時代、自分が見たり聞いたりすることが世界の全てでした。
ネットで会ったことも無い誰かの生活を知ることも無かったし、自分の考えをネットで書くなんてことも無かった。
何かを伝えたくても、家に電話をかけるしかなかったし、もちろん電話をかけても家にいるとは限りません。女の子の家に電話をかければ、まず必ず親が電話に出てきます。長電話すれば家の人にも迷惑がかかるし、家族にも「いまの人、誰なの」みたいな詮索をされることもあったでしょう。
私たちの世代は知らないうちにそういう時代の常識が刷り込まれていて、それが若い人たちとの意識のギャップになっているのかもしれないと思ったりします。
何かを伝えるためにそれ以前のことで苦労した時代。しかし、物理的に他人に伝えることがいとも簡単にできるようになった現代。
私は昔は良かったなどと言う気はありません。正直言って、今のほうが断然面白い。それでも、PCも携帯も無かった時代に自分は生きていたということは、これからの人生においても何かしら影響を与えるのではないかと感じます。
自分の息子はまだ3歳前ですが、PCでYouTubeを見たり、iPhoneやDSのタッチパネルで遊んだりしています。
翻って自分のことを考えてみれば・・・私がPCに継続的に触れたのは、就職してからのこと。大学の研究室には置いてありましたが、もちろん個人用ではありませんでした。
携帯が一般化したのは90年代の後半。恐らく私が初めて買ったのは30歳頃でしょう。
そうやって考えてみると、物心ついた頃にすでにPCも携帯もあった今どきの新入社員とか、ましてや物心つく前から電子機器に囲まれている息子の環境などは、自分の経験からは思いもよらぬ状況であり、そこで形成されるモノゴトの考え方なども当然変わってしかるべきなのかもしれません。
私は、多感な学生時代、PCも携帯もなくどうやって生きていたのでしょう。
そう考えると不思議な感じがしてきます。今や、PCや携帯無しには生活もままなりません。そんなのは文明以前の世界に思えます。でも、確かに私が若かった時代にはそんなハイテク環境にはなかったのです。
PCが無かった時代、自分が見たり聞いたりすることが世界の全てでした。
ネットで会ったことも無い誰かの生活を知ることも無かったし、自分の考えをネットで書くなんてことも無かった。
何かを伝えたくても、家に電話をかけるしかなかったし、もちろん電話をかけても家にいるとは限りません。女の子の家に電話をかければ、まず必ず親が電話に出てきます。長電話すれば家の人にも迷惑がかかるし、家族にも「いまの人、誰なの」みたいな詮索をされることもあったでしょう。
私たちの世代は知らないうちにそういう時代の常識が刷り込まれていて、それが若い人たちとの意識のギャップになっているのかもしれないと思ったりします。
何かを伝えるためにそれ以前のことで苦労した時代。しかし、物理的に他人に伝えることがいとも簡単にできるようになった現代。
私は昔は良かったなどと言う気はありません。正直言って、今のほうが断然面白い。それでも、PCも携帯も無かった時代に自分は生きていたということは、これからの人生においても何かしら影響を与えるのではないかと感じます。
2012年4月17日火曜日
ダサいアイデアにならないために
良いアイデアを考えよう、と思うほどなかなか良いアイデアは出ませんね。
私が、心の中で「それ、ダサい」と思う場合、いくつかパターンがあります。これを反面教師にすれば、アイデアがダサくならないようになるかもしれません。
1.意味から攻めてしまう
例えば何かの名前を考えたり、キャッチフレーズを考えようと言う場合、多くの人が「何をしたいのか」という意味を考え、そこから思い付く言葉を使おうとします。
これは、目的に対して非常に合理的な方法のように思えます。
しかし、名前とかキャッチフレーズとかって、もっと感覚的でナンセンスなものだったりします。そこに重々しい意味が加わると、妙に暑苦しい雰囲気になってしまいます。
特に合唱系では、そういう傾向が強いです。
2.無駄に横文字にする
外国語にするのが全部いけないわけではないけれど、意味もなく英語にしたりフランス語にしたりするとダサいことが多いです。
思いがけない組み合わせならいいけれど、誰でも知っている基本単語をわざわざ使ったり、逆に誰も知らないような単語を使ったりというのはセンスを疑われます。
最近、芸能人とかで自分の名前をわざわざローマ字にして芸名にする人がいますが、あれも私的には非常にダサイ行為です。
3.長過ぎる
会社の資料とかでもそうですが、長いほど立派に見える、というややレベルの低い満足感でものを作る人がいます。ものには最適な長さというものがあります。効果的に何かを伝えたいとき、それが長過ぎないかはよく考えてみる必要があります。
4.危険なオヤジギャグ
シャレのセンスは難しいです。思い付いたときはニヤッとしても、改めて人から聞かされるともうオヤジギャグとしか思えないレベルだったりします。
テレビのCMなどではオヤジギャグをうまく使う場合もありますが、それはコンテキスト依存なので素人は止めたほうがいいかもしれません。
5.シュールな世界に飛び込め!
