2012年3月31日土曜日

組織がパフォーマンスを上げるために


会社にしても、趣味の合唱にしても、ある組織がいろいろな問題を解決しパフォーマンスを上げるためには、そのための仕組みづくりが必要です。
何か問題があったとします。技術的な問題であれば、すぐに考えるのは、技術力を上げるために何か講義を受けたりレッスンを受けたり、という取り組みをすることが思い付きます。
例えば合唱団で言えば、発声が良くないと言われたらボイトレをやろうというような取り組み。これは合唱でなくても、いろいろな組織で通常行なわれることです。

さて、そのような取り組みをした結果、成果は出たでしょうか?
たいていの場合、個人のスキルが向上したかどうかを判断するのは大変難しいものです。これだけ練習したんだから、これだけお金をかけたのだから、これだけ特別レッスンしたのだから、自分のスキルが向上したのだと誰もが思いたい。もちろん、それを企画した人もそう思いたい。
そういう気持ちが前に立つと、取り組みをしたことだけで自己満足してしまい、本当にスキル向上があったのかが曖昧にされてしまいます。少なくとも、みんなが決めてやったことなのだから、意味が無かったとはとても言いにくいでしょう。

それを判断出来るのは、客観的に判断できる第三者です。
それは能力の問題とかではないのです。同じ組織内にいたら感情的な問題もあるから言いづらいこともあるでしょう。だからこそ、外部に何らかの客観的な指標を求めなくてはなりません。
それは合唱団の場合、コンクールというような方法もあるでしょうが、それだけではありません。とある有識者に定期的に意見を伺うだけでもいいのです。同じ人なら、前と比べて良くなったとか判断してくれます。いわば定点観測というやつです。

つまり組織が何らかのパフォーマンスを上げようと思った場合、内部で直接的に技術向上のための取り組みをするだけでは足りないと思うのです。
組織がパフォーマンスが上がったと判断するための客観的指標を用意し、その状況を内部に対して報告する必要があります。こういうフィードバックがあればこそ、個々人がどのように技術向上に取り組んだら良いかの判断となるし、どのような取り組みが有効だったかを検証できるはずです。

もちろん、これは概念論です。じゃあ具体的な指標はというと実はかなり難しいです。しかし指導したりチームを主導する立場なら、自分たちの取り組みを自画自賛するだけでなく、謙虚に周りの人からの意見を聞き、それを自分なりに咀嚼した上で、チームメンバーに伝えるだけでもいいのです。
リーダーにあたる人が常に客観的な判断を外部に求めるような態度が重要だと思います。

2012年3月26日月曜日

音律と音階の科学/小方厚

私も前に「音のリクツ」と題して類似の話題の連載をした身として、この手の本は大変気になります。さっと見渡して、内容的には自分にとって既知のものではあったものの、説明の仕方とか、そこから滲み出る音楽観とか、そういう部分において刺激を受けた本でした。

ただし、この本、ブルーバックスだけあって、理系人間を主な読者として想定しています。
数学的な話題もある程度突っ込みますし、数式やグラフを使って分かり易くさせようという意図が、かえって理系的になってさえいます。
しかし、それらは単純な物理的理屈だけではなく、必ずそこに音楽文化としての側面や歴史的側面があり、また一般にはそれほど知られていないような試みへの言及なども記述されるなど、著者の音楽に対する造詣の深さが伺うことが出来、なおかつ読み物として大変面白く書かれていました。

特に第4章からのアプローチは私も全く初めて聞くことで興味深かったです。
どんなアプローチかというと、倍音構造を全く持たない(純音)二つの音がどのような関係にあるとき、人は心地よく感じるか、という研究結果から音階の協和度を考えていくという方法。
まず、二音の関係からのアプローチのグラフは実に面白いです。音楽的な解釈無しでこのグラフを見るならば、二つのピッチが近いほど心地悪く感じ、ほとんど同じピッチになる直前で(同じ音に感じるようになるので)、また心地よく感じるようになります。
実際の楽音での音階上での二つの音程の心地よさは、このグラフを倍音毎に計算し全てを足し合わせたものになると考えます。そこで、一般的な倍音構造を持った音から1オクターブ内で心地よくなる音を探す計算を行ないます。
そうすると、そこで現れるのはいわゆる純正律の音階となります。
この論旨の流れは、私の理系センスをいたく刺激しました。音楽理論とは全く別の観点から、気持ち良い音階が純正律であることを計算で導いているのです。

