先日の日曜日、拙作「わらははわらべ」が久し振りに演奏されることになり、それを聴きに東京に行ってきました。とても素晴らしい演奏で、作曲家として大変幸せな時間を過ごすことが出来ました。
しかし、この作曲家という立場は考えてみればおかしなものです。
自分では全く演奏に関与していないのに、多くの人が必要以上に尊敬の念を抱いているように見えます。
例えば演劇で言えば、作曲家は脚本家に該当し、指揮者は演出家に該当する、といった感じでしょうか。
確かに脚本は芸術家っぽいけれど、作曲家ほど表舞台に出ているような存在ではない気がします。どちらかというと、演劇の主役は圧倒的に役者です。
私は音楽についても同じような感覚をずっと持ち続けています。
つまり音楽で一番賞賛されるべきは、演奏者ではないかと思うのです。もちろん、賞賛されるに値するような演奏したときの話です。
お客さんは人並みはずれた、素晴らしい演奏技術を楽しみたいのではないでしょうか。音楽の楽しみの第一はやはりヴィルトゥオーゾにあるのではないかと思うのです。
演奏技術でなかったとしても、舞台に立つヒーロー、あるいはカリスマの声を聞いて酔いたいという気持ちもあるでしょう。音楽の感動からはやや離れますが、それは宗教に熱狂する気持ちとそれほど変わらない気持ちかもしれません。
だから本来は、作曲家・作詞家がそのまま演奏者であることが一番良いのです。
それが最も自然な形で出来ているジャンルは、ロック・ポップスであり、ジャズです。そしてそういう考えから一番ほど遠いジャンルがクラシックです。
しかし残念ながら、演奏技術に優れていても作曲技術に優れていない場合もありますし、逆の場合もあります。だからこそ、両方を備えた才能は全く類い稀な芸術家ということになるわけですが、こういったミスマッチを解消しようとしたのが、作曲と演奏の分離ということなのでしょう。
クラシック音楽ではなぜかそのような分業体制が長い歴史の中で確立されてしまったのです。
しかし、それでもなお私が言いたいのは、本当に伝えたいことはその人にしか分からない、ということ。作曲や作詞をした人が自らの歌で演奏で伝えることが、最も効率的に音楽に込められた想いを表現できるのです。
作曲家が書いた楽譜に書かれたことは、音楽演奏に必要なメッセージ全体から見れば遥かに少ない量なのです。そのことに演奏家は自覚的であらねばなりません。
それでも分業体制が続くのであれば、作曲・作詩の創作家はその想いを楽譜に上手に織り込んでいくべきですが、それ以上に演奏家は楽譜に書かれた情報をはるかに超えたメッセージを音楽に込めなければなりません。
楽譜に書かれる情報には限界があるのですから、演奏家にはもっともっと楽譜に書いてある以上の想いを演奏に込めて欲しいのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