結局、凡人のアイデアはシュールなものからどうしても遠ざかってしまうのです。それは1.でいった意味から攻めてしまうことが大きな要因です。
思い切って、ナンセンスでシュールな世界に飛び込んでみましょう。後は数をこなせばこなれてくるのです。
人の注目を集めるものには、どうしても適度なシュール感が必要です。なぜソフトバンクのCMでは犬がお父さんなのか、それに理由をつけたらちっとも面白くない。そういう荒唐無稽な設定を現実にしてしまったクリエータのアイデア(のベクトル)が非常にレベルが高かったのだと思います。
私が、心の中で「それ、ダサい」と思う場合、いくつかパターンがあります。これを反面教師にすれば、アイデアがダサくならないようになるかもしれません。
1.意味から攻めてしまう
例えば何かの名前を考えたり、キャッチフレーズを考えようと言う場合、多くの人が「何をしたいのか」という意味を考え、そこから思い付く言葉を使おうとします。
これは、目的に対して非常に合理的な方法のように思えます。
しかし、名前とかキャッチフレーズとかって、もっと感覚的でナンセンスなものだったりします。そこに重々しい意味が加わると、妙に暑苦しい雰囲気になってしまいます。
特に合唱系では、そういう傾向が強いです。
2.無駄に横文字にする
外国語にするのが全部いけないわけではないけれど、意味もなく英語にしたりフランス語にしたりするとダサいことが多いです。
思いがけない組み合わせならいいけれど、誰でも知っている基本単語をわざわざ使ったり、逆に誰も知らないような単語を使ったりというのはセンスを疑われます。
最近、芸能人とかで自分の名前をわざわざローマ字にして芸名にする人がいますが、あれも私的には非常にダサイ行為です。
3.長過ぎる
会社の資料とかでもそうですが、長いほど立派に見える、というややレベルの低い満足感でものを作る人がいます。ものには最適な長さというものがあります。効果的に何かを伝えたいとき、それが長過ぎないかはよく考えてみる必要があります。
4.危険なオヤジギャグ
シャレのセンスは難しいです。思い付いたときはニヤッとしても、改めて人から聞かされるともうオヤジギャグとしか思えないレベルだったりします。
テレビのCMなどではオヤジギャグをうまく使う場合もありますが、それはコンテキスト依存なので素人は止めたほうがいいかもしれません。
5.シュールな世界に飛び込め!
結局、凡人のアイデアはシュールなものからどうしても遠ざかってしまうのです。それは1.でいった意味から攻めてしまうことが大きな要因です。
思い切って、ナンセンスでシュールな世界に飛び込んでみましょう。後は数をこなせばこなれてくるのです。
人の注目を集めるものには、どうしても適度なシュール感が必要です。なぜソフトバンクのCMでは犬がお父さんなのか、それに理由をつけたらちっとも面白くない。そういう荒唐無稽な設定を現実にしてしまったクリエータのアイデア(のベクトル)が非常にレベルが高かったのだと思います。
2012年4月14日土曜日
アイデアとは何か?