最終章の音律の冒険も興味深く読みました。全く新しい音律を作ってしまおうという試みがいろいろ紹介されています。今のように電子楽器が発展している時代なら、このような楽器は簡単に実装できそうです。何かネタとして面白そうな予感を覚えました。
個人的には、これはお仕事で使えないかななどと考えています。楽器設計をする若い人には読んでもらいたいからです。

2012年3月22日木曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるーコピー制限について


音楽出版社を巻き込んで、オンラインの電子楽譜データショップが出来たら電子楽譜の存在意義も高まるでしょう。
その際、避けて通れない話題は買ったデータのコピー制限の問題です。

例えば、自分がショップで買ったデータがPDF書類だったとします。このPDF書類にコピープロテクトの仕組みが全くないと、人にタダでコピーしてあげることが可能になってしまいます。
もちろんこの話題は、もう10年以上に渡って議論されたことです。特に音楽配信については、厳格なコピー制限(DRM)をかけることが行なわれてきたのが、だんだんとDRMフリーの流れに変わってきています。また、機器に対する私的録音補償金精度と称して、著作権料を製品価格に上乗せするような仕組みもありますが、これに関しても補償金を払いたくないメーカーの抵抗で、十分に機能しているとは言い難い現状があります。

購入したデータのコピー問題というのは、そういう意味で大変根の深い難しい問題です。
しかしこの件を事前に解決しておかないと、出版社との交渉の際、理解を得ることは難しいと思います。
確かに世の流れは、DRMフリー、補償金フリーなのですが、電子楽譜という新しいハードウェアと新しいデータ市場に関していえば、まずはDRMのような仕組みを作るべきだと考えます。

その理由は、まず楽譜の市場はそれほど大きくないという点です。
音楽データや書籍は、ある人気商品が何十万、場合によっては何百万という単位で売れることがあります。しかし楽譜は万単位で売れることはまれだと思います。特に演奏の難しい楽譜になれば、その販売数は激減するはずです。このような大きさの市場においては、データの価格も多少高めにせざるを得ず、コピー可能であることは音楽出版社にとって死活問題であることが予想されます。
次に、類似商品の少なさです。これから初めて電子楽譜のハードウェアを作ろうとしているのですから(え、誰が?)、まずはそのハードウェアに最適化されたデータが売られるはずです。音楽みたいにステレオの音声が出ればいい、という単純な仕様ではありません。表示の形、ピクセル数、表示速度などハードの性能に合わせたデータ作りが必要になるかもしれません。音楽はどんな環境でも聴きたいと思うからDRMフリーが歓迎されますが、デバイスとデータが密接に紐付けされるのなら、DRMがかかっていても文句を言う人は少ないと思われます。
もちろんこの問題は、実際に端末が売られて数年後に顕著になる話です。DRMはまず対応しておいて、その後に問題が生じたら対策を考えるくらいでも良いかと思っています。

具体的なDRMの方法はどうすべきでしょうか。
これは少々技術的な話になりますが、購入されたデータが例えばPCを利用しても簡単にファイルとして抜き出せないようになっているのであれば、それでも良いと思います。
ただし、PCはやる気になればいくら隠してもファイルを見つけることは出来そうなので、その方法をやるなら少々工夫が必要かもしれません。
もう一つは、データを暗号化することです。暗号化を解除するためには個別のキーが必要になります。個別のキーを作るためにあまり面倒なことをユーザーに強いたくはありませんので、出来れば電子楽譜の機器に固有のIDを振りたいところです。
機器に固有IDを振るのは、製造工程にちょっとだけ負荷がかかりますが、暗号化する場合はそれが最もスマートなやり方のように思えます。

