2012年3月3日土曜日

私たちが好きな音楽


マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンといった有名シンガーが不慮の死で亡くなった後、多くの人たちが二人に弔意を示し、また偉大なアーティストを失ったと嘆きました。
確かに彼らは圧倒的なCD売り上げを誇っており、それは取りも直さず多くの人々がその音楽を聴きそれに感動したということに違いありません。

私自身は、実際のところ興味を持って聴いていなかったので、喪失感といった類いの感情は正直全く感じませんでした。むしろ若くして有名人になってしまったセレブの末路、というようなストーリーに思いを馳せてしまいました。
他人がある音楽を好きだと言っていることを非難するつもりは全くありませんが、あるところで火が付き大衆化してしまった音楽に対して、多くの人々は無批判に受け入れ、他の人と同じように鑑賞し、同じような想いを持ってしまうようです。音楽に関して言えば、それは決して日本だけの現象ではないでしょう。

この世の中に存在する音楽には、その受容のされ方においていくつかの種類があると思います。
よせばいいのに、それをまたまた独断で分類してみます。
レベル1)最低でも1000万人以上に流通した(耳に入った)超有名曲
レベル2)あるカテゴリー(世代、地方、特定ジャンル愛好家)の中で十分に流通した有名な曲
レベル3)世間的にも、カテゴリー内でもそれほど有名ではないけれど、流通経路を持っており、知る人ぞ知る音楽。
レベル4)一般に流通しておらず、ある界隈だけで知られている曲
レベル5)作った人やその家族・知人くらいしか存在を知らない曲

全く共通点がない一般人同士が会話の中で使っても構わないネタは、レベル1に限定されます。もはやマイケル・ジャクソンなどはこのレベルで、世間常識として知っておくべき状態。
ただし芸術においては「知らなきゃいけないから聴いた」という感覚は心の奥にしまわれ、「世間で流行っているから聴いてみたら素晴らしいと感じた」というように多くの人が自己暗示をかけます。
まあ一種の権威主義なんですが、そうやって時代の感覚に寄り添って生きていくことは、むしろごく自然なことと言ってもいいのかもしれません。
それでも、無批判にレベル1の音楽を礼賛しているのをみると、ややその芸術観に底の浅さを感じないこともありません。テレビのコメンテータなども発言を良く聞けば、どの程度の感性で音楽を聴いているかは何となく分かってきます。

レベル1やレベル2に属する音楽は、そこに属しているというだけで多大なアドバンテージを持っており、メディアが発達した現在では、その他の音楽に対して圧倒的に優位です。
実際世の中のほとんどの人は、レベル2までの音楽があればそれ以上のものは要らないのです。
しかし、それしか知られない文化レベルは専門家的な感性からみれば、ちょっと不毛でもあります。これからの時代、ネットで個人の趣味が増幅されるようになれば、もっと好みは多様化し細分化される可能性もあります。そのとき、レベル3以下の音楽で質が伴うものが、広く受け入れられるようになると面白くなっていくのにと感じます。

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