今やどんな活動をしていても、何か新しいアイデアを考えなければならない、という状況にある人は多いのではないでしょうか。
私は幸か不幸か、アイデアを出せ、と言われて追い詰められるような(幸せな)立場にあまりなったことはありませんが、日頃からアイデアを考えるのが大好きな性分で、自分の領域ではないことまであれこれ意見を言いたくなってしまう、ちょっと面倒な人です。最近は、歳を取って発言し易くなったせいか、そういう性格がさらに加速している気もします。
私から見ると、いろいろな場所で本来アイデアを出すべき人が全くというほど出していないように見えます。
あるいは、そういう立場の人が「みんないいアイデアはないか?」と尋ねるようなこともしばしば。残念ながら、そのような場でいくら優れたアイデアが出されても、それがうまく実行されることはないでしょう。
そこに、アイデアに関する一つの真理があります。
つまり、アイデアの実践は、アイデアを出した者が中心になってマネージしなければ本当の意味では達成できない、と私は考えます。
それはなぜかというと、アイデアとは抽象的なイメージでシンプルなキーワードで表現することは可能ではあるけれど、逆にそれだけで全てを伝えることは不可能だからです。
アイデアを考えた人も、もちろん細部にいたって完璧に考えているわけではありません。しかしアイデアとは座標ではなく、ベクトルとでもいうべきものです。だから、それを作る過程でアイデアを出した者が全ての決定権を握らなければ、本当の意味でそのアイデアを達成したことにはならないのです。
またアイデアとは、基本的には既存のものの組み合わせです。
逆にその程度のものでなければ、一般の人はついて来れません。人に何か影響を与えるためにアイデアを考えるのですから、一般の人がついて来れないモノを考えても意味はないのです。
ところが、既存のありものというだけで、「新しくない」と判断するセンスのない人がどうしても存在します。逆に、今までに無い新しさを追求するあまり、非常に痛々しいモノを作ってしまうようなこともままあるものです。
クリエイティビティの質とは、「既存のものの組み合わせ」のセンスの善し悪しなのです。そのためには、既存の優れたアイデアを常日頃から摂取するような生活をしなければなりません。その人がアイデアの宝庫であるためには、そのセンスを研ぎすますために、他人の作品から刺激を受け続ける必要があります。その蓄積が、組み合わせの可能性をさらに増やしていくことになるからです。
私は幸か不幸か、アイデアを出せ、と言われて追い詰められるような(幸せな)立場にあまりなったことはありませんが、日頃からアイデアを考えるのが大好きな性分で、自分の領域ではないことまであれこれ意見を言いたくなってしまう、ちょっと面倒な人です。最近は、歳を取って発言し易くなったせいか、そういう性格がさらに加速している気もします。
私から見ると、いろいろな場所で本来アイデアを出すべき人が全くというほど出していないように見えます。
あるいは、そういう立場の人が「みんないいアイデアはないか?」と尋ねるようなこともしばしば。残念ながら、そのような場でいくら優れたアイデアが出されても、それがうまく実行されることはないでしょう。
そこに、アイデアに関する一つの真理があります。
つまり、アイデアの実践は、アイデアを出した者が中心になってマネージしなければ本当の意味では達成できない、と私は考えます。
それはなぜかというと、アイデアとは抽象的なイメージでシンプルなキーワードで表現することは可能ではあるけれど、逆にそれだけで全てを伝えることは不可能だからです。
アイデアを考えた人も、もちろん細部にいたって完璧に考えているわけではありません。しかしアイデアとは座標ではなく、ベクトルとでもいうべきものです。だから、それを作る過程でアイデアを出した者が全ての決定権を握らなければ、本当の意味でそのアイデアを達成したことにはならないのです。
またアイデアとは、基本的には既存のものの組み合わせです。
逆にその程度のものでなければ、一般の人はついて来れません。人に何か影響を与えるためにアイデアを考えるのですから、一般の人がついて来れないモノを考えても意味はないのです。