2012年3月18日日曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー新しい楽譜の買い方


ずっと電子楽譜のハードウェアの話をしてきました。
この辺りから、私の専門のソフトウェアの話を書いてみます。

ソフトウェアと言っても、この電子楽譜の機能についてではありません。機能についてはまた別途機会を設けますが、むしろ大事なのは楽譜の入手とこの機器への入力方法です。
そんなの、楽譜の画像をグラフィック用のファイルか、PDFにしてUSBで転送すればいいじゃん、と言って話を終える人もいるかもしれません。多分多くの人はそういう感覚を持っていると思います。

しかし私は電子楽譜にとってむしろ一番大事なのが、この部分ではないかと考えています。
なぜなら、ここにはとてつもないプラットフォームビジネスの芽があるからです。それは一言で言えば、iPodとiTunesでAppleが確立した方法です。AppleはiPodを作り、たくさんの音楽を持ち運べるようにしました。iTunesを使って手持ちのCDをPCにリッピングし、それをまとめてiPodに送るようにしたのです。そこまでならそれほど大きな話ではありませんでした。
しかし、次にAppleはiTunesの中にオンラインのレコードショップを作りました。多くのレコード会社がそれに参加し、iTunes Storeで音楽を電子のまま購入することが可能になりました。確かに、CDの質感とか、リーフレットとか、モノを持っているという満足感は得られませんが、聴ければ十分という人たちのニーズは確実に満たせたわけです。
そして今では、iTunes StoreはアメリカでNo.1の音楽小売りショップとなってしまいました。

もちろん、上記のことはご存知の方も多いことでしょう。では、これと同じことを電子楽譜で出来ないものでしょうか。
つまり、楽譜をスキャンしてPDF化する(リッピングする)ソフトや、そのような楽譜データをまとめて電子楽譜に送るようなPC上のソフトを作ります。そして、そのソフト内にて、オンラインの楽譜ショップを作るわけです。
もちろん本当にそれを実現しようと思ったら、多くの音楽出版社に電子楽譜を売りませんか、という交渉をしなければなりません。これは、世界規模でやろうと思ったら簡単な話ではありません。
しかし、楽譜は一般書籍と違ってそれほど数が出るわけではないけれど、長い間売れ続けるというタイプの商品です。合唱のように団単位で同じものがどっさり売れるというのはレアケースで(そのため合唱は楽譜のコピーが多いのですが・・・)、個人が楽器の練習用に買うケースがほとんど。またオーケストラであればパート譜をレンタルで、というような形でしか演奏用の楽譜を入手出来なかったりします。

このような状況においては、楽譜出版社にとって、楽譜を電子化するのはむしろ大変嬉しいことだと思うのです。
何しろ印刷楽譜の在庫を持たなくていいのです。そのくせ、電子データは将来にわたって売れる可能性がありますから、一度版下さえ作れば、その後は大きなコストがかからずに売り上げが入ることになるのです。
もっともこれは楽譜ビジネスを良く知らない、一技術者のたわごとなので、もしかしたらそんな単純な話ではないかもしれませんが・・・

2012年3月15日木曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー表示やスイッチ


肝心の表示部はどういうデバイスを使うべきか?
これは、液晶ではなく電子ペーパーを使うべきでしょう。今のタブレットは基本液晶です。液晶はカラーも容易だし反応速度も良いのですが、電子ペーパーは省電力であり薄くて軽いです。より紙に近い感覚はむしろ電子ペーパーのほうです。
楽譜の場合、カラーでなくても商品としては成り立つし、動画も基本は必要ありません。電源を切っても表示され、かつ低消費電力である電子ペーパーは電子楽譜の表示デバイスとしてほぼ完璧な特性を持っています。現状、これに勝る選択肢は無いでしょう。

次にスイッチですが、これはちょっと悩ましいです。
電子機器である以上、何かの操作をする場合、全くスイッチが無いというのは難しいです。iPadを始めとするスレートデバイスのようにタッチパネルにするかは微妙なところ。タッチパネルにすれば確実にコストアップするし、Appleみたいにガラス製にすれば楽譜が重くなってしまいます。また電子楽譜の場合、タッチパネルでなければ操作が出来ないわけでもありません。もちろん、ペンで楽譜への書き込みはしたいところですが・・・
ただ、今の時代タッチパネルでないことがそろそろ許されない状況ではあります。この辺をどう考えるかは製品化の際、重要な判断となるでしょう。

仮にタッチパネルを諦めた場合、ページをめくったり、各種機能を呼び出すためのスイッチが必要になります。その場合、電子楽譜の下側に左右スイッチや十字キー、Enterなどが必要になるかもしれません。
ページめくりについては、別途ペダルや外付けスイッチなどがあると、演奏の現場では喜ばれるかもしれません。

ということで、ちょっと恥ずかしながら、これまで書いてきたことを絵にしてみました。

2012年3月12日月曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー軽さについて


本体を別にしてまで軽くする理由はあるでしょうか?

そもそも楽譜ってどのように置かれて使われるものでしょう?
一番多そうなのは、ピアノ、オルガン、キーボードなどの譜面台に置くという使われ方。鍵盤楽器にはたいてい譜面台がありますから、ここに置かれるというユースケースは非常に高いでしょう。
次に、単独の譜面台に置かれるというケース。オーケストラでは、ほぼ全ての団員が譜面台の上に楽譜を置いて演奏します。
そして最後に手に持つというケース。これはほぼ歌う人に限られるでしょう。声楽家や合唱団など。

手に持つ場合は軽いほうが良いに決まっています。
その一方、譜面台の場合は、電子楽譜は重くても良いような気がします。でも実際のところどうでしょうか。世の中の多くの譜面台は製本された楽譜を置かれる前提で作られています。そういった華奢な譜面台に重たい電子楽譜を載せるというのは、かなり不安です。上が重くなって譜面台が不安定になるので、ちょっと触れただけでもすぐに倒れそうです。倒れた時の音の大きさを考えると、音楽的には勘弁して欲しいです。

妙な言い方をするなら、譜面台というのは、楽譜にとってのインフラです。
すでに世の中には大変な数の譜面台が普及しており、これを生かそうと思えば、現状の楽譜レベルの重さであるほうが好ましいはずです。
譜面台の色や形状などもアンサンブルでは揃えたいでしょうから、電子楽譜だけ別の譜面台というのは見た目的にちょっと受け入れ難い選択です。
本当に電子楽譜が普及し尽くしたら、それにあった譜面台というのも考えられるでしょうが、一番最初に電子楽譜を普及させようと思うなら、今の譜面台を使わざるを得ないだろうし、そのために軽さは絶対条件だと感じるのです。

目の前に重い楽譜があると、音楽まで重くなってしまいそうです。そういう見た目や質感というのも演奏行為には重要な要素と考えます。
ですから私としては、電子楽譜にはそこそこの軽さを求めたいのです。紙と同じとはいかなくても、A4のアクリル板くらいの重さくらいにはなって欲しいと思います。

2012年3月10日土曜日

マジメに電子楽譜について考えてみる


この手のネタは以前も書きましたが、マジメにというのは、単なる思いつきだけではなく、本当に商品として成り立つのか、ということを今の私の知識や体験をフル稼働して考えてみようという試みです。同じようなことを考えている人がいたら、意見をもらえると嬉しいです。

現実的に演奏に使うなら、まず大きさと重さがあるラインを超えていかないと実用にならないと考えます。
私の考えるところ、大きさはA4×2が最低でしょう。楽譜は本を読むのと違い、顔の位置と多少の距離が必要です。顔を近づければ読める程度の大きさでは実用になりません。
ピアノの楽譜でもA4版が一般ですし、それを通常見開きで使うのですから、電子楽譜のハードウェアもA4を2枚使うべきだと思います。残念ながら今のiPadでは、大きさもA4の半分くらいですから、本当に見たい領域の1/4程度の広さしかないのです。