ところが、既存のありものというだけで、「新しくない」と判断するセンスのない人がどうしても存在します。逆に、今までに無い新しさを追求するあまり、非常に痛々しいモノを作ってしまうようなこともままあるものです。
クリエイティビティの質とは、「既存のものの組み合わせ」のセンスの善し悪しなのです。そのためには、既存の優れたアイデアを常日頃から摂取するような生活をしなければなりません。その人がアイデアの宝庫であるためには、そのセンスを研ぎすますために、他人の作品から刺激を受け続ける必要があります。その蓄積が、組み合わせの可能性をさらに増やしていくことになるからです。
2012年4月11日水曜日
作曲者と演奏者の関係
先日の日曜日、拙作「わらははわらべ」が久し振りに演奏されることになり、それを聴きに東京に行ってきました。とても素晴らしい演奏で、作曲家として大変幸せな時間を過ごすことが出来ました。
しかし、この作曲家という立場は考えてみればおかしなものです。
自分では全く演奏に関与していないのに、多くの人が必要以上に尊敬の念を抱いているように見えます。
例えば演劇で言えば、作曲家は脚本家に該当し、指揮者は演出家に該当する、といった感じでしょうか。
確かに脚本は芸術家っぽいけれど、作曲家ほど表舞台に出ているような存在ではない気がします。どちらかというと、演劇の主役は圧倒的に役者です。
私は音楽についても同じような感覚をずっと持ち続けています。
つまり音楽で一番賞賛されるべきは、演奏者ではないかと思うのです。もちろん、賞賛されるに値するような演奏したときの話です。
お客さんは人並みはずれた、素晴らしい演奏技術を楽しみたいのではないでしょうか。音楽の楽しみの第一はやはりヴィルトゥオーゾにあるのではないかと思うのです。
演奏技術でなかったとしても、舞台に立つヒーロー、あるいはカリスマの声を聞いて酔いたいという気持ちもあるでしょう。音楽の感動からはやや離れますが、それは宗教に熱狂する気持ちとそれほど変わらない気持ちかもしれません。
だから本来は、作曲家・作詞家がそのまま演奏者であることが一番良いのです。
それが最も自然な形で出来ているジャンルは、ロック・ポップスであり、ジャズです。そしてそういう考えから一番ほど遠いジャンルがクラシックです。
しかし残念ながら、演奏技術に優れていても作曲技術に優れていない場合もありますし、逆の場合もあります。だからこそ、両方を備えた才能は全く類い稀な芸術家ということになるわけですが、こういったミスマッチを解消しようとしたのが、作曲と演奏の分離ということなのでしょう。
クラシック音楽ではなぜかそのような分業体制が長い歴史の中で確立されてしまったのです。
しかし、それでもなお私が言いたいのは、本当に伝えたいことはその人にしか分からない、ということ。作曲や作詞をした人が自らの歌で演奏で伝えることが、最も効率的に音楽に込められた想いを表現できるのです。
作曲家が書いた楽譜に書かれたことは、音楽演奏に必要なメッセージ全体から見れば遥かに少ない量なのです。そのことに演奏家は自覚的であらねばなりません。
それでも分業体制が続くのであれば、作曲・作詩の創作家はその想いを楽譜に上手に織り込んでいくべきですが、それ以上に演奏家は楽譜に書かれた情報をはるかに超えたメッセージを音楽に込めなければなりません。
楽譜に書かれる情報には限界があるのですから、演奏家にはもっともっと楽譜に書いてある以上の想いを演奏に込めて欲しいのです。
しかし、この作曲家という立場は考えてみればおかしなものです。
自分では全く演奏に関与していないのに、多くの人が必要以上に尊敬の念を抱いているように見えます。
例えば演劇で言えば、作曲家は脚本家に該当し、指揮者は演出家に該当する、といった感じでしょうか。
確かに脚本は芸術家っぽいけれど、作曲家ほど表舞台に出ているような存在ではない気がします。どちらかというと、演劇の主役は圧倒的に役者です。
私は音楽についても同じような感覚をずっと持ち続けています。
つまり音楽で一番賞賛されるべきは、演奏者ではないかと思うのです。もちろん、賞賛されるに値するような演奏したときの話です。
お客さんは人並みはずれた、素晴らしい演奏技術を楽しみたいのではないでしょうか。音楽の楽しみの第一はやはりヴィルトゥオーゾにあるのではないかと思うのです。