次に重さ。これも現在のiPadやタブレットの重さでは厳しいと思います。
もちろんもっと軽くしたいわけですが、それが技術的に無理ということになると、やはりまだ電子楽譜は難しいという結論になります。
ただ、ここでちょっと発想を転換すれば、今の技術でも不可能ではない方法もあるのではないでしょうか。一つには重くなってしまう部分を分離する方法があるでしょう。分離してそれを無線化できると良いのでしょうが、最初は邪魔にならない程度に細いケーブルで繋ぐという手もあります。
一番重いのはバッテリーなので、電源は楽譜から外すことになるでしょう。また楽譜にCPUやメモリを積むのも重くなる要素なので、出来れば表示に関わる部品だけにします。
というわけで、現状楽譜の重さを軽くするのであれば、電子楽譜部分と本体部分を分けてケーブルを繋ぐ、という方法が考えられます。もちろん、使うのはちょっと面倒です。これが耐えられないとなると、この方法では商品化は難しい。無線なら随分楽にはなりますが、結局楽譜側に立派な電装が必要になってしまうのでなかなか難しいです。

楽譜と本体がセパレートになっていてケーブルで繋ぐ、というコンセプトはもちろん実使用上では不便ではあるけれど、それを補うほどのメリットがあるのなら、こういう形もあり得るのではないでしょうか。
(続くかも)

2012年3月5日月曜日

ヒューゴの不思議な発明


なんと半年も映画を観てなかったんです。すっかり映画から離れた生活になってしまいました。
日曜日、急に映画を観たくなって、同時にやっている「TIME」とか「はやぶさ」も気になったけれど、歯車で動き出す機械の美しさに惹かれるようにヒューゴを選んでしまいました。
マーティン・ スコセッシ監督。アカデミー賞でもたくさんの部門賞を取った非常に高評価な映画だけあって、細部まで配慮がされている非常に完成度が高い映画。何でもないことなのに、出てくる人たちの心の動きがとても良く伝わってきて、何度も泣けてきます。

さて、大雑把にストーリーを説明すると、ヒューゴは父を亡くしたあと、叔父に連れられ駅の中に住みながら駅の時計を調整する仕事をしています。半分ホームレスのような少年。その少年が、父の形見である自動機械を直すために部品をくすねるのですが、それを知ったオモチャ屋に捕まるところから物語が始まります。
その後は、オモチャ屋の娘と仲良くなり、二人でまるで謎解きをしていくように、オモチャ屋夫妻の過去がだんだん明らかになっていく、という感じ。

何といっても、ロンドン駅の内側にある時計を動かすための機械たちが美しいのです。
表からは見えない薄暗い裏の世界。そこに無機質に並んだ歯車やゼンマイ、振り子。子供心がくすぐられるような壮大な秘密基地。そこを朝から晩まで縦横無尽に駆け巡るヒューゴは、貧しい少年ではあるけれど,多くの子供たちからみたら羨望の的でしょう。
この少年が生きている世界観を、この映画では実に美しく表現しています。時計台からみる街の夜景も美しい。それはこの少年しか観ることの出来ない絶景なのです。

それから、もう一つこの映画が面白いのは、映画そのものへの愛情に溢れているということ。
後半は実は映画黎明時の映画製作者の情熱を表現するシーンが多くなるのですが、CGや特殊技術がなかった時代にどのように面白い映像を作るのか、そういうことを創意工夫しながら考え続けることの面白さ、まさにエンジニアとしての喜びをうまく伝えていたように思うのです。
機械が自動に動くことへの飽くなき想いと、そのような創意工夫はエンジニア的な喜びの発露であり、そんな気持ちを余すところなく表現していたこの映画は、私のような人間にとってもう感涙ものです。