演奏技術でなかったとしても、舞台に立つヒーロー、あるいはカリスマの声を聞いて酔いたいという気持ちもあるでしょう。音楽の感動からはやや離れますが、それは宗教に熱狂する気持ちとそれほど変わらない気持ちかもしれません。
だから本来は、作曲家・作詞家がそのまま演奏者であることが一番良いのです。
それが最も自然な形で出来ているジャンルは、ロック・ポップスであり、ジャズです。そしてそういう考えから一番ほど遠いジャンルがクラシックです。
しかし残念ながら、演奏技術に優れていても作曲技術に優れていない場合もありますし、逆の場合もあります。だからこそ、両方を備えた才能は全く類い稀な芸術家ということになるわけですが、こういったミスマッチを解消しようとしたのが、作曲と演奏の分離ということなのでしょう。
クラシック音楽ではなぜかそのような分業体制が長い歴史の中で確立されてしまったのです。
しかし、それでもなお私が言いたいのは、本当に伝えたいことはその人にしか分からない、ということ。作曲や作詞をした人が自らの歌で演奏で伝えることが、最も効率的に音楽に込められた想いを表現できるのです。
作曲家が書いた楽譜に書かれたことは、音楽演奏に必要なメッセージ全体から見れば遥かに少ない量なのです。そのことに演奏家は自覚的であらねばなりません。
それでも分業体制が続くのであれば、作曲・作詩の創作家はその想いを楽譜に上手に織り込んでいくべきですが、それ以上に演奏家は楽譜に書かれた情報をはるかに超えたメッセージを音楽に込めなければなりません。
楽譜に書かれる情報には限界があるのですから、演奏家にはもっともっと楽譜に書いてある以上の想いを演奏に込めて欲しいのです。
2012年4月6日金曜日
音楽とはパフォーマンスである
J-POPから、ロック、ジャズ、クラシック、そして現代音楽まで俯瞰してみたとき、一言で音楽といってもとても一括りには出来ない幅の広さがあります。
単に楽器を使って音を鳴らせば音楽というのでしょうが、そもそもそういう括りで特定の芸術活動をひとまとめにしてはいけないのかもしれません。
とはいえ、舞台の上で音楽を演奏する、という行為にはある一定の共通点があることは確かなことだと思えます。
例えば、物音一つ立ててはいけない緊迫感の中で聞く音楽があります。
奏者の音楽観、世界観を全身で受け止め、一瞬たりとも気を抜いてはいけないような時間密度の高い音楽体験です。聴く側にも厳しい緊張を強いるのですが、内面に訴えるその力は、ときに強く心を揺さぶり、演奏後に深い感銘をもたらします。
しかし、世の中はそのような音楽ばかりではありません。
演奏会であったとしても、自らも身体を揺らしたりして、もっとリラックスして聞くことが出来、気持ちを高揚して人々を夢の世界に連れてってくれるパフォーマンスもあります。
没入感を高めるため、音量は上げられ、照明も暗くなったり派手な色を使ったり様々な工夫が凝らされます。舞台に立つ人の強力なカリスマ性は、観る者を一種の宗教的興奮にさせるのです。
これらは、いずれも周到な用意で準備された音楽をベースにしたパフォーマンスです。
どのような形であれ、観客は高額なお金を払って観るのですから、その様式に従った鑑賞態度を取るのは当たり前のこと。つまり聴衆さえ、そのパフォーマンスの共犯者であり、パフォーマンスの一部であると言えるでしょう。
しかるに音楽のプロでない者というのは、お客さんまで共犯にしてしまうようなパフォーマンスが出来ていないのです。
そもそも自分のパフォーマンスが上の例のどちら側に属するのかも明瞭ではないし、自分が望むパフォーマンス空間が自分で分かっていない可能性があります。
音楽の練習をしていると、アマチュアは自分たちが奏でている音楽そのものにしか目にいかないものですが、本来聴衆が求めているものは演奏者との一体感であり、それを感じさせるためのパフォーマンスなのです。
そのような自覚を持たないと、練習の意味も方向性も迷走してしまうのではないか、そんな気がします。
単に楽器を使って音を鳴らせば音楽というのでしょうが、そもそもそういう括りで特定の芸術活動をひとまとめにしてはいけないのかもしれません。
とはいえ、舞台の上で音楽を演奏する、という行為にはある一定の共通点があることは確かなことだと思えます。
例えば、物音一つ立ててはいけない緊迫感の中で聞く音楽があります。