ちょっと大したことでは無いのだけど、冒頭オモチャ屋の主人が子供を捕まえる場面だとか、駅の公安員が子供を追いかけたりするところとか、子供であってもこのように厳しく対処する、というのはちょっと日本じゃないよな、というか、日本の映画じゃ無いよな、と感じました。
彼らは彼らなりに人間味に溢れているのに、悪いことに対して毅然とし、誰であっても職務を果たそうとする感じはヨーロッパ的な香りを感じたりしました。

実はこの映画、3D版もあったのですが、時間の関係もあって通常版にしてしまったのです。
後で考えると、妙に奥行きのある映像とか、汽車が迫ってきたりとか、背景が非常に広がりのある風景とかがあったので、3Dで観たらまたそれなりに気持ち良かったかもと思いました。
まぁ、アクション映画とかじゃないし、SFや壮大なファンタジーでもない、どちらかというとヒューマン系なので無理に3Dで観ることも無いわけですが。

2012年3月3日土曜日

私たちが好きな音楽


マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンといった有名シンガーが不慮の死で亡くなった後、多くの人たちが二人に弔意を示し、また偉大なアーティストを失ったと嘆きました。
確かに彼らは圧倒的なCD売り上げを誇っており、それは取りも直さず多くの人々がその音楽を聴きそれに感動したということに違いありません。

私自身は、実際のところ興味を持って聴いていなかったので、喪失感といった類いの感情は正直全く感じませんでした。むしろ若くして有名人になってしまったセレブの末路、というようなストーリーに思いを馳せてしまいました。
他人がある音楽を好きだと言っていることを非難するつもりは全くありませんが、あるところで火が付き大衆化してしまった音楽に対して、多くの人々は無批判に受け入れ、他の人と同じように鑑賞し、同じような想いを持ってしまうようです。音楽に関して言えば、それは決して日本だけの現象ではないでしょう。

この世の中に存在する音楽には、その受容のされ方においていくつかの種類があると思います。
よせばいいのに、それをまたまた独断で分類してみます。
レベル1)最低でも1000万人以上に流通した(耳に入った)超有名曲
レベル2)あるカテゴリー(世代、地方、特定ジャンル愛好家)の中で十分に流通した有名な曲
レベル3)世間的にも、カテゴリー内でもそれほど有名ではないけれど、流通経路を持っており、知る人ぞ知る音楽。
レベル4)一般に流通しておらず、ある界隈だけで知られている曲
レベル5)作った人やその家族・知人くらいしか存在を知らない曲

全く共通点がない一般人同士が会話の中で使っても構わないネタは、レベル1に限定されます。もはやマイケル・ジャクソンなどはこのレベルで、世間常識として知っておくべき状態。
ただし芸術においては「知らなきゃいけないから聴いた」という感覚は心の奥にしまわれ、「世間で流行っているから聴いてみたら素晴らしいと感じた」というように多くの人が自己暗示をかけます。
まあ一種の権威主義なんですが、そうやって時代の感覚に寄り添って生きていくことは、むしろごく自然なことと言ってもいいのかもしれません。
それでも、無批判にレベル1の音楽を礼賛しているのをみると、ややその芸術観に底の浅さを感じないこともありません。テレビのコメンテータなども発言を良く聞けば、どの程度の感性で音楽を聴いているかは何となく分かってきます。

レベル1やレベル2に属する音楽は、そこに属しているというだけで多大なアドバンテージを持っており、メディアが発達した現在では、その他の音楽に対して圧倒的に優位です。
実際世の中のほとんどの人は、レベル2までの音楽があればそれ以上のものは要らないのです。
しかし、それしか知られない文化レベルは専門家的な感性からみれば、ちょっと不毛でもあります。これからの時代、ネットで個人の趣味が増幅されるようになれば、もっと好みは多様化し細分化される可能性もあります。そのとき、レベル3以下の音楽で質が伴うものが、広く受け入れられるようになると面白くなっていくのにと感じます。