奏者の音楽観、世界観を全身で受け止め、一瞬たりとも気を抜いてはいけないような時間密度の高い音楽体験です。聴く側にも厳しい緊張を強いるのですが、内面に訴えるその力は、ときに強く心を揺さぶり、演奏後に深い感銘をもたらします。
しかし、世の中はそのような音楽ばかりではありません。
演奏会であったとしても、自らも身体を揺らしたりして、もっとリラックスして聞くことが出来、気持ちを高揚して人々を夢の世界に連れてってくれるパフォーマンスもあります。
没入感を高めるため、音量は上げられ、照明も暗くなったり派手な色を使ったり様々な工夫が凝らされます。舞台に立つ人の強力なカリスマ性は、観る者を一種の宗教的興奮にさせるのです。
これらは、いずれも周到な用意で準備された音楽をベースにしたパフォーマンスです。
どのような形であれ、観客は高額なお金を払って観るのですから、その様式に従った鑑賞態度を取るのは当たり前のこと。つまり聴衆さえ、そのパフォーマンスの共犯者であり、パフォーマンスの一部であると言えるでしょう。
しかるに音楽のプロでない者というのは、お客さんまで共犯にしてしまうようなパフォーマンスが出来ていないのです。
そもそも自分のパフォーマンスが上の例のどちら側に属するのかも明瞭ではないし、自分が望むパフォーマンス空間が自分で分かっていない可能性があります。
音楽の練習をしていると、アマチュアは自分たちが奏でている音楽そのものにしか目にいかないものですが、本来聴衆が求めているものは演奏者との一体感であり、それを感じさせるためのパフォーマンスなのです。
そのような自覚を持たないと、練習の意味も方向性も迷走してしまうのではないか、そんな気がします。
ラベル:
音楽
2012年4月3日火曜日
音楽の未来
音楽ってこれからどんなふうに変わっていくのでしょう。
この前、テレビで20〜30年前のヒット曲を流していて、確かに当時の楽器の音とかはちょっと時代を感じるのだけど、基本的なリズム感とか、メロディとか、歌詞の雰囲気とかってほとんど今と変わっていないような気もしたのです。
ところが、その前の70年代、60年代・・・と時代を遡ると音楽性そのものが変わってきます。いや、私には違って聞こえるだけなのかもしれません。でも私には、80年代以前は単純に音楽がどんどん変わり続けていたように感じるのです。
音楽が進化せずに停滞し始めたと私が思うのは90年代以降でしょうか。
もちろん,厳密な意味で言えば音楽は変わっています。しかし、それまでの変化幅に比べると明らかに変化量が小さくなった感じがするのです。
一つには電気楽器の発展が一段落付いたことが挙げられます。
ギターやベースがエレキ化された後、電子鍵盤楽器が70年代に登場すると、録音技術の向上もあって音楽の質感があれよあれよという間に変わってきたのがこの時代。
しかし、シンセサイザーで出来ることが一通り開拓されると、音楽性に大きな変化が見られなくなりました。
結果的に、音楽で語られる言葉も、それを歌う歌手のあり方も、ここ20年それほど変わってきた感じがしません。
しかし、これから大衆音楽がどのように変わるか考えたとき、いくつかのポイントは挙げられると思います。
一つは、音楽文化の中心が欧米、日本から、アジア、中東、南米などに変わるのではないか、ということ。それは単に、経済の中心がもはや欧米ではなくなるということに起因しています。
今後、BRICsと言われるような国々が経済発展すれば、それらの国々の文化が世界に向けて発信されることが多くなるでしょう。そのとき、今まであまり聞いたことのないエキゾチックなものがあれば、世界規模で流行るようになる可能性もあります。
もう一つは、音楽製作がよりパーソナルになった結果、バンドといった演奏形態が一般的では無くなるかもしれません。むしろ、録音された伴奏をバックに、弾き語りしていくような演奏が増えてくるような気がします。
その場合、リズムも普通のドラムセットである必要もなく、ここ数十年続いたバンド的な音楽の音像はだんだん少なくなっていくということはないでしょうか。
とは言え、若者がいる限り、力強いビートのある音楽、ダンスで必要な音楽は無くなるはずもありません。むしろ、こちらのほうはDJっぽいコラージュ的な音楽作りがより発展していくような気もしています。
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